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鈍色レメゲトン  作者: 畑中真比古
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風太 12歳 夏

 そうたいして高くも大きくもない山脈が、やっぱり柔らかな落ち着いた線で屏風でも立て回したように静かに取り巻いている里山の奥。その木々のトンネルを抜けた先にある、ぽつんとしかれた田んぼを前に、少年は渦巻く猜疑の心を持て余して立っていた。


「センセー、ここでなにしてんだよ」

 放射線状に暴れる白髪の下に、ギロリと光る半月のようにつり上がった瞳。一見すると粗暴そうな少年は、その禍々とした目でセンセーを睨んでいた。


「……お前こそなにしてる? ここは危ないぞ」

 センセーは二階建ての一軒家ほどの大きさの岩屋を前に、振り返った。ちょうど岩屋を息継ぎなしで3周回ったところで、少し苦しそうに肩で息をしていた。いつも柔和な表情を崩さないのに、このときは違った。邪魔者が来た、そんな顔だった。


「ギンになんか用か?」

「ギン? ……【跫音きょうおんの狼】のことか」


 歪な形の小さな田んぼの真ん中、そこにズンと鎮座する岩屋には、暗い穴が穿たれている。さっきまで風一つなかったのに、田んぼに波紋が広がり、周りに茂る雑木が揺れ騒ぐ。


「お前、よく一人でここに来るんだってな。仲いいのか?」

 センセーは片手で眼鏡をくいとあげた。もう片方の手には、見慣れない古びた本が携えられていた。


 ……チャ、チャ、チャ。


 岩の洞から、爪で岩床をひっかく足音が聞こえてくる。センセーは田んぼで足を濡らしながら本を構えた。


「なーおい、センセーよぉ。……何してんだって聞いてんだよ」少年は気怠そうな口調とは裏腹に疑念をいっそう強めて橘に歩を進めた。「村のジジババがよぉ、センセーが若えやつらをたぶらかして、どっか連れてくつもりだっつってたんだけど……。まじじゃねえよな?」


 ああ、そのことか、とセンセーは薄ら笑った。「お前も一緒に来るか? いや、来ないだろうな。お前にはこいつらがいるから」


 岩の暗がりから、銀色の毛並みをした一匹の狼が姿を現した。【跫音の狼】、息をせずに岩屋を3周すると現れる、厄災をもたらすとされる神だった。


「……どういうつもりだ、お前」狼は人語を操り、目の前の優しくも軽薄な男を睨めつけた。


 センセーは狼の凶眸に冷や汗をにじませつつも、その視線を真正面から受け止めた。そして、縮こまる勇気を鼓舞するように叫んだ。


濁濁だくだくたる地のあかし!」


 センセーが急にわけのわからない単語を放つと、彼の頭上が水滴を垂らした水面のように歪んだ。


 空中に広がる波紋の狭間から銀色に光る長い体をくねらせながら、巨大な太刀魚のようなものが現れた。赤い背広を棚引かせて、陽の光をぎらりと反射しながら悠々と空に円を描いているその様は、災害の前触れとされる深海生物――リュウグウノツカイだった。


 何もない空間から突然現れた深海魚に、少年は言葉を失った。


「……永久を侍る狂い渦」


 センセーはお構いなしに意味をなすとは到底思えない言葉の羅列を吐き続け、それに応えるように田んぼの水は激しく波立ち、周囲の大気は湿り気を帯びていった。


「……満ち 流転し 白日を注ぐ」


 リュウグウノツカイの背びれが波打ちながら赤く明滅する。


「謳えよかいな青蛇令せいだのれい!」

 声高に叫ぶセンセーに呼応し、リュウグウノツカイは威嚇するように狼へ向かって怒れる背びれを逆立てた。水田の水が激しくうねりって鎌首をもたげた。まるで意志をもった龍のように、それは空を激しく震わせながら、一切を押しつぶさんと狼に激突した。その圧力たるや、ひと1人など粉微塵に押し潰してしまうほどだった。


「ギンっ!」


 狼を飲み込み、浮力を失った水がスコールのように激しく地面を叩いた。雨が止むと、洞のそばには変わらず四足で立つ狼の姿があった。その周りには無数の紫炎が浮いている。


「そんな!」男は持てる最大限の攻撃を叩き込んだはずだった。にもかかわらず、狼は平然と立っていた。その瞳にははっきりと敵意が宿り、男の心臓を射抜く。狼狽えた男にできることはといえば、反撃に備えて距離を取るくらいだった。が、狼は紫炎を漂わせるだけで襲ってはこない。


「……」自分のすぐ後ろにそれる視線を見遣ると少年が立っていた。どうやら巻き添えを避けて攻撃できずにいるらしかった。これを利用しない手はなかった。


「銀閃 を穿ち 虚空へ散れ、流水刃りゅうすいじん

 センセーがまたもやなにかを唱えると、足元の水が無数のナイフの刃となって少年を囲んだ。


「ちょ、お、おま」突然凶器に囲まれて少年は硬直した。

「跫音よ、そのまま動くなよ。動けばこいつに穴があくぞ」

「……やっぱりお前は――」


 ぞん。狼がなにか言いかけた刹那、その首が地に落ちた。岩床には鋭い刃物で切り裂いたような亀裂が刻まれていた。センセーに攻撃の気配はまだなかった。


「……ギ、ギン?」

 少年が状況を飲み込めないうちに、狼の体は横倒れにゆっくり地に臥し、首からは生気が抜け落ちていく。


「……くそ」

 獲物を横取りされた狩人のように、センセーは忌々しげに中空のなにかを睨んだ。


「……嘘だろ、おい」

 狼のもとに駆け寄ろうとして、水刃が少年の皮を割いた。

「っつ」痛みが少年の足を妨げ、彼はただその場に立ち尽くした。


「そこで見てろ。なに、死んだわけじゃない」

 センセーが狼に近づくと、切断され横たえた体が霧散し、くすんだ色の短剣に変わった。


「横槍が入ったが、まあノルマは達成だな」

 狼だったものを拾い上げながら、センセーは少年を一瞥した。


「俺はこのまま行くよ。伝蔵でんぞうさんによろしくな」

「お、おいおい。まじかよ。センセーどうなってんだ?」


 これまで兄のように慕っていた男の過激な行動に、頭がまったくついていかなかった。変な噂が流れていたとは言え、まさかこの村で祀られている神を殺すなんて。


「おい、ギン。ギンはどうなったんだよ? お前、殺したのか? ギンを殺したのか?」

「はは、お前呼ばわりか。まあ仕方ないよな。……もう少しそこで大人しくしといてくれ」


 そう言うとセンセーは、短剣を弄びながら少年の横をすり抜けて行った。

 この日、少年は古の友達と気の置けない兄を失くした。いや、もっと大勢の、心の拠り所を。

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