父と娘
カーリは昔から馴染みのある護衛の騎士たちと、ドアの前で顔を見合わせ、ため息をついていた。
主の朝の支度を手伝いに部屋に入ったカーリだったが、その主が着替えを拒否し、寝台から出てこない。カーリにとって、こんなことは初めてだ。どう問いかけても、今日は出かけないからいい、と言うだけで、主はまともに答えなかった。
「一体どうしたんだ」
主の父親――シンザがやってきた。
シンザはもう一度カーリに部屋に入らせ、様子を報告させた。セレイザはまだ寝台の中にいるらしい。
「セレイザ、入るぞ」
返事をしていないのに、前侯爵の父親に部屋に入られてしまったセレイザは、いやいや身を起こした。
「ちょっと……頭が痛いだけ。私は出かけないから、みんなには今日一日、暇をあげて。せっかくカッシアに来ているんだし」
シンザは腰に手を当て、まじまじと娘を見た。
ちょっと頭が痛いだなんて、子どもの頃修練所に行きたくない時と同じ言い訳だ。
あの時はティノーラがすぐに、セレイザが修練に疲れきっていることに気づいた。魔力が異常に高かったため、他の子どもよりずっと長い時間訓練ができてしまったからだ。普通はほとんど休日はないのだが、ティノーラは所長と話をつけ、セレイザを適度に休ませた。特にゼクトとジェイが屋敷に来ている時は、休暇を取らせ存分に遊ばせた。おかげでセレイザは厳しい修練を乗り越え、五つも適性を持っていながら、一般的な年齢で卒業してしまった。
あれも母親の目が見抜き、娘にとってよい方向へと導いた。シンザではなかった。
「まったく……。カーリを困らせるものじゃない」
「明日の朝には帰るんだから、暇をあげるのはいいじゃない」
「まあ、それはいい考えかもしれないが――」
少し考えてから、シンザは一旦部屋を出た。待っているカーリと騎士たちに、セレイザの頭痛がよくなってもならなくても、親子水入らずで過ごすから今日はよい、と言って、一日の暇を与えた。カーリたちは戸惑っていたが、シンザは大丈夫だと笑って送り出した。
シンザは再びセレイザの部屋に入ると、椅子に腰を下ろした。セレイザは相変わらず寝台の上にいる。
「……それで、どうしたんだ。まさかエナ様と喧嘩でもしたのか」
「そんなことしてないわ」
「じゃあファレム様か」
「――違う」
「そうか……ファレム様か」
「どうしてそうなるの」
「今のはわかるさ。父親でも」
セレイザは口を結んでシンザから目をそらした。まる一日前、セレイザはここで父親の勘違いに苛立っていた。でも間違えていたのは自分だった。
「俺たちもせっかくカッシアに来ているんだ。いい加減に着替えなさい。少し歩こう。俺もレイティエに詳しくはないが、一か所だけ見せたいところもある」
「……どこへ行くの」
「心配しなくても、さっきファレム様はエナ様と外出されたようだ。部屋から出てもお会いすることはないだろう」
シンザは、廊下で待つと言って出ていった。
ファレムと顔を合わせたくないと見透かされていた。
公館から南へ向かって父娘でゆっくりと歩いていた。
平民の街と海運の街では、北大陸の特徴を持つ者もたくさんいるが、さすがに貴族の街では珍しい。だが街を歩く者も店の者も、シンザたちの見た目を特に気に留めることはない。西大陸とはそういう地だ。
シンザは、ジェイは土産を買う暇がなかっただろうからな、と言って、いくつか店をのぞいた。妻や長女へ何を買うかセレイザにも意見を求めながら、何点か買い物をした。
あるところで通りを曲がって階段を下りた。シンザがセレイザを連れて行ったのは砂浜だった。
フェデルマの薄茶色の砂浜とは全然違う。真っ白だ。セレイザは不思議に思って砂を手ですくってみた。それはただの砂粒ではなかった。何かがごく細かく砕かれたようなものだった。粒をよく見れば丸い形も見えるが、棒状のものや、木のように枝分かれしているものや、うずを巻いて見えるものも、星型に見えるものもある。
「これ、お星様のお砂……?」
