前夜
見上げた夜空には、ほとんど満ちた月があった。
明日の夜は火群送りだ。明後日には、ハヴァードが手配してくれた船で帰国する。
セレイザは窓枠に重ねた腕の上に顎を置いた。その時無意識にため息が出た。自分ではっとしてしまうほど大きなため息で、つい唇を押さえた。
セレイザの内に巣食う寂しさは消えてくれない。
これは何なのだろうと考えていた。
初めは、ファレムとエナが国と国とを結ぶという大きな役割を担っていることで、以前自分が「平民」だった時よりも遠い存在に感じられてしまったからだと思っていた。
……そうではないかもしれない。
カッシアに来る前は、これからは友人を訪ねるように会いに行けるかもしれないと期待していた。でも、きっとそうはならない。カッシアに嫁ぐエナとなら不可能ではないかもしれないが、今の仕事が終わればシェレンに帰るファレムとは、気軽に交流を持つのはやはり無理だろう。消えない偏見もそうだが、それ以上の問題があった。ファレムが婚約でもすれば、フェデルマからわざわざ会いに来る女なんて、他意がなくても目障りになる。ファレムは充分に結婚適齢期だ。エナの婚約内定の話は、三年前と同じつもりでいたセレイザにそれを気づかせた。
今度こそ、これが最後なのかもしれない。それを心のどこかで悟っていたから――
だから、寂しさを感じているのだ。
最後なら帰国する前にせめてもう少し話をしたい。そしてきちんとお別れをしたい。でも、急に滞在を延ばしたセレイザと過ごせるほど暇なはずはなく、今日はファレムと一度も会わなかった。
……あの時、エナ様は私に、何をおっしゃりたかったのかしら――
すぐ普通の様子に戻ったし、植物園を後にしてからお店をいくつか回ったが、鳥の部屋の中で話したことについては、あれ以降話題にならなかった。恩人として見るのはやめてあげて、とはどういうことだろう。
誰にも話せていないところでも、ファレムは旅の中でセレイザを救ってくれている。リンドニア近くの旧鉱山の森でオルジェとファレムに攻撃をしてしまったのに、その罪を見逃してくれた。呪いが常化したと思い込んで心が壊れそうになり、ジェイたちのもとへも帰れなくなった時も、故郷で分かち合うよう諭してくれた。
そして何より、オルジェたちと真実を突き止め、無理をして一人でフェデルマまで来て、別邸の呪いを解いてくれた人だ。
確かにセレイザは、エナが恩人扱いせず友人として接してくれることがうれしい。ということは――
ファレムさんは、グレッド家と友人関係を築きたいと思ってくださっていたの……?
そうだとしたら、心配いらないのに。何か協力が必要なら、きっとジェイは応じてくれる。それは恩人でも友人でも変わらないはずだ。
……いえ、恩人扱いをやめて友人としてほしいということは、それでは違う……?
父は皇帝陛下と仲が良い。まさか二人のように、あんなにくだけた話し方をしなければいけないのか。いや、父は皇帝陛下と友人というより義兄弟だ。あれを参考にするのはきっと違う。では、母と陛下か……いや、母も子ども同士の頃から知っているので、かなり遠慮ない物言いだ。あれもどうかと思う。では、セレイザ自身とハヴァード……これも、ずっと従兄妹のような関係性だ。友人とは言い難い。
だめだ、やっぱりよくわからない。どうしよう。
もう夜半だが、なんだか眠れそうにない。セレイザは簡単に着替え、少し厚手の羽織物を着こんだ。カーリや護衛を起こさなくても、公館の庭を散歩するくらいなら危険はないし、許されるだろう。
一階へ下り庭園への扉に近づいた時、廊下の窓に影が動いた。鳥か何かがよぎったのかと思ったが、それにしては大きいし、まだそこにいる。
セレイザは扉の陰に隠れ、窓から外を盗み見た。暗いが、あれは間違いなく人だ。まさか外国の公館に盗人だろうか。様子をうかがっていると、その人物は窓から離れていく。逃げるところなのか。
セレイザは音を立てないよう扉を少し開き、手を差し込んだ。庭の芝生に木魔法を使い、一気に伸ばしたそれで、侵入者らしき人物の足を絡めとり、できれば転ばせて、動きを止めようとした。
ところがその人物は、足に芝が絡んだ次の瞬間にそれを解き、戻した。木魔法を使ったのだ。
「――えっ……」
セレイザがびっくりしている間に、侵入者はそこから飛び退くと、腕を振った。炎のさざなみが地面を攫う。同じことをされないよう、周囲の芝生を焼き払ってしまったのだ。
木と火の、魔法――?
