腹痛カレーの代償と、腹巻という名の封印
「おなかが痛くて……今日は休みたいんだけど」
翌朝、俺はリビングにいたミケとロウに弱々しく訴えた。体は重く、腹はきりきり。昨夜の“あの料理”のダメージが、まだ残っている。原因は明白。俺が自作した、地獄のカレー。問題は、それがただの“不味い”では終わらなかったことだ。
まさか――
「ナノマシンが……効いてない……?」
呟いた瞬間、自分でも寒気がした。身体を自動修復するはずの高性能ナノマシンすら、あの料理には手を出せなかった。まるで“異物”として避けたかのように、何の作用も示さない。
そんな俺の訴えに、ミケが額に手を当てて天を仰いだ。
「ナノマシンが作用しない料理って……エクス、それ、センカ様よりひどいじゃない!」
狐耳がぴしぴしと揺れる。これは本気の呆れ反応。
「……味は、勝ってたと思いたいです……」
絞り出すように反論してみたが、声が弱すぎて説得力もない。
次の瞬間――
ぐるるっ……
「……あっ、トイレ!」
お腹の訴えは一切容赦なく、俺は立ち上がるや否やリビングを飛び出した。背中でミケの嘆き声が聞こえた気がする。
「ほんとに加減ってものを覚えなさいよねー!」
「ほんとに加減ってものを覚えなさいよねー!」
ミケの小言を最後に、今日一日――俺は“強制休養日”となった。
今、俺はリビングのソファーに深く沈み込み、完全に脱力した体を横たえている。胃腸はまだ不穏な気配を残していて、動く気にもなれない。
正面のソファーでは、ミケが膝に毛糸玉を乗せながら、ゆったりと編み物をしていた。あの狐耳がリズムよく揺れ、尻尾も穏やかにたなびいている。今どき編み物なんて珍しいけど、妙に似合ってるのが悔しい。
一方、もう一つのソファーでは、ロウが複数のホロディスプレイを展開していた。画面には、新作のスキンケアや化粧品のパッケージと成分表がずらりと並んでいる。成分解析、効果の組み合わせ、適正値の比較――さらには独自の配合パターンをシミュレートして、別画面に淡々とメモを取っている。
……まさにプロの仕事。
そんな静けさの中、俺はふと弱々しく声を上げた。
「ミケぇ~……なんか、腹に優しいやつないか?」
狐耳がぴくりと動いたあと、ミケは深くため息をついた。
「……はぁ。仕方ないわね。ちょっと待ってて」
そう言いながら、彼女は手元の編みかけを一旦脇に置き、キッチンへと立ち上がる。尻尾をひょいと跳ね上げて、軽やかに歩いていった。その様子を眺めながら、ロウがちらりとこちらに視線を向けた。
「エクス。甘え上手ね♪」
「……今日は否定しない」
言い返す元気もなく、ただ目を閉じる。なんだかんだで、甘えてしまってる自覚くらいは――ある。
「はい」
そう言って、ミケが湯呑をテーブルにそっと置いてくれた。湯気がふんわりと立ち上る。それだけでも、ちょっと癒される。
俺は上体を起こし、恐る恐るひと口。
「……白湯?」
「無理しない。今は、これで十分よ」
狐耳を軽く揺らして、ミケが穏やかに微笑む。ありがたい。確かにありがたいんだけど……できれば、ほんのちょっとだけ味が欲しかった。いや、口には出さないけど。うん、出せるわけがない。
俺はそっと湯呑を戻し、もう一度ソファに沈み込む。
反対側のソファでホロディスプレイを操作していたロウが、ふと顔を上げた。
「ミケ。今のスキンケア、まだ余ってる?」
「あるにはあるけど、そろそろ在庫が減ってきてるわ」
編み物を再開しながら、ミケが返す。
「なら、こっちに切り替えた方がいいわね。今のより成分が安定してるし、新しく追加された抗酸化成分も入ってる。保湿力も上」
「え、そんなにいいの? でも……少し高いわね」
「まずは少量で試して。たくさん使えばいいってもんじゃないわ。肌に合うか、ちゃんと確認しないと。事前の分析はしてるけど、実際の反応は使ってみないと分からないから」
ロウの声は、いつも通り冷静でブレない。……けど、俺には完全に異世界の会話。なんかすごい成分とか、抗酸化とか言ってるけど、俺にはちんぷんかんぷん。
「……でも、高いわよね」
「報酬は均等分けしてるんだから、買えるはずよ?」
ああ、そういう話になるんだ。俺はそっと目を閉じた。この会話に入り込んだら、きっとスキンケアだの、肌診断だの、なんか面倒な流れに巻き込まれる。――今は静かに寝ていよう。そう心に決めて、俺は白湯を飲み干し、再びソファにごろんと寝転んだ。ぬるくなった湯が、胃にじんわりと染み渡っていく。――今度こそ、ようやく静かな時間が訪れる。
そう思っていた、その矢先だった。
「ミケ、それ……何を編んでるの?」
向かい側のソファでホロディスプレイを閉じながら、ロウが何気なく尋ねた。するとミケは、ふんわり笑みを浮かべながら毛糸玉をひょいと持ち上げた。
「エクス用の腹巻よ。もうお腹を壊さないようにね♪」
……は?
寝転がっていた俺は、その言葉で半身を起こした。
「な、なんで!?」
思わず声が裏返る。ミケはまるで当然のように、狐耳をピクリと揺らして答える。
「だって、戒めにもなるでしょ? 二度と料理なんてさせないわよ」
その笑顔は、あまりにも穏やかで――あまりにも容赦がなかった。まさか腹巻で封印されるとは思わなかった。ミケ、まだ根に持ってたのか……!
俺は不貞腐れたままソファに寝転び、ふいっとそっぽを向く。
「エクス。すねないの」
後ろからミケの呆れ混じりの声が飛んできた。――いや、違うんだ、ミケさん。俺が反対を向いたのは、拗ねたからじゃない。ごめん。見ちゃったんだ。さっき横になった時、ふとした拍子に視界に入ってしまった。しかも――なぜ、黒……?
いやいやいやいや、俺は悪くない。わざとじゃない。事故だ。完全に事故。でも、忘れようとすればするほど、なぜか鮮明になっていく。頼むから記憶よ消えてくれ……!――無理だな。うん。絶対に無理だ。
俺はそのまま、何もなかった風を装いながら、顔をクッションに埋めた。そして、そっと目を閉じる。このまま眠れたら……少しは楽になれる気がした。




