雨上がりの崖
Aには友人があった。
いや、友人というよりはむしろ、Aを現世に繋ぎとめる重石のようなものだ。
もとは親同士の決めた関係だった。Aの祖父はかつて、医師である友人の父に命を救われた。それ以来、祖父は彼を一族の専属医師と定めた。
医師は祖父に比してまだ若く、Aの父親と同世代で、ちょうどAと同年代の息子Bがいた。Bは父親の跡を継いで医師になることに決まっていたので、祖父はAにBを引き合わせ、生涯共に生きるものと思うよう言いつけたのである。
Aは初めのうち、家業を継ぐよう強いられているBに対して、共感に由来するささやかな好意を抱いていた。しかしすぐに、Bと自分の境遇はひどく異なることに気が付いた。
Aの一族は古くから続く地元の名家で、跡取りのAはその地域から出ることもほとんどなければ、高校に通うことも許されていなかった。家の近くには山と田畑しかなく、Aができるのは精々が、代々管理している寺社の手伝いをしたり、テレビのある親戚の家に遊びに行ったりすること程度だった。何か間違いがあってはならないというので、山や川で遊ぶことはおろか、一人であちこち出歩くことも難しかった。この辺りでは現在も戦前の身分意識が残っていて、近くの農家もAを畏れるかのごとく距離を取るのだった。
一方のBは近くの町暮らしで、バスと電車を使って都会の高校に通い、予備校にも行かせてもらっている。市街地には山ほど店があり、自分一人で外食することも許されているそうだ。この前は高校の修学旅行で新幹線に乗ったと話していた。Aは中学の修学旅行すら休まされたにも関わらず。
Aはそれでも、年が近く、唯一深い交流の許可された対象であるBのことを、嫌い遠ざけるわけにはいかなかった。
Bは毎週一度、日曜日にAの元へやってくる。Bは時折、カセットテープとラジカセを持ってきては、最近の曲だといって聞かせてくれ、あるいは雑誌なり漫画誌なりをこっそり鞄に忍ばせて、家の大人に見つからないよう読ませてくれた。読み物といえば蔵に詰め込まれた、新しくとも数十年前の本か、日に一部の新聞ぐらいのものだったため、Bの持ち込む様々なものは貴重な情報源だった。
Aはまた、Bと様々なことを話した。
「高校というのは楽しいかい?」
「さあ。そんなでもないと思うけれど」
そつない返答だった。
「だけど同い年が沢山いて、偉い大学を出た先生に、いくらでも勉強を教えてもらえるんだろう。暇することがないじゃないか」
「退屈は確かにしないけれどね」
「そうだろう。何の不満があるんだ」
Aは自分の口調がきつくなりすぎたように思って、Bの表情をうかがい見る。Bはこちらを静かな目で見返してきた。
「別に、君の勉強が楽だろうとか言う気はないんだ。ただ、俺はもう、退屈なのが嫌なんだよ」
「それはそうだ。君はいつも退屈しているもの。ここで暮らすのは本当に大変だろう」
Aはぱっと表情を明るくした。
「全くだよ。分かってくれるのは君だけだ」
Aはそのうち、より露骨に閉塞感を吐露するようになった。
「俺は死ぬまでここにいないといけないんだ。もう葬式のやり方まで決められてるんだぜ」
「あのお寺でするのか」
「ああ、そうだ。俺は何にも許されないまま、決められた通りにこの家を継いで子供を作って、それだけで死ぬんだ。仕事に出て稼ぐことも、好きな娘を見つけて結婚することもなしに、言われたことしかできずに。これじゃ体のいい奴隷だ」
「たまったものじゃないね」
Bの同情的な答えに、Aはとうとう言った。
「これだったら今死んだって同じだと思わないか」
Bは戸惑うように瞬きする。
「なあ、そう思うだろう? 奴隷は人じゃなしにモノなんだ。モノなら死ぬってことはない。もともと生きてすらないんだから。俺は生きてるんでなしに、ただ退屈を感じる仕組みになってるだけの人形なんだ。どうせなら何も分からなくなった方がずっと楽だ」
Bは眉をひそめて、珍しく批判的な反応をした。
「めったにそういうことを言うものじゃないよ。生きてても死んでも同じなら、どうせなら生きていたらいいじゃないか。生きてて死ぬことはできるけど、いっぺん死んだらもう生きることはできないよ」
