橋
船着き場に一番近い屋台で、道にはみ出して並べられているテーブル席に座った二人は、入港してくる荷船を見ていた。
夜中の入港なんてセレイザは初めて見る。松明を掲げたレイティエの人夫が数人がかりで、船が桟橋に激突しないよう誘導している。船を操っている方も見事なものだ。船はゆっくり、ゆっくりと、無事桟橋に横付けされた。
「なんだか見ている方が緊張しますね」
「彼らはあれが日常なんだけど、俺たちは見慣れていないからね」
船乗り相手の店には紅茶などない。セレイザは一番弱いお酒を口にしながら、船が手早く係留され、夜中まで働いていた船員たちが降りてくるのを見守った。
このグラスが空になったら帰ろう。セレイザはそう思っていた。本当に、とても楽しかった。思いもかけない体験をさせてもらった。レイティエに来てよかったと、心から思った。
「ファレムさんは、今のお仕事を終えられたら、シェレンにお帰りになるのですよね」
「うん。今は例外的にここに滞在しているだけで、王族は国内に居住しないといけないからね。……レイティエの生活は気に入ってるから、去りがたいけど」
「そうですね。クレナスも本当に素敵な街でしたが、ここはまた違う魅力のある街だと思います」
少し違うんだけどな、とファレムは思った。レイティエという街そのものを気に入った、ということとは少し違うのだ。違うけれど、ここに残れたら——と夢みたいなことを考えてしまう時がある。
シェレンで兄たちを補佐し、一番近くで守る。それが第三王子の生まれながらの義務だというのに。
「……そうは言っても、フェデルマ以外の国との交渉は、まだ半ばくらいなんだ。だから、もうしばらくはこの街にいるけど」
「フェデルマが最初だったのですか」
「そうだよ。グレッド家が後押ししてくれたんじゃないの? すごくすんなりとまとまったよ」
「それはもちろん、父やジェイは賛成派でしたが」
グレッド家とリエフ家が最初に賛成したのは確かだ。おそらく皇帝もすぐに、この通商協定に肯定的な姿勢を示した。その時はファレムとエナが携わっているとは知らなかったが、相手はシェレンである、それだけですぐに信用できると判断してくれたはずだ。
「フェデルマがこうして締結してくれたおかげで、他の国とも話が進みやすくなるかもね。感謝しないと」
「感謝だなんて――」
冗談めかしてファレムが笑うので、セレイザも笑った。
そこでふと、エナの言葉を思い出した。
セレイザは表情を引き締めて、両の拳を握った。
「――ファレムさん、フェデルマにいらっしゃることがあれば、ぜひグレッド家にもお寄りくださいね。私たちはファレムさんに感謝申し上げておりますが、きっと、ちゃんと、お望みのような友人としてお迎えさせていただきますから」
「……え、うん。ありがとう……」
セレイザは至って真面目に語っていたが、ファレムは不可解そうな顔になった。急に何の話だろうと思った。
「あと……昨日の父の発言、遅ればせながら私からお詫びいたします」
「お詫び?」
「はい。魔法を使わないことを甘いなんて、無礼なことを言い出した件です」
「ああ……それ」
ファレムは合点がいった。娘を守ろうとしている父親の牽制を当の娘が詫びるなんて、また何を言っているのだろうと思ったら、額面通りの言葉のことか。
「特に失礼な発言だとも思っていなかったし、何も気にしてないよ。忘れていたくらい」
「ありがとうございます……。どうして父があんな言い方をしたのか、私には不思議で」
セレイザは居心地の悪そうな顔をした。
彼女は思い出す度に違和感を感じていた。娘かわいさの勘違いをしていたとしても、どうしても父らしくない発言だった。
「戦乱時代の話は、私も両親から聞いて育ちました。フェデルマでは、だいたいみんなそうだと思います。でももちろん、絶対に繰り返してはいけない、と教わるのに……。昨日の父の言い方はまるで、その時代のように卑怯な手でも使えと言っているみたいで……」
「まさか。セレイザのお父上がそんな方であるはずないだろ?」
「もちろんです。むしろ父は陛下とともにずっと、新しく平和なフェデルマを築いてきた側ですから。だからすごく引っかかってしまったです――」
ファレムが黙り込んだ。何かを思い返しているような表情だった。
少し沈黙が流れた時、さっき入港した荷船の上で、怒鳴り声がした。何を言っているのか聞き取れないが、二人の人間が怒鳴り合っているようだ。