「そうだ。よく覚えていたな」
「カッシアのお土産だったことは覚えてなかったわ」
セレイザがまだ小さな頃、皇帝とカッシアへ来たシンザは、これを瓶に詰めて土産に持ち帰ったことがある。本当は命を終えた珊瑚が砕けて砂となったものらしいが、エリセとセレイザはお星様のお砂と名付けて飾っていた。
「すごい……こんなに一面に」
今いる砂浜は、すべてがこの真っ白な砂だ。カッシアではこれが普通なのかもしれないが、セレイザにはとても幻想的だった。街を背にしてこの砂の上に立ち、真っ青な海だけを見ていると、絵物語の中に入り込んでしまったような心地がする。
「ありがとう、お父様。来てよかったわ」
「そうだろう? カッシアはいいところだ」
セレイザはしゃがみこむと、もう一度砂を、今度は両手ですくってさらさらと流した。
しばしの沈黙の後、シンザは娘の隣で立ったまま、水平線の向こうへ目を向けて話を切り出した。
「――ファレム様と……喧嘩をしたわけではないんだろう?」
白い砂が、セレイザの手からすべてこぼれて落ちた。
「求婚されたのか」
「……うん」
「……そうか――」
ファレム様は、俺の言葉をそちらでお受け止めになったか……シンザは心の中でつぶやいた。
セレイザは、カーリがいなかったのでおろしている髪で表情を隠すように、じっと足元に落ちた砂を見つめていた。
「お父様……私は、卑怯な人間だったみたい」
「……ん? 何の話だ」
「すぐにお断りするべき……いいえ、しなくてはいけなかったのに、言葉が出なかったの」
「それは……断らなくてはと思ったが、……断りたくなかったということか」
「……」
やはり、セレイザは断る道を選んでいた。ティノーラの思った通りだ。
セレイザのカッシア行きが決定した後、シンザはファレムの気持ちを、リューベルト以外に初めてティノーラに明かした。三年前一緒に港へ行かなかったティノーラは、気づいていなかったので驚いていた。そして言ったのだ。
「まあ……それじゃあ、二人は想い合っていたということじゃないの」
セレイザが断れず無理にシェレンへ行くことになったら、王家相手だろうが俺は抗議するぞ――と言おうとしていたシンザは、面食らって妻に詰め寄った。
「セ、セレイザは……ファレム様のことをお慕いしているのか?」
「シェレンの旅のことを話していたあの子を、私が見る限りはそうね。でもねえ、あの子、自分でわかってないわ。たぶん、私たちの呪いを解いてくださった方への敬愛、そんなものと履き違えてる。だから、もうお会いすることも難しいお相手だし……私はそのままでいた方がいいと思っていたのだけれど」
動揺するシンザに対して、ティノーラは平常心に見えた。有事には人が変わるが、普段は落ち着いている……というより、のんびりと構えている。妻は昔からそうやって、おっとりとして冷静に周りを見られる女性だ。
ティノーラは、セレイザがこのまま自分の気持ちに気づかなければ、自然とこの恋は終わると思っていた。かわいそうだが、それが一番傷つくこともないと思い、余計な指摘はしなかった。
だが、再会したら気がついてしまうかもしれない。まだそこでもはっきりわからなくとも、もしファレムに想いを告げられたら、さすがのセレイザも、自分の中の好意を自覚するだろう。
「じゃあセレイザは、シェレンへ行きたいのか……」
「何を言っているの。セレイザはああ見えて、下手な騎士より義理堅いところがあるのよ。きっと断るわ」
過去、実際に差別の視線を向けられているセレイザは、自分がシェレンにそぐわないことを認識している。たとえファレム本人が望んでくれても、セレイザは自分がいて良い場所ではないから断るしかないと考えるだろう。それは彼の立場を守るための配慮であり、それしかできることがないのだ。
「そうなってしまうのが一番かわいそうね……。ねえシンザ……セレイザとファレム様が不幸せにならないよう、しっかり見守ってあげてね。できるなら選びたいものを――せめて納得できるものを選び取ってほしいものだわ」
