恩ある人
支度が済んだことを、カーリからエナの侍女に知らせてもらいに行った。今日はエナと一緒に街を回る。
セレイザは平民の街も慣れたものだが、王女のエナが歩いて案内できるのは貴族の街だ。それでももちろん公館の騎士が護衛でつく。
「俺たちも付いていくぞ。距離は取るが」
「行くのは貴族の街の商業区画よ? そもそも安全性が高いし、私にまで護衛はいらないと思うけど」
「そう言うな。それが仕事なんだよ」
実の父であるシンザは、セレイザの部屋で一緒にカーリが戻るのを待っていた。自分の剣の手入れはいつも完璧に済ませてあるので、セレイザの剣を磨き直してやっていた。
それを眺めているセレイザは、どうしても昨日の父のことが引っかかっていた。
「ねえ、お父様。どうして昨日、お手合わせなんてお願いしたの?」
「手練の方に興味が湧くのは、騎士の性なんだよ。エリセやジェイやゼクトだって、時々俺と手合わせするだろう?」
「ふうん……」
セレイザは、やはり自分は帝国騎士に向いていないんだなと思った。剣技のみで相手になれるはずもないが、ファレムに手合わせを願いたいなんて、少しも考えたことはない。
「それに、最後の言葉。お父様らしくなかったわ」
「……そうか? ちょっと負けそうだったから、変なことを言ってしまったかな」
「ファレムさんは聞き流してくださったけど、相手によっては無礼だって怒られるんじゃないかしら」
「そうだな。気をつけよう」
シンザはセレイザの剣から目を上げずに話した。なんだろう、また父らしくない。
「お父様は、火群送りを見たことはあるの?」
「いいや、聞いたこともない。以前リューベルトとカッシアへ来た時は、七の月ではなかったしな」
「ファレムさんとエナ様と一緒に見させていただこうと思っていたけれど……クライグ様がいらっしゃったのに、お邪魔するわけにはいかないわよね。ファレムさんはどうされるのかしら」
「……」
最後の方は独り言のように言いながら窓の外の海をのぞき込んだセレイザに、シンザは一瞬目を向けた。美しい細工の施された銀色の鞘に剣を納めると、置いてあったところに戻すため立ち上がった。
娘の後ろ姿を視界にとらえながら、シンザはかなり迷ったが、釘を刺しておくことにした。
「セレイザ……あまりファレム様と親しげにするな」
「――えっ?」
セレイザは海から視線を戻した。
「私、誤解を招くようなことはしていないはずよ。ファレムさんの従者や公館の方から注意されたの?」
「いや、それはないが――」
「じゃあ、これから注意されそうなの? フェデルマの女が、王子に近寄るなってこと……?」
「ああ、いや、そういうことでもないが――」
「じゃあ……何?」
父は言い淀んでいた。セレイザはやっぱりそうなのかと思った。自分は本物のハヴァードの妃ではない。エナと友人になったからといって、未婚の北大陸の女が気安く王子に近づくことを、快く思わない人がいたのかもしれない。
「……ここの方々にはそんな様子はない。そうじゃなくて、ファレム様が……その、勘違いをなさって、お前に特別な感情を抱かれたらどうするんだという話だ」
「……えっ……え?」
少し心を沈ませていたセレイザは、父の言葉に呆気にとられた。特別な……感情――?
