【短編】あなたは来世にいくつ「徳」を賭けますか?
お待ちしておりました。
この状況を説明すると、あなたは死後の裁判を終えて此処にいます。
此処は私の家で、一階が店舗で二階は自宅です。
素敵な店?
ありがとうございます、気に入ってくれて嬉しいです。
早速ですが、あなたはこれから生まれ変わりをします。転生という表現を好む方もいますが意味は同じです。新たな人生を選んでいただきます。
選ぶと言っても生まれや容姿、そして性別を選ぶわけではありません。強いて言うなら「良いことが起きる確率の高さ」をご自分で決めていただきます。
決めるのに使うのはあなたがお持ちの「徳」です。
徳という言葉が便利で私は使うのですが、耳馴染みはありませんか? 言い換えるなら社会をよくするためにあなたが行った善い事です。
普通のこと?
いえいえ、普通なんてとんでもない。
自分や特定の誰かのためでなく、さらに独り善がりでもない善い事を行うのは難しいものです。
その証拠に、見てください。毎日大勢の人が亡くなっているのにこの店にいるお客様はあなた一人でしょう?
この店に来ることができるのは「徳が1より大きい方」です。
あなたは2徳お持ちです。
この徳は単位と考えてください。
ご自分がどんな徳を積んだか分からない?
ははは、当たり前ですよ。
あなたがどれだけ自分の行いがどんな風に社会に影響したのかは神にしか分からないことです。
はい、あなたの仰るとおり死後の裁判で神は善行と悪行のバランスで判決を下します。
善行のほうが少なく徳が0未満の場合は地獄で罰を受けて徳を0にします。
0になったら地獄を出て転生することができます。
天国行きと言われた者たちのうち、徳が1未満だった者はレーテー川を流れて転生します。
ここは天国か?
皆さんそう聞くのですが厳密には違います。夢を壊すようなことを言って申し訳ないのですが今はもう天国というところがありません。
いいえ、昔はありました。
そのため審判員たちは未だに「天国行き」と言ってしまうのですよね。
三人とも人間だった記憶のせいでメンタルがお爺ちゃんですし変更は難しいそうで……そう言って五百年近くたったのですけれどね。おかげで毎回「ここは天国なの?」と聞かれてこの説明するのも私の仕事です。
天国を失くした理由ですか?
それは天国の人口が増え過ぎたからです。
天国行きの方々は良くも悪くも欲がなくて、先の生に満足しきって転生してくれなかったのです。転生したいって気持ちは主に悔いから生まれますから。
おかげで天国の維持管理費は膨大なものになり、地上の社会は善い事を行う者が減って悪化して、これは拙いということで天国の住民の方々を説得して天国を失くしたのです。
ほぼほぼ立ち退き命令なのですが文句ひとつ言わず、さすが天国の住民です。
我々もそれを見越して実行したのですけれどね……ここまで言っても穏やかに微笑んでいるとは。流石あなたも2徳持っているだけありますね。
私たちも人の善いところに付け込んでいることに良心が痛みましてね。
そのため作ったのがこのご褒美制度です。
いままで貯めた徳を使って来世で良い思い出をしてもらおうプランです。
1徳以上お持ちの使者のみ、このレーテー川の畔に建つこの店にお招きします。
プランの内容は関単です。
お持ちの徳を賭けて来世で良い思いをしやすくします。
あなたは2徳お持ちなので「徳を2賭ける」「徳を1賭ける」「徳を使わない」の三つから選択ができます。使わない分の徳は来世に持ち越せます。
徳を一つ残しておけば来世も天国に行きやすくなるのか、ですか?
理論上は「イエス」ですが、魂の本質は変わらないのでまた来世でも徳を積んで徳が貯まり続けると思います。恐らくあなたのいまの2徳もそうやってきた結果の2徳だと思いますよ。
徳を1賭けたらどうなるかですか?
容姿を例にすると凡庸な者が徳を1賭けることで10人に9人が振り返って二度見するくらいの美形になります。それで必ず幸せになれるわけではありませんが……容姿には興味がない、そうですか。
それでしたら出会いで。落とし物の持ち主がタダの近所の人だったのが、徳を1賭けることで資産家もしくは社会的地位の高い方になります。
いや、出会ったからって結婚する必要はありませんよ?