しかも、今の機敏な反応。
ほぼ確信を持った。
自分の間の悪さに、顔が上げられない。まさかもう一度、攻撃を仕掛けてしまうなんて。
セレイザは扉をもう少し開け、そっと顔を出した。火魔法を放ち敵を警戒するように身を屈めていたのは、やはりファレムだった。
「セレイザ……? あっ、今のって、セレイザ!?」
「はい……。ファレムさんだとは思わなくて……その、侵入者だと思ってしまって、申し訳ありません……」
「ああ……まあ、そう見えるよね」
ファレムの方も、侵入者からの先制攻撃なのかと思って身構えてしまった。
たった今自分が早とちりして焼いてしまった芝の跡を見渡し、思わず苦笑をこぼしながら立ち上がったファレムは、平民のような服装をしていた。
「すみません、芝はすぐ直しますので」
「大丈夫だよ。俺も木魔法使えるし」
セレイザは建物から出て、庭園に下りた。
「セレイザは、こんな夜中にどうしたの?」
「……どちらかといえば、今のファレムさんの方が不思議ですよ?」
そう言って目が合った二人は、おかしくなって小さく笑い出した。
「なんだか、ウェンデールに宿泊した日を思い出しました」
「うん、あの時は逆だったけどね」
実際ファレムは今、あの時木魔法を使って窓から部屋を抜け出したセレイザを参考にして、三階の自室を出てきたところだった。
実は時々こうしているのだと、芝生に向けて木魔法を発動させながら、セレイザに話した。
「俺の密かな息抜き。誰にも見つかったことなかったんだけどなあ」
セレイザも芝を直し始めた。青い芝を焼け跡まできれいに伸ばし、周りと見分けがつかないように整えるのは少し大変だ。
「どこかへ行かれるところだったのですか?」
こんな夜中に息抜きと言っても、散歩くらいしかできることはないのではないか。海もあるし、それもよさそうだが。
「ああ、そうか。部屋が反対向きだから知らないんだね」
芝を元通りにすると、ファレムはセレイザに手招きした。建物の南側にある庭園の端を彼について歩いていくと、この公館の敷地の西側、海とは反対側に連れて行かれた。建物の間から見える遠くの高いところで何かがぼんやりと明るい。あれは貴族の街の向こうか。平民の街の港よりも遠い気がする。
「この街は、夜も動いているんだ。夜中でもああやって海運業の港の灯台に火が焚かれているから、船が入港してくることもあるし、航海中夜間の見張りを担当している船乗りを相手に、夜でもたくさんの店が開いてる。そういう街をただ歩いてみるだけでも、日常と違って面白いんだ」
「もしかして、今からあそこへ行かれるのですか」
セレイザは少しどきどきしながら、遠くの明かりから自分の体に視線を落とした。庭園を散歩しているところを誰かに見つかっても恥ずかしくないよう、最低限には着替えて羽織物もしっかり着込んでいる。傍から見ればこれは平民が外出する格好に近いと思う。髪は結ってないが、公的な場でなければ問題ないし、むしろこの方が平民らしい。
「私も行ってみたいです……! だめでしょうか」
ファレムは、えっ、と言葉を詰まらせ、灯台の明かりに目をやった。
「あそこは平民の街じゃなくて、海運業や漁業の……船乗りの街だよ。定期便が入る平民の街とも少し違う。こんな時間は、昼より治安も良くないし」
「ご心配には及びません。以前、この大陸のいろんな町の貧民街にも何度も入っていますから」
「貧民街? ……えっ、まさか一人で?」
ファレムは驚いた。それは初耳だ。
「はい。時魔導士の情報を探すために。ソロイの情報も、そういうところで得たんですよ」
「そうだったの? セレイザ……本当に危ないことをしていたんだね……」
シェレンには貧民街と言われるほどの場所はないはずなので、ファレムは実際に見たことはないが、大体想像はつく。弱者に付け入ろうとする犯罪者まがいの人間も多々集まっているだろうに。
「確かに気の荒い方は多かった覚えがありますけど、街道で遭遇してしまう人攫いと同じで、ちょっと魔法で脅かせば平気でしたよ。……あの、だめですか?」
「それなら大丈夫だと思う……。脅かす必要なんてない、秩序的な普通の街だよ」
ファレムとセレイザは、木の枝を伝って柵を越え、公館を抜け出した。
貴族の街は眠りについていて真っ暗だ。公館は港のある岬の先端に近いので、植物園のある奥の方と違い、街を分けている二本の運河の間は狭い。すぐそこにあるひとつ目の運河に掛かる橋を渡れば平民の街だが、ここもやはり暗かった。
平民の街を横切り、二本目の運河が近づいてくると、その向こう側では灯台だけでなく、街に明かりが灯っているのがはっきりと見えてくる。真夜中にこんな光景はとても不思議だ。
「レイティエは、眠らないのですね」
「あの辺り一帯はね。海運王国と言われているだけのことはあるよね」
顔を覚えられ、もし後になってシェレンの王族だと知られるとよくないので、ファレムはいつも誰と話すでもなく、目立たないようただ街を散策している。営業しているのはほとんどが露店なので、それを見て歩いたり、屋台で少しだけ何かを飲みながら、聞こえてくる客たちの他愛のない話や、酔っぱらい同士の愚痴の言い合いに耳を傾けてみたり、夜間店を営業する人たちの働きぶりを観察したり、夜中の港の喧騒を眺めたりしている。
それほど広くはない不夜の街を、また今日もそうやって――でも今夜は、二人で歩いた。
本当に非日常的で、セレイザも楽しかった。
同時に、また懐かしさを感じていた。シェレンの旅の途中の街道町みたいだ。こんなに真夜中ではなく日暮れ時だったが、食堂までの行き帰り、ファレムとこうして明かりのついた街を歩いた。
夜中に館を抜け出すなんて、父に知られたらすごく怒られるだろう。貴族の娘としてあるまじき行動だ。
でも、こんな特別な街を見て回れるのも、思い出と現実を重ねて懐かしむのも、きっとこれが最後なのだから……。
セレイザは自分に言い聞かせるように、少々苦しい言い訳をしていた。