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ターナ侯爵の顔が近付く。
動けないリュシーは、歯を食い縛った。
その時、扉が勢いよく開く。
「ダーリン! 帰って来たわよ!!」
そう言いながら入ってきたのは、マティルデだ。
彼女は、テーブルの上の二人を見て、一瞬は口を開けて固まっていたがすぐに目を三角に吊り上げ、足を踏み鳴らして近付く。
「ちょっと、なーに私の男に手を出しているのよ!!」
マティルデは、組敷かれているリュシーを見て、自分の男を誘惑していると勘違いした。
「何を言っているんです?! こんな男を誘惑する訳ないでしょう!! 私が愛する人はクロード様唯お一人です!!」
マティルデはリュシーの服の乱れを見て、フンッと鼻で笑う。
「どうだか? それより、ダーリンも浮気なんてしないでよ!アメリテーヌにも手を出したでしょ?!!」
せっかくの遊びを邪魔されたターナ侯爵は興が逸れたのか、無愛想に答える。
「は? アメリテーヌはあいつから誘ってきたんだ。それより俺は浮気なんてしてないぜ」
「今、してるじゃない!!」
キーキーと甲高い声で話す女に冷ややかな声で返答した。
「お前は初めから俺の手駒で、今は・・もう用済みってとこだな」
おもちゃに飽きた子供のように、マティルデには見向きもせず、リュシーの赤毛で遊びながら手下、に命令を下す。
「そいつにはもう用はない。始末しておけ」
さらっと言われたその言葉を理解出来ないマティルデは、手下に引っ張られるが、棒のように硬直した足は動かない。
「用はないって・・どういう・・・ことよ・・?」
悔しさにわなわな震えるマティルデに、興味を示したターナ侯爵が、ようやく彼女を見た。
リュシーから手を放し、テーブルに腰かけて青ざめるマティルデを嘲笑う。
「お前には、隣国から禁止されている『ゼダ』を密輸するための隠れ蓑になってもらえりゃよかったのさ。王国で『ゼダ』を売り捌き見つかりそうになった時は全責任をお前に被せて、俺はお前に騙されていたかわいそうな男になりきる手筈だった。その賠償にコルネイユ公爵領も少々頂くつもりだったんだよ。だが、お前は契約書すら破棄できなかった。手駒にもなれやしない。本当に使えない女だったな」
ターナ侯爵は、言い終わると手下に連れていけと顎で指図をした。
呆然として連れていかれるマティルデを、リュシーが手下を突き飛ばして止める。
「この人は殺させない!!」
マティルデの手を引いて開けっぱなしのドアから逃げた。
「追え!!」
手下に命令したターナ侯爵は、さっきまで掬って遊んでいた赤い髪の毛がなくなった手を見ていた。
逃げたところでドレスを着た女二人が、逃げ果せる筈もなくすぐに捕獲される。
リュシーとマティルデを前に、ご機嫌のターナ侯爵は、リュシーと続きを楽しもうと考えていた。
しかし丁度、部屋に入ってきた手下の報告を受けて、その考えは中止せざるを得なくなる。
「ターナ侯爵、『ゼダ』の荷物が運び込まれました。品質のチェックをお願いします」
「仕方ないな。リュシー残念だが続きはその後だ。待っててくれ」
ターナ侯爵はリュシーにウィンクして、二人を地下牢に入れておけと指示し部屋を出ていった。
薄暗い牢屋はかび臭く、長い間使っていなかった事が分かる。
天井から染みでた水滴がマティルデの顔にかかった。
いつも化粧崩れを異常に気にするマティルデが、その水滴を垂れるがままにしている。
その横でリュシーは、牢の中で這い回る虫よりもターナ侯爵のウィンクを思い出し、身震いする。
「何が『待っててくれ』よ。何としてもここから出ないと・・」
うろうろし、出口がないか探すリュシーに、マティルデがボソッと問いかけた。
「・・・何で私を助けたの?」
ブロンドの髪の毛をかきあげて、上目遣いにリュシーを見ているその瞳はどこまでも青く美しかった。
(やはり、クロード様はお母様似なのね)
クロードもたまに上目遣いで、リュシーにお願いをしてくる事がある。
その色気に負けてリュシーは、ついついクロードの閨でのお願いを聞いてしまい、朝には後悔するのだ。
「大切な人の、特別な人だから助けたんです」
マティルデは意味が分からないという風に、目を見開いた。
「特別って・・・あいつにとっては、私なんてだたの厄介者よ」
マティルデはそんなことも分からないのかと言わんばかりに肩を竦めた。