ただ合縁奇縁と言うようにいい出会いがきっかけで良いことが起こる、かもしれません。申し訳ありません。断言はできません。あくまでも「よいことが起こりやすくなる」というルールなので。
……はい、そうですよね。
説明していてそんな感じはしました。
「徳は使わない」、了承しました。
それでは良い来世を。
ご利用ありがとうございました。
――― *** ―――
お待ちしておりました。
この状況を説明すると、あなたは死後の裁判を終えて此処にいます。
此処は私の家で、一階が店舗で二階は自宅です。
来たことがある気がする?
そうかもしれませんね。
徳の数が10を超えた方々の中にはそう仰る方が時々いらっしゃいます。
それでは生まれ変わりのことも?
薄々、ですか。
あなたの徳の数はいま12です。
どうしますか?
貯めるのが楽しくなってきた、そうですか。
さて本題は終わってしまったので雑談でもしましょうか。紅茶もまだ淹れている途中です。
どうして紅茶が好きだと分かったかって?
前回もお出ししましたからね。
さて、雑談ですが何を話しましょうか。
え、質問ですか?
ああ、外の庭ですか。
ありがとうございます。あなたによく管理できた素敵な庭と褒めて頂けるととても嬉しいです。
あの庭は妻が作りました。妻は植物を育てるのが大好きで、色々な花や野菜が植わっている自慢の庭です。
私の妻も庭仕事が大好きで、暇さえあれば庭に出て土と戯れて……鍬に嫉妬したときは我ながらヤバい奴だと思いました。
なぜ笑うのです?
最愛の妻が私よりも鍬のほうが役に立つと言えばショックを受けて当然でしょう?
庭に出たい? 申しわけありませんが転生する以外の方法であなたがこの店から出ることはできません。
ええ、どうぞ。窓から外を見る分には全く構いません。
仰る通りここには食べられるものが沢山植わっています。野菜や野草に随分お詳しいのですね。流石はその細腕で大勢の孤児を育てた方ですね。
いえいえ、ただの恩返しなどと言ってはいけません。孤児院で育てられた者たちが全てそのように恩返しするわけではありません。
確かにあなたは自分の養い子に殺されてここにいます。
でも決してあなたの行いは独り善がりではなかった。それはあなたがここにいることで証明しています。
あなたのしたことは間違ってなどいない。
死後の裁判は善行と悪行のバランスで判断されます。あなたは今世も十分徳を積まれた。
確かにあなたが養った子どもたちの中には悪い道に進んだ者もいる。しかしそれより遥かに多くの子どもが善良な人間に育った。多くの者たちがあなたを慕っている。
あれはもう孤児院を中心にした小さな村です。
成長した子どもたちは農地を耕して作物と作り、手先が器用なものは物を作る。
文字が読める者や計算ができる者が物を売りに行ってお金を稼いでくる。
あなたはその基盤を作った。
多くの者があそこで笑顔でいる。
あなたの作ったあの村は彼らによってさらに成長していくことでしょう。
それは誇るべきことです。
……すみません、熱くなって柄でもないことを……紅茶をどうぞ。
美味しい?
それは良かった。
このハンカチをお使いください。鼻水、出ていますよ。
ああ、照れ隠しにそんなに一気に紅茶を飲まなくても……仕方がありませんねえ。
それでは良い来世を。
ご利用ありがとうございました。
――― *** ―――
お待ちしておりました。
この状況を説明すると、あなたは死後の裁判を終えて此処にいます。
此処は私の家で……そうです、一階が店舗で二階は自宅です。
よく覚えていますね。
徳の数が三十を超えた方々の中にはそう仰る方が時々いらっしゃいます。
それでは生まれ変わりのことも?
説明は不要、そうですか。
あなたのはいま54徳です。
どうしますかって聞くのも無駄ですよね、分かっていました、「貯める」ですね。
徳のことを覚えていないくせによくあんな真似を……世界を亡ぼす大厄災を止めるなんて。
平民の女性に先頭に立たれたら国から派遣された騎士団の立つ瀬も浮かぶ瀬もありませんよ。彼らの面目は丸潰れです。
騎士たちの中には何人も「無事に帰ったら恋人と結婚する」とフラグを立てていました。あなたはそのフラグ全部ポキポキ折って、彼らのプライドもポキポキ折って……可愛い顔をして酷いことをしたのです。
はい、酷いことです。
教えておきます。
彼らのうち何人かは「平民の女性よりも弱いなんて格好悪い」と笑われて婚約破棄になりました。あれがなければ世界を救ったということで徳が70は超えていたかもしれませんよ。
ええ、そんなに婚約破棄した輩が多かったのです。
全く、なんだってあんな危険なことを一人でやろうとなどと。
結局魔力と共に生命力まで使い果たして此処に来る羽目に……は?