俺に何ができるんだ……シンザはその時も、本当はティノーラが見守るべきだと思った。
レイティエに到着した時、グレッド家の一人として先に下船したシンザは、他の者がハヴァードと周辺に気を配っていたのに対し、ファレムの様子を盗み見ていた。セレイザを見つけた時の彼の動揺が、シンザにはわかってしまい、少なからず心が痛んだ。
ティノーラの言うように、義理堅いセレイザが、自分の気持ちを優先することはないだろう。だからファレムの想いが三年前と違えば、何も起きはしない。
しかし、変わっていなかった。
シンザは父親として、大切な娘が一番悲しまない道を行かせたかった。
ファレムとはお互いの気持ちを知らないまま別れ、いつかフェデルマで似合う相手と穏やかな結婚生活を送らせてやりたかった。
だからファレムに対して、著しく礼を欠くことを承知で、威嚇と取れる言葉を投げた。
だが、迷いが拭えなかった。若い二人の大切な気持ちを、自分が遮ってよいのだろうかと。
威嚇の言葉の裏で、父親と同じほどの覚悟でこの子を守れるのか、と問うていると取られてもよいと思った。そこでファレムが黙るのなら、それで終わりだ。
しかし、もし彼が、シンザの問いかけに応えてくれるのなら――
「セレイザ……本当は断りたくないなら、それもきちんと伝えてみればいい」
「……ファレムさんは、何も言えない私に、もういいとおっしゃったわ。でももし、正式に返答が必要なのなら……お父様、お願いできない?」
「もちろん、もう当主ではないが父親だからな。お前が本当に断りたいのならそうしてやる」
「……本当に……だって――」
セレイザは砂浜に爪を立てた。
「他に、あるの? 私はファレムさんのお役には立てない。それどころか、邪魔になる。王族の妻となる人は、民から認められる人間でなければ……私は、絶対に認められないわ。私への嫌悪が、ファレムさんにまで向くかもしれないのよ」
ファレムや、きっと彼の兄王子たちも、北大陸との融和政策を進めてくれる。だからといって、擦り込まれてきた民の忌避感をなくすのは、容易ではない。それが本当に消えるのは何十年と先の話だろう。今ではない。
「それなのに、私は――」
セレイザの声は、少し震えている。
「……うれしいって、感じてしまったの」
シンザは水平線から、白砂に金色の髪の先が落ちるほど俯いている娘の背中に視線を下ろした。
「あんなに親身になって助けてくださった方に……ただひと言辞退をお伝えすることもできなかったの。私は、卑怯でだめな人間だった……」
セレイザは、意見ははっきり言うよう教育を受けてきた。三年前の当時は、遥か上の身分だったオルジェにだってディアンにだって、自分の考えを述べてきた。
セレイザはファレムに対し、救ってくれた感謝の他には、ただ一人似たちからをもつ者同士の特別な親近感を覚えていた。
感謝と親近感――そのつもりだったのに、一緒に生きていきたいと言われた時、感じたことのない感情が胸に広がった。
その感触に戸惑いながらも確かにうれしいと自覚した瞬間には、自分では絶対にだめだとも理解していた。すぐに辞退しなければと、頭ではわかっていたのに、口からは言葉が出なかった。挙げ句の果てに何も言わないで逃げ出した。今もだ。
「……人が自分の幸せを望むのは、当たり前のことだ」
「相手の負担になってでも? 王子として築いてこられたものをきっと私が壊してしまうのに? ……そんなの私だって幸せじゃない……。申し訳なくて恥ずかしくて、顔向けできないの……だから、ごめんなさい、お父様、代わりに――」
シンザは、顔を伏せてうずくまる娘の隣に腰を下ろした。立てた膝に腕を乗せ、しばらく黙っていた。
選びたいものを選び取ってほしい――妻の言葉だが、シンザだって同じだ。それが悩みも困難もない道だったなら、安心して送り出せるのに――