「あら、でもお義母様の為に、わざわざお義母様好みの趣味の・・・煌びやかなベッドを用意させてましたよ」
「今あなた、『趣味の悪い』って思ったわね?」
怒るかと思ったマティルデは、フフと笑い小屋を思い出していた。
「そう言えば、私好みの・・趣味のいいベッドが置いてあったわね」
ここで、マティルデの声が少し柔らかくなる。
「あの子ったら、わざわざ忠告してくれてたわね」
あの子とはクロードの事らしい。
『アイツ』呼びから『あの子』に呼び方が変わったのは、気持ちの変化の現れかしら? とリュシーは期待する。
「ターナに見つかれば殺されるって・・・あれでも私の事を心配してくれていたのよね。こっちはあの子を殺そうとしていたのに・・・バカな子・・・」
クロードをバカと言われてリュシーが反論しようとしたら、マティルデがリュシーをじっと見て、フッと笑う。
「それに、あんたもバカよね」
マティルデの微笑んだ顔が、優しく女神のようだったので、リュシーは、夫婦揃って『バカ』と言われたのに、ついついこんな状況なのに笑ってしまった。
「あーあ、なんでこんなになっちゃったのかしら?」
マティルデは少し考えてから、話し出した。
「夫を愛そうと初めは思っていたのよ。だけど、夫はそう思ってなくてすぐに他の女と浮気をしたのよ。浮気相手から取り返そうと躍起になっていたら、妊娠しててさ・・・。私の体がどんどん膨らんでいくと見向きもされなくなっちゃった。そしたら、こうなったのはこの子のせいだって、クロードを勝手に憎んで遠ざけたのよ。本当に私がバカだったわ。愛が欲しかったのよ。でももっと無垢な愛が目の前にあったのに気が付かなかった・・・」
「『お母様』」
昔、幼いクロードが呼んでくれた声がマティルデに聞こえた。
「!?」
声のした牢屋の前には、アシルが立っていた。
「!!アシッッ・・・」
リュシーは、叫びそうになった声を寸での所で止めた。
今度は小声で問う。
「どうやって、ここに?」
驚いているリュシーにアシルは「シー」っと口に人指し指を当てる。
壁に掛かっていた鍵で牢屋の扉を開けると「こっちだよ」と幾つも牢屋が並ぶ地下牢のさらに奥へと二人を導いた。
地下牢は行き止まりだったが、アシルが壁の煉瓦を外すとレバーがあった。
アシルがそのレバーを握って下に下ろすと、床下に階段が現れた。
階段を下るとその脇にまたレバーがあり、それを上げると今度は天井が閉じた。
「ニコラがこの地下のからくりを教えてくれたんだ」
どや顔で自慢するアシル。
このからくりについてマティルデは知らなかったのか、「なぜ、庭師の息子が知っているの?」と複雑な表情でぼやいている。
この地下通路は奥に行く程、天井も低くなり、通路自体の幅も狭くなっていく。
このせいで子供のアシルは四つん這いで進めるが、大人の細身のリュシーはギリギリの大きさで、マティルデに至っては匍匐全身でしか進めなかった。
「なんでこんなに小さな穴なのよ・・・」
ずりっずりっと少しずつ進む音と、マティルデのハーハーと苦しげな息が通路に響く。
それと・・・
「昨日、ケーキを三つも食べるんじゃなかったわ」
「お尻が引っ掛かって動けないわ!! あっ・・抜けたわ。ふーふー全く私の体型を考えてほしいわ!!」
とマティルデの愚痴が絶え間なく聞こえた。
確かにクロードが買ってきてくれた、あのケーキは美味しかったと、リュシーも同感だった。
牢屋から距離も離れ、リュシーはアシルに漸くさっきの質問をした。
「ねえ、どうしてアシルが来たの? こんなに危ない所に寄越したのはだあれ?」
アシルをこんなに危険な敵地の中に潜り込ませたのは誰なのか、リュシーはずっと腹を立てていたのだ。
だが、アシルが答えやすいように優しく歌うように聞いてみた。
その明るい声に、アシルの口も軽い調子で詳しく教えてくれた。
「この計画をしたのはお父様だよ」
「えっ!! クロード様が?」
つい口調が強くなってしまうが、すぐに優しく言い直す。
「へー。お父様がアシルに囚われている私を救って来いって言ったのかな?」
「お父様は僕に屋敷に残っていなさいと言ったよ。ここに行って欲しいと頼んだのはニコラだよ。ここの要塞には、昔領地に来た時によく遊びに来てたんだって。要塞の中に入り組んだ秘密の通路があるから、リュシーを見つけて来て欲しいって言われたんだ」
(ニコラだったのね!!
ここから出た暁には覚悟しなさい!)
リュシーの怒りが出口で待っているニコラに届いたのか、彼は悪寒が止まらなくなっていた。