セレイザは頬を赤らめた。
「やだ、お父様……また、そういう欲目のひどいことを! お姉様も私も、恥ずかしいからやめてって以前から言っているでしょう!?」
何か言いかけた父を、セレイザは鋭く見据えた。
「それに、失礼よ。ファレムさんが呪いを解いてくださらなかったら、お父様たちはきっと常化してしまっていたというのに」
「だから、お前がファレム様を恩人だと思っているのなら、なおさらやめておけと――」
「そんなこと起きるはずがないんだから、恥ずかしい勘違いはもうやめて」
セレイザはぷいと窓の外に向き直った。
まったく甚だしい見当違いだと思った。娘をかわいがってくれる父のことは、セレイザはずっと大好きだ。でも時折それが行き過ぎるのは困る。今回の思い込みは少々ひどい。セレイザは苛立っていた。
父はシェレンに行っていないから、そんな発想をするのだ。東大陸は、セレイザが髪も顔も隠して旅をしなければならなかった地だ。残念なことだが、シェレンから偏見がなくなるなんてまだ程遠いと、ファレムが言っていた。
彼自身はそんな人ではないが、ファレムはそのシェレンの王子だ。その自覚もある人だ。父が心配することなんて何もない。手合わせの後の発言も、まさかそんな娘への欲目から出た嫌味か何かだったのか。命の恩人に対して、なんて失礼なことを。
カーリが戻ってくると、セレイザはシンザに何も言わないまま部屋を出た。付いてこないでとも言わなかったが、話す気にはなっていない。
カーリが怪訝そうにシンザを見上げた。
「お嬢様と喧嘩でもなさいましたか? お珍しい」
「いや、喧嘩ではないんだがな……」
はは、とシンザは弱々しく笑った。
話さなくても、話しても上手くやれない自分より、妻が来るべきだった。シンザはそう思った。
セレイザは六歳になる直前、帝都で流行り病の熱病にかかった。命に関わる病気ではなかったはずだが、幼いセレイザは高熱に苦しめられ、食事を取れなくなり衰弱した。
そして突然、白目をむき、痙攣を起こした。意識をなくし、見ている方が恐ろしくなるくらい、いつまでも全身が震えていた。
なぜか医師は、血相を変えて城の魔導士を呼んだ。これは、戦乱時代に大怪我をした魔導士が起こしていた症状に酷似している、と。
呼びつけられた魔導士の禁呪の封印魔法によって、セレイザの痙攣は嘘のように治まった。なんと魔力が暴走しかけていたのだという。五歳で暴走など未だかつて前例はない。魔導士が魔力の反応をよく探ってみると、信じられないことに、セレイザの魔力はすでに大人に近い高さだった。
「すぐに魔力操作訓練をお受けください。今は一旦魔力を封印して安定されておりますが、ご息女は非常に危険な状態です」
一人前の魔導士が暴走した場合、どうにか自力で魔力を制して事なきを得る可能性もある。そうでなければ、魔力が果てるまで魔法を使い続けてしまう。それは自分も周囲もかなり危険だが、優れた魔導士がいれば対処法が皆無なわけではない。
しかし魔力操作も魔法も一切できない者が暴走すると、何が起きるのかはっきりわからない。体が耐えきれず自壊してしまうか、魔獣化してしまうのか――
セレイザが魔力を持っていることは、誕生時の魔導士の診断でもちろんわかっていたが、本人にはまだ話していなかった。七歳で修練所に入るまでには話そうと先送りにしていた。まさかたった五歳でこんなことになろうとは思わなかった。
シンザはなかなか娘に言えなかった。もらったばかりのエリセのお下がりの小さな木剣を大事にして、遊びに来た従兄弟たちと騎士ごっこをしているセレイザに、お前は騎士にはなれない、今すぐ魔導士の訓練に行きなさい、と言うなんて酷だ。魔導士への道は厳しい上に、近接戦の武器の手習いは禁じられるのだ。
しかし、禁呪魔法で抑え込まなければ命を脅かすものを、小さな体の内に抱えている状態である。
ティノーラは、決意できず言葉につかえる夫にしびれを切らし、代わりに幼い娘に言って聞かせた。