できると思ったからやった?
阿呆ですか、あなたは。
街を守らないといけない気がした……はあ、もう何も文句は言いません。思いきり言いたいですけれどね。
そうそう、やっちゃったことって……なんだってあなたはいつもそう……。
後から悔やむから「後悔」と言うのですよ。
しっかり魂に刻んでくださいね。
私?
……私だって後悔したことは沢山ありますよ。
一番後悔していること?
それを聞きますか……それは妻を泣かせてしまったことでしょうか。
喧嘩?
いいえ、喧嘩もしてもらえませんでした。
妻はいま家出中で……いいえ、居場所を分かっているのですが連れ戻すことはできないんです。
怒っているから……ではありません。
妻は私に……私を……話をしなかったので妻が私をどう思っていてくれるか分かりません。
妻は私のことを覚えていないので。
そんなことがあるのです。
まさか自分にそんなことが起きるなんて誰も思いませんよね、私も妻が私のことを忘れるなんて欠片も想像したことがありませんでした。
浮気をしたからかって?
……よく分かりましたね。
妻の泣く原因の9割は男の浮気。
ははは、弟の妻も同じことを言っていました。
どうして浮気をしたのか?
……どうしてでしょうね。
朝起きると妻が隣にいて、帰れば妻が出迎えてくれて、眠るときは妻を抱きしめて……最初はそのことがとても幸運であることだと分かっていたのに、傍にいてくれることを当然のように思うようになってしまいました。
傲慢な私は妻が傍にいることがどれだけ素敵なことか忘れていたのです。
使い古した言い訳?
ははは……中々痛いところを……本当に、その通りです。
妻に悪いと思わなかったのか、ですか?
……最初は罪悪感がありましたが徐々に薄れていった。周りもみんな浮気しているからと思ったりして……「それが何?」の一言で終わる最低の言い訳です。
でも傲慢な私はそれが罷り通ると思ってしまった。
妻はとても優しい女性で、優し過ぎて自分よりまず相手のことを大事にする。
私は最低なことに妻は私を許してくれると思った。
一番に愛しているのが彼女ならば赦してくれると……。
君だけを愛しているといったときの妻の嬉しそうな顔を私は覚えています。私だけを愛してくれていた妻にとって「一番愛している」という言葉ほどの裏切りはなかったのでしょう。
どうして妻が身を引いたのかを私は分かった振りをしながら理解していません。
私はいまも「どうして」と思っている、傲慢で救いようのない屑なのです。
相談できる人、ですか?
……私の心配なんて……いいえ、ありがとうございます。大丈夫です。兄弟が大勢いるのでそれなりに……なんとかやっていけています。
妻がいなくなったことを知った弟の奥さんには「お前だけは違うと思っていたのに」と散々怒られました。彼女は過激な女性で殺されるのではないかと思いもしました。
いっそのこと死んでしまいたかった。
そう思ったのはボロ雑巾の様になってこの家に帰ってきたときです。妻は別れの言葉なくふっと消えてしまったので家の中は「いってらっしゃい」と見送られたときのままでした。
妻のいた証が家中にあるのに妻だけがいない。一人きりの家は私が点けないと明かりもなくて寒くて、心配した姉が絶えることのない炎を暖炉に入れてくれても寒いのは変わらなくて……。
どうしてあんなことをしたのだろう。
後悔に絶え間なく襲われる日々を過ごしています。
……私の話で随分と時間を無駄にしてしまいましたね。
紅茶をどうぞ。
すみません、少し温くなってしまいました。
ゆっくり飲んでください。
先にご挨拶させていただきます。
それでは良い来世を。
ご利用ありがとうございました。
――― *** ―――
お待ちしておりました。
この状況を説明すると……そうですか。
ご存知でしたか。
あなたの徳の数は今回で108になりました……どうしますか?
話をしたい?