セレイザは気がかりで船上をうかがったが、振り返るとファレムは冷静な顔で首を横に振った。
「だめだよ、セレイザ。船上の出来事に首を突っ込んではいけないんだ」
「でも……暴力沙汰になるかもしれませんよ」
「それでもだめなんだよ。船の上で起きた出来事は、その船が所属する国と船長の管理下だ。下手に手出しすると、内政干渉だって抗議されかねない。それが暗黙の了解なんだ」
「そう……なのですか」
セレイザはもう一度船上を見た。そんな了解事項、まったく知らなかった。それでは、もしあの二人が殴り合おうと、一方的な暴力が起きようと、見て見ぬふりをしなければいけないということか。
「なんだか、冷たい決めごとですね」
「……そうかもしれないね。でもそれが現状なんだ」
しばらくして怒鳴り合いは収まり、セレイザは胸をなでおろした。ファレムも小さく息をついた。彼もかなり気に掛けていたのだ。
ファレムは、遠くの係留施設にたくさん並んでいる船に目をやった。
「……以前、船員が船長に殴られて、船から追い出されたことがあったんだ。船長は船内で盗みをしたからだって言っていたけど、船員は否定してた。どっちが正しかったのか、俺にはわからない。港の人間は誰も、聞いてもやらなかった」
港で働く者たちが冷たかったからではない。ずっと長い間、海運業に関わる人たちにとってはそれが当たり前の対応なのだ。
クレナスでもそういう光景に出くわしたことはある。だが、レイティエにはもっとたくさんの船が集まり、故郷の違う者たちが一緒に働く荷船もある。揉め事は必然的に増え、目についた。まだ一年も住んでいないファレムでも、すでに何度かそういう出来事を見てきた。
ファレムは母の国で勉強していた時、従兄弟である王子とその問題について考えたことがあった。例えば弱い者が自国の外で船長に虐げられても、誰からも守られず、泣き寝入りして逃げるしかなかったような事件が、きっと数多くあったはずだと。たくさんの国から認められた中立の立場の人間が、訴えを聞き、必要なら介入できるようにすべきではないかと。
「いつかそんな中立的な組織を創れたらと思うんだけど……遠い夢かな。船で貿易を行うほとんどの国から認めてもらえなければ意味がないのに、シェレンに帰ったら、また簡単に出ることもできなくなるような俺じゃ、やれることが少なすぎるよ」
「……そんな志を持っていらっしゃるだけで、私には尊敬できます。私は、現状の問題さえ知りませんでした」
「まだ、その従兄弟の王子と話しているだけだよ。何も具体的じゃない。結局何ひとつできずに終わるかもしれない」
ファレムが叶わないものを見るような、少し冷えた目をした。王族を縛るものは多いことだろう。自分の気持ちだけでは動けないことなんて、今までも何度もあったに違いない。
代わりにできることや手伝えることがあればいいのにと思ったが、知識もなく国も違い、もう会うこともないセレイザにできることなんて何もありはしない。
何を言ったらいいか言葉を探していると、暗い顔をしてしまっていたのか、ファレムの方が心配した。
「セレイザ、もしかして具合悪い? それ、体に合わなかった?」
「い、いえ、違います。いくら何でも、これくらいでは酔っていませんよ」
セレイザは自分の小さめのグラスを持ち上げて見せた。ゆっくり飲んでいたが、それはもう底にわずかにあるのみだった。
少しの間その残りが揺れる様子を見ていたが、グラスに口をつけ、飲み干した。……帰る時だ。
「ファレムさん、とても……楽しかったです。ありがとうございました。私はこれで――」
「――あっ!」
急にファレムが声を上げた。
セレイザの後ろに、突然男の背中が降って来た。後ろの席で一人飲んでいた、セレイザの倍くらいありそうな大柄な男が泥酔して、立ち上がった途端よろけて倒れてきただけだったが、ファレムは反射的にその背中を靴底で蹴り返していた。セレイザはすでに倒れ込まれそうだった席から逃れていた。
「……あ、まずい……」
セレイザだから回避できていたものの、普通ならこの男は女性を押し潰していたのだ。それを防いだファレムに正当性はある。だが少々強く蹴り過ぎてしまった感はある。この酔客が怒りだした場合、誰にも顔を覚えられたくないファレムにはよくない状況だ。それに何より、今は一人ではない。
「セレイザ、行こう」
「えっ、あの――」