「なんで? おねえさまもゼクトもジェイも、ハインもハヴァードも騎士になれるんでしょ? どうしてわたしだけだめなの?」
セレイザはそう言って泣いた。エリセよりおとなしく育てやすい子だったセレイザが、なだめようと抱き上げたシンザの肩や胸を、小さな手で思い切り叩いて怒った。叩いて、押して、わめいて……そしてシンザと口を利かなくなった。
六歳になったセレイザを、ティノーラが初めて修練所へ連れて行く日、シンザはゴツゴツとした大きな手で娘の頭を撫でた。
「お父様がもっと早くから、ちゃんとお話するべきだった。ごめんな……セレイザ」
セレイザは、珍しくふたつに編んだ髪の毛を持って、自慢気にシンザに見せつけた。
「わたしは月のせいみたいになって、お姫さまも騎士さまもたすけてあげるの。おとうさまもおねえさまも、みーんなたすけてあげるよ」
シンザには何のことかわからなかった。後で妻から、月の精とはセレイザが好きな絵物語に出てくる魔法使いだと教えられた。ふたつに編んだ月色の髪と目を持つ少女なのだという。
一体ティノーラは娘と、どう話したのだろうか。
何が相手の感情を読むことに長けているものか。シンザはセレイザの好きなものさえわかっておらず、気持ちに寄り添ってやることもできなかった。
娘が大切なのに、どうしてやるのが一番いいのかわからない。
今もそうだ。今度は話をして失敗した。シンザには荷が重い。ティノーラの方が適している――
エナとセレイザは、侍女とともに馬車で移動した。
エナが案内したのは、格式の高い貴族御用達の店ではなかった。行き先だと思っていた商業区画のさらに奥、貴族の街の中では港から一番遠い位置にある植物園だった。
レイティエが商業特区になる前からここにあり、王家が管理している、薬学の研究施設を兼ねた植物園なのだという。カッシアだけでなく西大陸各地から集められた木や草や花が、広大な敷地に植えられている。
「こういう施設はシェレンにもあるのだけれど、ここはもっと素敵なのよ」
午餐会で伺った離宮の庭園の何倍かありそうな植物園を、侍女も交えて四人で散策する。他にも来園者はいるので、物々しい雰囲気にならないよう、護衛たちは適度に散らばり距離を取っていた。
カーリは感服した様子でセレイザに囁いた。
「すごい施設でございますね、お嬢様」
「本当ね。フェデルマにはないわ」
セレイザは旅をしたので見たことだけはあるものもあったが、カーリは初めて見る植物ばかりだった。連れてきたエナがうれしく思うくらい、二人は立て札に書かれた木や花の説明文を熱心に読みながら、とても楽しく園内を巡った。
エナが一番好きな場所は、園の一角にある大きな東屋のような場所だった。休憩用の東屋にしては大きすぎ、周囲がすべて細い木製の格子のようなもので囲まれていて不思議だった。例えは悪いが、まるで広々とした檻のようだ。
備え付けられている扉から入り、中で目にしたのは植物だけではなかった。様々な鳥が放し飼いにされていた。ここは檻ではなく、さながら巨大な籠状の部屋だったのだ。
「すごいです……! こんな施設があるのですね!」
「そうでしょう? こんなふうに鳥を見られるようにしているところなんて、シェレンにはないわ。私もここが大好きなの」
大きな鳥も小さな鳥も、何に使うのか不思議なほどくちばしの長い鳥も、いつかシェレンで見たような派手な尾羽を持つものも、鳥なのにほとんど地面を歩いている変わったものもいる。
鳥は普段近くで見られるものではない。しかもここにいるのは西大陸の鳥であり、遠くからでも見たことのない種ばかりだ。
さすがに触れることはできないが、セレイザとカーリは感激して部屋の中を歩き回った。できるだけ間近で見たくて近寄ると、残念なことに逃げられてしまう。そうしているうちにまた他のかわいい鳥を見つけ、顔を寄せるとまた逃げられる。そんなことを繰り返し、エナから、そっと歩いてね、と注意されたほどだ。