ええ、喜んで。
「此処に初めて来た気がしないのはもう何度も来ているのでしょうか」
「ええ、72回いらしています」
「72回……転生なんて、読み聞かせてもらっていた童話の話だと思っていました」
「そうですよね、自分が転生しているなんて普通は思いませんよね。それで……私のことを覚えていますか?」
「……なんとなくですが」
「……そうですか。私はあなたのことをよく知っていますよ」
「……」
「あなたは優しい人。命あるもの全てを愛し、慈しんでいる。夜露が朝日で煌めくのが大好きで、晴れた日は夜が明ける少し前に目を覚まして庭や畑にいく。そして誰かが呼びにくるまで植物たちの世話に夢中になってしまう。朝のパンには蜂蜜をたっぷりつけるのが好き。食後には必ず牛乳を一杯。寒い日は温めて蜂蜜をここにも入れる」
「うちの領地は養蜂が盛んだったので」
「そうですね。領民も養蜂に積極的だった。みんなあなたが大好きだったから。そしてあなたも領民を愛している。貴女は世界の全てをとても愛おしく思い、とても大切にしていた。そんなあなたが嫌いなものはただ一つ……」
「……やめてください」
「嫌です、止めません」
「どうし……」
「あなたが嫌いなものはミント」
「っ!」
「見ることも嫌で、普段は穏やかな人なのにミントを見つけると焼き払うほどの攻撃性を見せた。どの生でもあなたはミントが嫌いだった。なぜ、あなたはそんなにミントを嫌うのか」
「やめて……」
「嫌です。言ったでしょう、止めません。だってあなたはもう思い出したはずだ。神格を殺した者は徳を積んで許されるまで天界に戻ることはできない。それは自死した神も同じ。そのルールを作ったのはこの俺だ。まさか俺がその判決を君に出すことになるなんて……俺の愛する唯一の妻、俺のペルセポ……」
「やめてと言っているではありませんか!」
反射的に手を振り上げて思いきり目の前の男を張り飛ばした。手がビリビリと痛むのを感じながら、男の頬が赤く染まるのを見る。
相変わらず美しい男性だと思う。
最初の生、いやその生が始まる前に私の夫だった男性。
生きとし生けるものの転生を司る冥界の王ハデス様。
最初の私はハデス様の妻ペルセポネだった。
私はハデス様を愛していた。
ハデス様も私を愛してくれていた。
ハデス様は私を愛さなくなったわけではない。
私に対する態度は何も変わらなかった。
ただ私はハデス様にとって「唯一愛する女性」ではなくなっただけ。
私の目の前にいるときは私だけを見てくれていた。
ただあの子、森の精霊メンテの前にいるときはメンテだけを見ていた。
ハデス様とメンテの逢瀬を見かけたのは本当に偶然だった。
ハデス様だけを愛している私は直ぐにハデス様に気づいたけれど、メンテを抱いていたハデス様は私に気づかなかった。
どうしたらいいのか分からなくて周りの神たちに相談すると「新鮮味なくなり飽きたから」と言われた。
新鮮味ってなに?
ずっと一緒にいたいと言われて結婚した。
それでずっと傍にいたら新鮮味が失せた?
ああ、これはどうしようもないなと思った。
「ペルセポネ様も浮気をしてみては?」と言ったアフロディーテ様になぜ浮気を繰り返すのか尋ねた。彼女は愛の女神、多くの男神たちを愛する女神で「浮気をすると夫を一番愛していることが分かるの」と美しく微笑んでいた。
つまりハデス様は私が一番愛していると思うために浮気をしているということ?
意味が分からなかった。
浮気をすれば分かるのかとも思ったけれど、浮気しようという気にはならなかった。
浮気されていることは悔しいのに、ハデス様だけを愛する気持ちを捨てられない。
これはもう愛し方が違うのだ。
相談相手を間違えたと気づき、少し恐れ多く感じたがヘスティア様の仲介で天界一の浮気者であるゼウス様の妻であるヘラ様に相談してみた。
ヘラ様は夫の二番目に愛する女を殺せば自分は常に唯一だと仰った。
唯一でありたいという気持ちは一緒だったが、殺すという方法には戸惑いを感じた。
メンテを殺す。
妻のいる男に手を出したらその妻に殺されても文句は言えないとヘラ様は仰った。
その言葉に正義を感じたものの、メンテを殺す気にはなれなかった。
神格を持たない精霊を殺したところで罰は受けない。
しかしメンテを殺したことでハデス様に軽蔑されるのが怖かった。
天界からハデス様と暮らす地界に戻るとハデス様の忠臣であるヒュプノスとタナトスが出迎えてくれた。「お帰りなさいませ」という声も表情もいつも通りなのに、ハデス様が浮気していることを思うと彼らへの私の気持ちも少し変わってしまった。
二人はハデス様の浮気を知っているのか。
私が知っているのだから知っているはず、それならなぜ教えてくれなかったの?
