08
本館に近寄らないようにしながら、コテージの生活は既に二週間が過ぎていた。
誰にも邪魔されず快適な生活だ。
アシルも活発になり、広い公爵家を探索している。
ずっと屋根裏部屋に閉じ籠っていたので、のびのびと駆け回る姿を見るのは喜ばしい。
屋敷間の移動が馬と言う程広い敷地には、庭園も一つではない。異国風の四阿がある庭園。噴水がメインの庭園。バラのアーチや小路を田舎風にアレンジした庭園。
沢山あるここの庭園は、どれも素晴らしかった。
この池の畔のコテージの回りも、近くに林もあり、山の避暑地の別荘にきた感覚に陥ってしまいそうだ。
ここで、何にも気にせず生活をしているとうっかりクロードの事を忘れてしまう。
快適で、どんどん元気になるアシルに気を取られていたのだ。
ある日、ジゼルと三人で散策していて、大きな門まで来てしまった。
門番が、ジゼルを見ると気軽に声を掛けてきた。
「ジゼルじゃないか? 久しぶりだな。えーとそちらの方は?」
リュシーは全く奥方とは認識されていなかった。ここで本当の事を言うには、アシルもいるし気が引ける。
「こんにちは、私はリュシーと申します。住み込みで、こちらのお坊っちゃまの家庭教師をしております」
「おおそうかね。あなたのような先生がいるなら良かった。アシル様の事は侍女から聞いていたから、心配をしていたんだが・・・元気そうなご様子で安心しました」
門番の名前はルーベン・エンベルト。50歳。彼は一見怖そうなお顔だが、話しをするととても穏やかで優しい。
そんな彼だからこそ、心底アシルの無事を喜んでいた。
この屋敷にはまだまだ心優しい人がいるに違いない。少しずつアシルの味方になってくれる人を増やしていこうとリュシーは考えた。
肩書きは公爵家奥方のリュシーだが、クロードの言葉一つで簡単に追い出されてしまう弱い立場である。
追い出されてしまった時、アシルを今までのように孤立無縁の状態で一人にしたくなかった。
それと、リュシーがいる間だけでも、アシルを籠の鳥ではなく、色々な経験をさせたいと考えていた。
「ルーベンさん、私たちが屋敷の外に出るために、護衛を頼みたい時はどうすれば良いでしょうか?」
門の外をキラキラした目で見ているアシルの世界を、広げてあげたいと考えていたが、さすがに公爵家の息子をふらっと外に連れていくのは危険すぎる。
「この屋敷の騎士団に相談するといい。わしの後輩が現在団長をしとるんで、話を付けといてやろう。団長はウルバーノと言う男で・・いい奴だから、安心して欲しい」
気軽に話しただけで、うってつけの人に繋がった。騎士を探していたら、いきなり騎士団長に繋がった。
リュシーはアシルを連れて外に出る日が遠くないと、喜ぶ。
そして、ルーベンの仕事は、リュ
シーの想像以上に速かった。
その日の昼間に、ウルバーノ・ピエラ騎士団長がコテージに来たのだ。
気持ちの良い陽気に誘われて、コテージの外でリュシーはアシルとジゼルの勉強をみていた。
アシルが字の勉強を始めると、ジゼルがそれを真似て地面に書いていた。それを見たリュシーが、一緒に勉強をしようと誘ったのだ。
ウルバーノ・ピエラ騎士団長が来たのはそんな時だった。
「ははは、まるで野外教室のようですね」
短い青い髪に、黒い制服を着た青年がこちらに大股で近寄ってくる。
リュシーは、大きな剣を腰に佩いた男に警戒し、アシルを後に隠した。
横のジゼルの反応は、口に手を当てて、リュシーに何かを伝えようと、口をパクパクさせている。
ジゼルのそんな様子に気が付かないリュシーは、母性本能を全開で発動させて、アシルを守ろうと力が入る。
「あの、お名前をお伺いしてもよろしいですか?」
青年はリュシーの警戒心露な声に、歩みを止めた。
「ああ、ごめん。ルーベン先輩から聞いてると思って・・・俺の名前はウルバーノだよ。これでも騎士団長してるんだ。宜しくね、家庭教師のリュシー先生」
「ああ!?」
リュシーは間抜けな声を上げてしまう。
ルーベンの後輩で、騎士団長と聞いて、すっかりダンディーなおじ様だと思い込んでいたのだ。
「これは、こちらからお伺いしないといけない所を・・・ごめんなさい」
騎士団長さんの年齢は何と24歳。アシルの味方を作ろうとしているのに、失敗してしまった。
慌ててぶんぶんと頭を何度も下げて謝る。
「いいよ。騎士団長には見えないって言われてるし・・それより、アシル様を連れて外に出たいんだって?」
あっさりと許してもらえ、ホッとする。
「そうです、ずっと小さな世界しか知らなかったアシル様に色んな所を見せて上げたいのです。お付き合い願えますでしょうか?」
ウルバーノは爽やかな笑顔で、「いいよ」と言ってくれた。
「俺も含めて騎士団のみんなは、アシル様と殆ど関わりがなくて、お屋敷の中で、どう暮らしているか心配していたから、こうしてお会いできて嬉しいよ」
ウルバーノは、リュシーの後ろに隠れているアシルに跪いて、礼をする。
「アシル様、ご用があればいつでも騎士団の訓練場へお越しください」
少し安心したアシルが、リュシーの後ろから出てくる。
「あの、僕、騎士の人みたいに強くなりたいんだけど、教えてくれる?」