目立たないよう一番灯りの届かない端の席を選んでいたため、誰かに見られていた様子はない。店の主人も男に、おい大丈夫か、と遠くから声を掛けているだけだ。蹴りで押し返され地面に転んだ男が、軽く咳込みながら緩慢な動きで起き上がろうとしている。
それを、いいのかな、という顔で見ていたセレイザを、ファレムは腕を掴んで歩き出させた。諍いに巻き込まれて、セレイザがここにいたことがシンザか誰かの耳に入ったら、彼女はファレム以上に困るはずだ。
運河の橋を渡り、平民の街に入る。念のため来た道をまっすぐ帰ることはせず、街の奥へ遠回りした。そうしながらファレムは何度か後ろを確認した。もしあの男か関係者が追ってくるなら、平民の街の中で撒かなければならない。
だが幸いなことに、そういう影はなさそうだった。
「大丈夫みたい、ですね……」
後ろでファレムに引っ張られているセレイザも、目を凝らして確認しているようだ。
平民の街と貴族の街を分けている運河のほとりに出ると、ファレムはまだ少し警戒しながら、橋に向かって歩いた。
「あの……私のせいで、すみませんでした」
「セレイザのせいじゃないよ。あの男が飲みすぎなのが悪いし、セレイザは避けていたのに蹴ってしまったのは俺だし」
「私は明後日帰るからいいですけど、ファレムさんは本当に大丈夫ですか?」
「……そんなに心配いらないよ。たぶん誰にも見られてなかったし、あの男は港の人夫じゃなくて船乗りみたいだったから、すぐどこかへ出航するだろうしね」
ファレムはもう早足ではなかった。むしろその歩調は遅くなっていた。
二人で公館を抜け出して、最初に渡った橋が見えている。あの橋を渡れば、公館はすぐそこだ。
明後日には、セレイザはフェデルマに帰る。その決まっている事実が、急にファレムの胸に迫った。
この橋を渡ったら、この夜は終わる。
ファレムの足が、橋の袂で止まった。
……次はあるのだろうか。もう一度再会できる日なんて来るのだろうか。
先日の妹の婚約内定は、セレイザもすでにそうなっていてもおかしくないのだという現実を、ファレムに突きつけた。
フェデルマから届いた晩餐会出席者の知らせに、セレイザの名を見つけた時は本当に驚いた。荘厳な黒い船から降りてくる彼女が、ハヴァード皇子の手を取って微笑み合う姿は、二人は夫婦ではないと知っているのに、近い未来の幻影を見せられた気がした。
エナに、まだ婚約者はいないみたいよ、と言われ、余計なことをと思いながら、ほっとしてしまった自分のことは無視する以外になかった。
シンザには疎まれていると思った。
だが、彼の言葉がセレイザには、卑怯な手でも使えと言っているように聞こえたという。……もしかしたらあの時、シンザは問いかけていたのか。
私は守りたいもののためなら、無様なことになろうとも全力で守りに行く――俺と同じように、お前も守りにいけるのか、と――
「すみません、ファレムさん。もう大丈夫ですから」
後ろからセレイザが、少し言いにくそうに声をかけてきた。
ファレムが振り返ると、カッシアでは初めて長い髪を背中に流したままのセレイザいる。目が合うと、彼女は視線を下げた。掴まれている自分の手首を見ている。これは誰かに見られたら誤解されます、離してくださいと、その表情が言っている。
ファレムは離したくなかった。本当はそれが、まぎれもない本心だった。
「セレイザ……俺は――」
押し込めていたものが抑えられなくなった。
「俺は、セレイザのことが好きなんだ」
掴んでいた手首が、びくりとする。
「俺はシェレンの人間だけど……、本当は、君と並んで、一緒に生きていきたい」
「……!」
ファレムを見上げるセレイザは、目を大きく見開いていた。息を飲み、言葉を失っているようだった。
何かの言葉を紡ごうとしているのか、唇がかすかに動く。
……それから、その目は瞬くごとにファレムからそらされていった。色白な顔は困惑に覆われている。
「……あ、あの……いえ……わたしは……」
俯きがちの視線は、宙をさまよっている。
――ああ、やっぱり……、こういう顔をさせてしまうのか……
心を押し殺し続けることが苦しくなってしまった。けれど間違いだった。言うべきではなかった。
ファレムは手を離した。
「……ごめん。押し付けるつもりはないよ。聞いてもらっただけで、もういいから」
見張っているから先に公館に帰って、と言うと、ファレムは橋を渡らず平民の街の方を向いた。
セレイザは解放された腕を抱えて佇んでいたが、言葉なく、貴族の街の薄闇へ急くように入っていった。