私が可愛そうだから?
それとも浮気なんてよくあることだから?
私だけが変なの?
ハデス様の唯一になりたいと思うことは我侭なの?
こんな我侭な私を知ったらハデス様はどう思うだろうか。
こんな私を殺してしまいたい。
そうだ、ミントを殺すことはできないけれど私が私を殺すことはできる。
ああ、そうしよう。
「タナトスから奪った大鎌で君は首を掻き切り死んでしまった。報せを受けて駆け付けると君はヒュプノスの紗に包まれていて、裁判も終わっていて……レーテー川に流されるのを待っていた」
俺は地界の王で、毎日何千も何万も同じことをしている。
死んだ精霊たちだって嫌になるほど見送ってきた。
それでも俺は死を分かっていなかった。
神は不老不死だから、いつか死ぬかもしれないと思って輪廻転生の仕組みに神も組み込んだけれどそれが本当になるなんて……しかも最初に見送るのがペルセポネになるなんて想像さえしていなかった。
現世の記憶を残していると幸せな転生ができない。そう言って今まで数えきれないほどの魂をレーテー川に流してきたのにペルセポネを川に浮かべるまで何日もかかった。
ヘラが突然やってきてその王笏で俺を思いきり殴り飛ばしたあと、ペルセポネが俺とメンテの関係を知り悩んでいたと教えてくれた。
俺の浮気を知ったペルセポネがどうするのか、許すと思っていた俺はどうしようもない馬鹿だ。
男の浮気への対処法など女によって違う。
アフロディーテは浮気を薦めたというし、ヘラはメンテを殺すことを薦めたという。
そしてペルセポネが望んだのは俺を忘れることだった。
彼女らしくて、俺の想像できる限り最も残酷な対処法だったと今でも思う。
レーテー川を流したペルセポネは人間になった。
100年程度の寿命しかない人間の一生。
神からすればあっという間だと思っていた俺の認識はここでも間違っていた。
水鏡を通して彼女を見ているだけの時間はとても長かった。
転生するたびに彼女の姿形は変わったが美しい魂は一切変わらず、彼女はいつも多くの者に囲まれていた。どんな小さなことにも喜びを見出す才能を持つ彼女はいつも笑顔だった。
彼女が男と口づけているのを見たのは偶然だった。
俺ではない男の腕に抱きしめられた彼女は、俺の腕の中で浮かべていたものと同じように微笑んでいた。そんな彼女が幸せじゃないと思うことは自分の中の思い出を否定することだからできなかった。
その先は見ていないが閨での彼女を知っている俺には想像ができてしまった。
彼女との思い出が幸せであればあるほど俺を苦しめた。
ペルセポネが俺とメンテとのことを知ったときの苦しみを初めて体感した。
ペルセポネの72回の人生は色々あったが彼女が善良であることは常に変わらなかった。
別にペルセポネが特別なわけではない。珍しいことではあるが地道に徳を積み続ける人間は一定数いて、その善良な魂を神に好まれてそれまで貯めた徳と引き換えに精霊となったり極稀だが神格を得て神になった者もいる。
こういう者は転生の輪から外れるため俺はなんとなく「そろそろかな」くらい気配を感じる。
ペルセポネからその気配を感じたのはこの前の生の終わりで彼女がレーテー川の畔のあの店に来たときだった。
次にここで会うときは彼女は全ての徳を賭けて神に戻るだろう。
そう思うとその日が待ち遠しく……そして怖かった。
その時の彼女はペルセポネの記憶を持つが俺の妻だったペルセポネではない。
「私はこの先はコレーと名乗り天界に戻ります」
「そうか」
「驚かないのですね」
「なんとなくそんな予感はしていた。君が、いや、ペルセポネが使っていた天界の宮殿は掃除しておいた。リネン類もある、三年くらい前に用意したやつだけれど」
掃除、しておいた?