「お父様、ここはすごいわ……! お母様たちやハヴァードにも教えてあげないと」
セレイザはつい、父に苛立っていたことも忘れて笑いかけた。シンザも、そうだな、と言いながら非常に感心した様子で施設を見回していた。
それを見ていたカーリがくすっと笑った。
「お嬢様、素敵な施設のおかげで旦那様と仲直りまでできましたね」
「えっ、あ……、別にそんな、喧嘩というほどのことじゃ――」
「お父様と喧嘩をしていたの?」
エナに聞かれてしまい、セレイザはきまりが悪い思いがした。ファレムの妹であるエナに、父の勘違いの話は恥ずかしくてとてもできない。
シンザに聞こえないよう小さな声になった。
「昨日父が、ファレムさんに対して少し失礼な発言をしたので……私が注意した、といいますか……」
「あら、お兄様に?」
エナはセレイザが父親と喧嘩したことを意外に思っていたが、話に兄が出てきたことがもっと意外で、思わず笑顔になっていた。
「ファレムさんは聞き捨ててくださったのですが」
「それなら、気にしなくていいと思うわ。お兄様は小さなことで怒る人ではないし」
「ファレムさんが許してくださっても……私が腹立たしくなってしまって。私たちにとって、ファレムさんは命を救ってくださった大恩がある方なのですから」
その言葉を聞いたエナは、なぜかふっと笑顔が薄れ、表情が曇ったように見えた。
視線を落として何か思っている様子のエナに、どうなさいましたか、とセレイザが言いかけた時、彼女は表情を変えず口を開いた。
「ねえセレイザさん。私にとっては、セレイザさんが命の恩人よ。……でも私は、セレイザさんをお友達だと思っているわ」
「はい、私もです」
セレイザは、エナがそう思ってくれていることが本当にうれしい。彼女は遠い他国の王女様だけれど、友人だ。
エナは少し首を傾けながら、セレイザの瞳をのぞき込んだ。
「……お兄様を恩人として扱うことも、私はもう、必要ないと思うの。そろそろ、やめてあげて……ね?」
「……?」
エナが急に言い出した言葉の意味がよくわからず、セレイザは少し戸惑い顔になった。
「お兄様はあの時、自分でそうしたくて、ギードの魔具を持ってフェデルマへ行ったのよ。そういう人なの。だからもういいのよ。お兄様を普通の目で見てあげてほしいわ」
エナはどことなく寂しげに微笑んだ。
でも、これ以上は言わなかった。自分が勝手に干渉してはいけないと思ったからだ。
セレイザに悪気がないのはわかっているし、エナは文句を言いたいわけではない。まして、兄を好きになってほしいなんて、お願いすることではない。
ただ、少し……悲しい。
三年前、兄はフェデルマから帰ってきてからも、セレイザを想っているのかどうか白状しなかった。でもディアンとエナはそうなのだろうと感じていた。
セレイザが実は侯爵家の人間だったと聞いて、形は政略結婚になっても二人が結ばれたら素敵なのに、と無邪気に言ったエナに、ディアンは悲しげな苦笑をもらした。
そう簡単にはいかないだろう。ただでさえ王子と国外の貴族女性の結婚はいろいろと難しい。たとえ父王が認め、セレイザがファレムに頷いてくれたとしても、北大陸出身の妃が民から向けられる目は、それは厳しいものになるだろう――と。
あの旅の間、セレイザが髪と顔を隠さざるを得なかったことは、ファレムが王宮で両親とアラクに話した時に、エナも初めて知った。ディアンの見解は正しかった。だからファレムは気持ちを明かさず蓋をしているのだとわかり、言葉をなくした。
セレイザが兄をどう思っているのか……それは、これまで確かめようがなかった。でも、今の言い方でわかった気がする。
兄は七日間ともに旅をした友人ですらなく、大恩のある方だなんて疎遠な存在に据えられていた。確かにセレイザの目から見れば、そう映っても仕方ないことなのかもしれないけれど。
セレイザのためにしたことで、そんな見方しかされなくなったのだとしたら……兄がかわいそうだ。