セレイザとファレムの行きたい方向には、道がないのだ。進むためには傷ついてでも切り開く以外にない。それでも、切り開けないかもしれない。
そんなところに娘を放り込みたい父親はいない。
しかしこのままセレイザをフェデルマに連れ帰っても、もう以前と同じには戻らない。シンザが歩ませたかった幸せを、セレイザは辿らないだろう。
シンザは、ティノーラのように振る舞えない。娘の気持ちを理解し、寄り添い、相談相手になるなんて器用な真似はできない。
ただ、父親としての想いを伝えるのみだ。
「セレイザ、俺はできれば言いたくはなかったんだ。一度しか言わないから、ちゃんと聞きなさい」
セレイザはのろのろと顔を上げ、父の横顔を見た。その目は薄く濡れていた。
「三年前、ファレム様はお前の負担になりたくないと、何もおっしゃらなかったんだ。そんなファレム様が今回は、結婚を望まれたのだろう? 今お前が言ったことを、ずっと王族であられるファレム様が、まるでお考えになっていないとでも思っているのか」
「三年前……私の、負担?」
セレイザは伏しがちだった目を少しだけ見開いた。
シンザはそんな娘に視線を向けた。
「そうだ。今回の、このレイティエじゃないんだ。三年前からだったんだよ」
「……三年……」
三年前のセレイザは、解呪だけが最優先だったと思う。その他のことなんて、すべて二の次だった。
「また会えるとも知れない、手紙ひとつの交わりもなかったのにな。……ファレム様は、それほど強く想ってくださっているということだよ。……それは、本当はお前もなのかもしれないな――」
シンザの瞳が、一度痛そうに揺れた。
「それなのに、お前は本心も明かさず、自分で直接話しもせず、俺が断って、本当にそれでいいのか?」
「……確かに……それは……恩のある方に対して、失礼だとは思うけれど……」
「そうじゃない。もう俺には、ファレム様が命の恩人だとかは重要じゃないんだ」
セレイザはその言葉に少なからず驚いた。
だが今のシンザにとって大切なのは、帝国騎士としての生き方などではない。
フェデルマの人間には聞かせられないけどな……とシンザは少しおどけるように笑いながら、セレイザに顔を合わせた。娘を慈しむその目は、昔からいつもずっと温かい。
「セレイザ、お前に取り返しのつかないことをさせたくないんだよ。もしファレム様が王子ではなく恩人でもなかったなら、どうしていたんだ? 自分が本当に望んでいるものをちゃんと見なさい。相手にもちゃんと伝えて、話をしなさい。その上で決めるんだ。一人で決めて何も告げずに逃げてしまえば、一生の心残りになるぞ」
「……お父様……」
――お兄様を恩人として扱うのも、私はもう必要ないと思うの。
セレイザの中で、エナのあの言葉の意味が胸に落ちたような気がした。兄の気持ちに気づいていたエナは、セレイザが不必要なほど彼を特別視していることに憂心を抱いていたのだ。
そして父は、娘自身よりも娘の未来を深く考えてくれていた。
セレイザは父親の前で、細い涙を流した。
シンザは帝国騎士の象徴のような人物だが、セレイザが涙を見せても咎めることなく、静かにハンカチを探った。
「……うん、ありがとう……お父様………」
「もちろんその結果、フェデルマで平穏に暮らす道を選んでくれた方が、俺はうれしいんだがな」
シンザはハンカチを渡しながら微笑んだ。
セレイザは受け取って涙を拭いた。人前で泣くのは苦手だが、今の父の前ではなぜか平気だった。
「……びっくりしちゃった。まさかお父様が、受けた命の恩をないがしろにすることを言うなんて」
帝国騎士の矜持にもとる発言だった。
今まで本当にたくさんの騎士を、剣や乗馬の技術面からも精神面からも育ててきた、元帝国騎士団長とは思えない。
騎士として守るべきことを差し置いてでも、父として娘に後悔のない選択をさせることを優先させたのだ。
「ああ……はは、俺の弟子たちには内緒にしておいてくれよ」
父と娘は、笑い合った。