リビングに満ちる香ばしさと小さな幸せ
リビングルームに戻ると、香ばしい匂いが空腹をくすぐった。前方のパノラマウィンドウには、中継施設の巨大ドックが映り込み、〈ホーム〉はすでに格納アームで固定されている。
ミケがキッチンで鍋を振りながら、狐耳をわずかに伏せた。
「ずいぶんのんびり堪能したみたいね」
「ミケはまだ入っていないのか? あれは本格的な銭湯だった。自動掃除だからカビの心配もないし、設備も行き届いている」
「感想が自動掃除とカビって……まあいいわ。そのうち私も入るわ。もう少しで出来上がるから、ロウに連絡を入れておいて」
「了解。すぐ通信を入れるよ」
俺は手首の端末を起動しながら、湯上がりの余韻にぼんやりと浸った。ミケの尻尾が楽しげに揺れ、鍋からは香ばしい匂いがリビングいっぱいに広がっていく。
「ロウ。そっちはどうだ? もうすぐ飯なんだけど、これそうか?」
『ええ、大丈夫よ。すぐに向かうわね』
「了解」
通信を終え、俺はソファへと腰を下ろそうとした。
だが、その瞬間――
「エクス。お皿とスープ皿、準備して」
ミケが振り返りざまに声をかけてきた。狐耳を軽く揺らしながら、尻尾も柔らかく弾んでいる。
「え~。ミケは俺のメイドだろ?」
「そうだけど、手伝いくらいしてもいいんじゃない?」
ミケはくすっと微笑みながら、鍋を手際よく振り続ける。
「はいはい、わかりましたよ」
俺は苦笑しながら立ち上がり、キッチンへと向かった。
「食器は、壁のボタンを押せば出てくるわ」
「これか」
壁面に設けられたパネルを押すと、静かに引き出しが開き、食器類が整然と並んで現れる。やたらと種類が多い気もするが……まあ、気にしないでおこう。
「何でもいいのか?」
「見た目にこだわりがなければね。あっ、それとサラダ用もお願い」
「はいはい。これと、これらでいいかな」
俺は適当に中華模様があしらわれた皿を選び、ミケの横にそっと置いた。
「ありがと。うん、エクスにしてはまあまあのセンスね」
「なんだよ、『俺にしては』って」
少しむくれながらも、悪い気はしない。
「じゃあ、盛り付けするから、テーブルに運んで頂戴」
ミケは尻尾をふわりと揺らしながら、鍋を軽やかに振る。そして、香ばしい匂いを立てる炒飯を手早く皿に盛り付けていく。
――やべぇ、めっちゃうまそうだ!
思わず見とれていると、ミケが狐耳をぴくりと動かしながら鋭い声を飛ばしてきた。
「ぼーっとしない。持って行って」
「おう! 楽しみだ!」
俺は笑いながら、香り立つ皿を両手に取った。 ――よし、若干量が多いやつを俺の分にしておこう。
そんな小さな画策を胸に秘めながら、手際よくテーブルに皿を並べていく。
そのとき、玄関の扉が静かに開き――
「あら、良い匂いね。ミケ、ありがとう」
ロウの朗らかな声がリビングに響く。 ミケは狐耳をぴこりと揺らし、鍋を置きながら応じた。
「良いのよ。難しい交渉や手続きをしてくれるんだもん。お互い様よ」
「そう言ってくれると助かるわね」
ロウはにっこりと微笑み、そのままソファへと腰を下ろす。
――が。
(そこ! 俺が量多めにした皿の位置だ!!)
俺は心の中で叫んだ。 しまった――もっとさりげなく自分の前に置くべきだった!
ソファに座ったロウは、ごく自然に、その“俺の狙っていた”炒飯の皿へ手を伸ばす。
(あぁぁぁ……!)
俺は悲しい気持ちを抱きながら、そっと、普通盛りの皿へ手を伸ばした。 諦めきれない思いを押し殺しながらも、香ばしい香りに腹の虫が情けないほど鳴く。
キッチンでは、ミケが手際よく鍋や調理器具を食洗器へと片付けていた。 尻尾が軽やかに揺れ、耳も小さくぴくぴくと動いている。その動作一つ一つに、いつもの丁寧な性格が滲み出ていて、思わず見惚れてしまいそうになる。
やがてミケもリビングへ戻り、俺たちと同じソファに腰を下ろした。 これで全員そろった。
「いただきます」
三人揃って声を合わせると、ほんのりとした温かい空気がリビングを満たす。 俺はレンゲを手に取り、早速炒飯を一口頬張った。
――うまい。
思わず目を細めた。 ぱらりと炒められた米粒に、ふわりと広がる卵の香り。 刻まれた野菜と小さな肉片の旨みが絶妙に絡み合い、噛むごとにしっかりとした味わいが広がる。 中華スープの湯気が立ち上り、炒飯との相性も抜群だ。
「……ミケ、これ、めっちゃうまいぞ」
俺は思わず感嘆の声を漏らした。 それに応えるように、ミケは耳をふわりと揺らし、少し照れたように微笑む。
「そりゃそうよ。修行したんだから」
「なるほどな。納得だ」
俺はもう一口、また一口とレンゲを進めた。 噛むたびに広がる香ばしさと優しい味に、自然と手が止まらなくなる。
その様子を見ながら、ロウが軽やかに笑った。
「エクスって、本当にわかりやすいわね。美味しいとき、がっつく癖があるもの」
「そうか?」
「そうよ! 私、注意してるでしょ? はしたないって!」
ミケがぴしりと指摘する。 思い返せば、何度も肘打ちをくらった記憶が蘇る。 ……良かった。今はソファも少し距離があるし、肘は飛んでこない。
「わかった。なるべく直すよ。けど、美味いから、抑えようがないじゃないか」
「……そう言ってくれるのは、嬉しいんだけど」
ミケは少し困ったように眉を寄せ、それでも口元にはほんのり笑みを浮かべた。 耳が柔らかく伏せ、尻尾もゆったりと揺れている。 きっと本心では、俺が美味しそうに食べる姿を喜んでくれているのだろう。
「でもね、エクス。これからは依頼人に直接会う可能性もあるんだから、きちんとしなきゃダメよ」
ロウがやや真剣な口調で付け加える。
「普段の食事でも、ちょっとした所作が見られるわ。ギルドでも、商会でも、見てる人は見てるから」
「……そりゃ、そうだけど」
レンゲを止めた俺に、ミケがそっと微笑みかけた。
「大丈夫。シエル様に教えて頂いたことをすればいいんだから」
「だな。……ミケ、間違ってたらこれからも指摘してよ」
俺は素直に頼んだ。 すると、ミケの耳がふわっと跳ね、尻尾も嬉しそうにふわりと揺れる。
「任せて」
彼女は小さくウィンクしながら、手際よくサラダを取り分けてくれる。
「二人とも、いい関係ね」
ロウが小さく呟き、微笑みながら食事を進めた。
俺は気恥ずかしさをごまかすようにスープをすすり、湯気の向こうに顔を隠した。
――穏やかで、温かなひととき。
そうして、リビングには小さな幸福感が、静かに満ちていった。