「まさかハデス様が掃除したのですか? 誰かに命じたのではなく?」
「俺にだって掃除くらいできる。この店の掃除はもちろん二階の自宅だって綺麗にしている。庭の管理だって君に比べれば下手だけれどそれなりに……ただ君ではないからどの子も不満そうだ。もし君が持っていきたいならどの子でも連れていってくれて構わない。二階の部屋もそのままだから、もし持っていくなら……」
掃除? 庭の管理?
ハデス様は天界の最高神の一柱なのに……。
駄目だ、あまりの情報量に頭がおかしくなってしまいそう。
「あの、あまりに急なことですので……大変申しわけありませんが、今日はこれで失礼……」
――― 待って。
「え?」
この声は……あの子?
確かこの家を作ったとき陽当たりのよい一階の窓辺に……ない。
「ハデス様、一つだけ持っていきたいものが……あの、ここにあった水仙はいまどこに?」
「あ、ああ……あれは二階に……持ってくる、ちょっと待っていてくれ」
少し焦ったようにハデス様が二階に向かい、一人になって気まずかったので庭に出た。
転生72回。寿命は20年だったり80年だったりとバラバラだけど平均50年とすると3600年。神にとってもそれなりの時間なのに何一つ変わっていない庭。
ハデス様が天界が恋しくないようにとペルセポネのために地上の光が僅かに届くこの場所に作った家。
この庭も二人の手作り。
石畳のあちこち色が少し違う。
木材や石材は死んでしまっているから庭の草木や家の中の植物のように不老不死の加護を与えられない。私がペルセポネだったときも何回か朽ちてしまった部分を補修した。
あのときのペルセポネはハデス様の唯一だった。
「ペル‼」
荒々しく扉を開ける音と懐かしい呼び名。
「す、すまない。いないから行ってしまったのかと……これ。君が戻ってきてとても嬉しそうだ」
「私も、この子にあえて嬉しいです……花に罪はありませんので」
ハデス様から求婚されたときに頂いた水仙。
それを持っていくなど未練があることと言っているようで恥ずかしいから一言付け足しておく。
「そろそろ行きますわ」
天界への行き方は分かる。
戻ってこいと呼んでいる力に身を任せればいい。
やっぱり私はもうペルセポネではないのだと実感した。
ハデス様の花嫁になり地界の石榴を食べたペルセポネにこの声は聞こえなかった。
天界に戻ったらハデス様と会うことは滅多になくなるだろう。
毎日何千も何万もの使者を裁くハデス様はお忙しい。
いつだったかゼウス様が兄であるハデス様とは千年に一度顔を合わせればいいほうだと言っていたのだから。
「それでは」
ふわりと足が宙に浮く。
人間だったときは逆立ちしてもできないことだったのに違和感がないのは女神だった記憶が戻ったからか。それならこの愛しさもそのときの名残だろうか。
「御前を失礼いたしま……」
「待ってくれ」
ハデス様の声が聞こえたと同時に腕を引っ張られる。
「今度ゼウスと話し合いがあるんだ。帰りに君の宮殿の寄ってもいいだろうか」
「……え?」
「少しでいい。そうだな、紅茶一杯分。俺がそれを飲む間だけ話し相手になってほしい。別に君は何も話さなくてもいい、ただ傍にいてほしい」
紅茶を一杯飲む間。
それは転生前にこの店で過ごした時間。
「……そのくらいなら」
「ありがとう」
嬉しそうな顔に面食らうと同時に絆されたことへの気まずさがある。
「そ、それではさような……っ⁉」
挨拶の途中で大きな手で口を塞がれたことに驚いたけれど泣きそうなその目に言葉を奪われる。
この目を私は覚えている。
転生する前、レーテー川に浮かぶ船に乗り込む私を見ていたハデス様の目。
その目を見るともう二度と会えない人だと思っても「さようなら」とは言えなくて、また会えることを願って私は……。
「またな」
そう、「またね」と言ったの。
「ハデス様、わた……きゃっ!」
私の体が強く上に引っ張られる。
その力に抗えず私はスカートの端を持って礼をした。
「お待ちしております」
ジャンルとタグに悩んでいます。
とりあえずジャンルは「恋愛/異世界」でタグに「人外」をつけました。
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