ウルバーノはアシルに、どうして強くなりたいのか尋ねた。
「リュシーを守れる様になりたいんだ」
真剣な顔で頭を下げるアシルに、ウルバーノは頭をポンポンと撫でる。
「大切な人を守ろうとするのは、男の基幹だ。明日から毎朝一時間練習しましょう」
なにやら、男同士で決まってしまったが、リュシーはまだ小さいアシルに剣など、早いのではないかと心配になる。
でも、男二人の間に口だし出来ず、そのまま突っ立っていた。
「クスッ。リュシー先生、そんなに不安そうな顔をしないで。アシル様に怪我をさせる様なまねはしませんよ」
不安が顔に出ていたとは言え、どんな顔をしていたのか?とリュシーは恥ずかしくなって自分の顔を両手で包み隠した。
ここで本来の用件を思い出し、隠していた顔を上げる。
「あの、お越し頂いたわけはアシル様に外の世界を見せてあげたくて、騎士の方に護衛をお願いしたいのですが・・・」
ここまで言ってから、流石に騎士団長に直接お願いをするのは、恐れ多いことなのでは? と歯切れが悪くなってしまう。
「はい、分かりました。それなら俺が行きましょう」
騎士団長、自ら護衛を?・・・恐縮過ぎると怯んだが、折角のご厚意を無にするのも申し訳ないと思い直す。
「もし明日ウルバーノさんに用事がないなら、朝から市場に出掛けたいのですが、どうでしょう?」
「では、アシル様の稽古が終わったら、出掛けましょう」
爽やかな笑みを残し、ウルバーノは再び大股で去って行った。
翌日の朝、アシルは朝早くから、起き出してウルバーノが迎えに来てくれるのを待っていた。
心配なリュシーはその訓練場に着いて行くと言ったが、アシルから強く反対された。
ウルバーノが時間通りに来たのに、リュシーが「本当に着いて行かなくて大丈夫なの?」
としつこく言って、アシルに「絶対に来ないで」と念を押される問答を数回繰り返していた。最後に漸くリュシーが断念して出発したのだった。
アシルが訓練に出掛けてから、リュシーは何をしても手に付かない。
刺繍をすれば、手に針を刺す。食器を洗えば割る。雑草抜きは美しく咲いた花を抜いてしまう。
何もやる気が起こらず、ソファーに腰掛けていると、元気なアシルの声が玄関から聞こえていきた。
リュシーは飛び出していき、アシルの身体検査を始めてしまう。
「どこか怪我はされていませんか?」
真剣なリュシーの行動に戸惑いながらも、アシルの顔は面映ゆい顔になる。
「こんなに僕を心配してくれたのは、リュシーが初めてだー」
その間にも、リュシーはアシルの頭や腕、足、背中を見ようとするのでアシルが逃げ出した。
「も、も、もう大丈夫だって」
「本当に大丈夫なの?」
その様子にウルバーノが笑う。
「君たち二人は親子の様だね」
「「え?」」
リュシーとアシルは顔を見合わせる。
リュシーはここで本当の事を打ち明けようか迷った。
二人は義理とは言え、親子には変わりない。だが、すぐに追い出されてしまうかも知れない自分が『母親』を名乗っていいのだろうか?
それに折角仲良くなったアシルに拒絶されるかもという恐怖で、何も言えなかった。
アシルの方も、リュシーが母親ならどんなに嬉しいだろうと思ったが、そんな叶わない希望を口にすると、この今の生活までもが消えそうで、慌ててそこから逃げ出す。
「僕、着替えてくるから待っててね」
アシルがコテージに入って行くと、リュシーは不安そうに見送った。
「リュシー先生、大丈夫。今日は剣の持ち方と構えの練習で怪我はしてないですよ」
ウルバーノはいつまでもリュシーが不安そうなので今日の練習方法を細かく説明した。
「ウルバーノさん、ありがとうございます。私も男の子は少しくらいの怪我は付き物だと思ってはいるのですが・・・心配で」
「じゃあ、明日アシル様の訓練を見に来てください。アシル様からは見えない場所を教えて上げますよ」
リュシーの顔が、パァーッと明るくなる。
ウルバーノがクスっと笑う。
「心配性のお母さんって感じだね」
『お母さん』といワードにドキドキする。
実際にそうだと言えずに、隠している申し訳なさが込み上げる。
「あれ?今二人で何の話をしていたの?」
リュシーは、着替えを終えて出てきたアシルの声にビックリする。
「そんな事より、早く市場にいきましょう?」
誤魔化すためのリュシーの下手な演技だったが、アシルの関心がそちらに向いた。
「うん、行きたい!」
市場近くまで馬車に乗る。
これも、アシルにとっては初めての経験だった。
「うわぁー、リュシーこの中には、ふかふかのソファーがあるよ」
大ハシャギだ。
それは走りだすと、もっと大きくなる。
「あの建物は?」「あれは何をしているの?」
馬車の窓に貼り付いて離れない。
リュシーは一つ一つ丁寧に教える。
彼に教えることは、リュシーにとって楽しい事だった。
今までアシルの好奇心と言うスポンジは、乾いていた。
でも、これからは知識の水をいっぱい注ぐ。アシルはその水をどんどん吸い込んで行くのだ。
アシルはリュシーが教える事を素直に覚える。そして、考えその応用を覚える。
それは、今日教えたウルバーノも感じていた。
そして、このアシルの素直さは、色々な分野の先生を増やす事になる。