「君は本当には俺の心を分かってないんだ」
Aは唾を飛ばしながら言い返す。
「いいか、何一つ自分で決めずに生きて死ぬなんて、そんなのは全くの無駄だ。無駄な人生なんだよ。自分の全部の感情が無駄であることほど、屈辱的なことがあるか。老人になって死ぬときに、俺の人生には一切の自由がなかったと悔いながら死ぬんだぜ。それも、死の間際まで、もしかしたら明日、自由になれるかもしれないと思いながら生きるんだ」
呆気に取られているBに、Aは一瞬言葉を詰め、そしてふと、笑った。
「そうだ、君が僕を殺してくれよ」
Bは目を見開いたまま、弱々しく首を振った。
「今の君はどうかしているんだよ。人生をそんなに悲観して、一体どうしたっていうんだ」
「悲観なんかじゃない、全く妥当な見立てだよ。祖父も父もそうやって生きている、俺だってそうだ、同じになるんだ。でも今死んだら同じじゃなくなる。あいつらみたいに退屈で恥ずべき大人にならなくて済む」
「君のお父さんやお祖父さんが、そんなに悪い大人には見えないよ」
「君はたまにしかここに来ないから、そんなことが言えるんだ。なあいいだろ、俺は君にだったら殺されたって構わない。いや、それしかないんだ。独りで死んだらそれこそ退屈だ。誰かが俺のために、俺の人生を終わらせてくれたら素敵だ、そう思わないか」
Bはまた小さく首を振って、ようやく答えた。
「今日はもう帰らないと。また来週に気が変わっていなかったら、僕をもう一度説得してみるといい。今日は駄目だ」
Aは梯子を外されたように、急速に興奮が醒めてしまった。
「分かったよ、それじゃあ来週だな。でも気は変わらないと思うよ。俺はここ何年も、そう思い続けているんだから」
二人は一緒になって、坂道を歩いて上っていた。
本来なら車で通るような、山間の細く長い道路で、歩道もなかった。二人は汚れたガードレールの横を、全くの無言で歩き続けた。今日は朝から弱い雨が降っていて、新聞の天気予報によれば、下手をすると三日ほど長引くかもしれないとのことだった。
山の中腹辺りに、二本の道路が崖の上と下に並ぶところがある。上側の道路は山を巻いていき、下のものはまた別の山へ向かって、トンネルや峠をいくつも越えて遠い町へと続く。間の崖はコンクリートで固められていて、木などは生えていない。
二人はようやく上側の道路に辿りついて、下を見下ろした。
「やあ、綺麗に見渡せるな。これはたちまち死ねそうだ」
Aは少し早口で言った。
「なんせ下はアスファルトだ。この高さなら死に損なうこともないだろうね」
次々に言葉を足しながら、Aは傘を畳んでガードレールに立てかけ、道路の端まで歩を進めた。空気は雨の中、凪いでいた。Aは心臓が早鐘を打ち、息が浅くなっているのに気づいていたが、そのままガードレールを乗り越えた。
「いい景色だよB。ここで死ぬのは案外と素敵な選択だったかもしれない。俺はこの辺にこんなに素晴らしい場所があるとは知らなかった」
Aはガードレールに掴まったまま振り返り、笑ってみせた。
「さあ、背中を押してくれ。なに、軽く手を添えるだけでいいんだ。俺は誰かに殺してもらったってつもりになりたいだけなんだから。君だってあんまり直接に人殺しを味わいたくないだろう」
Bは黙って自分も傘を畳んだ。そして、おもむろにガードレールに脚を掛けた。
ガードレールを乗り越えたBは、Aがせわしなく瞬きをする横に、ごく平静な表情で並んで立った。
「一体ぜんたいどうしたんだ」
上ずった声のAに、Bの向けた微笑は柔らかい雨で濡れていた。
連日の雨はようやく明けたものの、まだ道端は湿っており、日の光で所々光って見えた。
この辺りでは珍しい、高校生頃の若者は、崖下にそっと花を供えた。黒と灰色の続く道路に、花束は目に痛いほど鮮やかだった。
若者はしばらく黙っていたが、やがて踵を返し、今来た道を戻っていった。
数十分後、崖の上に、先程の若者の姿が見えた。
お題:友情×退廃
毎週日曜日に習作を投稿しています。




