三年の日
翌日の午後、シェレン王国が準備した調印式は、滞りなく執り行われた。
ハヴァードの護衛としてその様子を見守っていたジェイは、胸を熱くしていた。それはフェデルマとシェレンの間に――東大陸との間に、初めて航路が結ばれた瞬間だった。
仲介者として立会人を務めたカッシアの王弟ランケルとその妻は、晩餐会が始まる前、会場の外で警衛にあたっているシンザに声をかけた。カッシア王家は十三年前、友好国フェデルマの重臣グレッド家に起きた悲劇を把握していた。
「呪いが解けたと伝わってきてはおりましたが、本当だったのですね……!」
フェデルマ帝国としては、グレッド家の時呪いが解けた原因は不明、おそらく魔導士が死亡したためだろう、と公表していて、それが真実として通っている。
以前会った時と変わって少し歳下になってしまったシンザに、ランケルは驚きを隠せなかったが、会えて本当にうれしい、と強く握手をした。
その様子を離れたところから見ていたハヴァードが、セレイザに対して囁いた。
「やはりすごいな、シンザ殿は」
「……すごい?」
「父上とシンザ殿がカッシアに来たのなんて、二十年以上前のことだ。ランケル様は前王の御代から外交を任されておられた方だから、外国の要人には数え切れないほどお会いしているはずなのに」
シンザは現在、当主ではない。皇子護衛の最高責任者でもなく、今回はランケルに対して名乗ってもいない。それでもランケルはシンザに気がつき、わざわざ話しかけに来て、握手を求めた。呪いのことや屈強な外見が印象に残っていたからだけではないだろう。
セレイザは、留守がちだった父が皇帝と成してきたこと、その一端を見たような気がした。
会場の扉が開かれ、この協定締結に関わったそれぞれの外務官、貿易官、司法官、書記官たちの後、ハヴァードやファレムが席の前に立ち、ランケル夫妻が入場した。
ランケルの乾杯で、晩餐会が始まる。
王弟夫妻は快活な人柄で、おかげでとても和やかな会だった。長いテーブルでハヴァードに次ぐ席に座っていたセレイザは、緊張する暇もなかったくらいだ。
彼らの息子の一人クライグこそが、エナと婚約が内定している相手なのだと、昨日聞いた。セレイザの前に座っているエナは、もうすでに二人から可愛がられているようだ。
エナはこの場で、セレイザとは歳が同じだったので、昨日すぐに意気投合してしまいました、と宣言した。実際には来月セレイザは誕生日が来るが、今は十九歳なのでエナと同じだった。エナは昨日、これは仲良くなったいい理由づけになるわ、と笑っていた。
セレイザはようやく、斜め向かいに座っているファレムとも直接言葉を交わした。金糸の縁取りと刺繍がよく映える濃紺の正装姿の彼は、三年前一緒に旅をした人とは思えないほどの気高さをまとっている。会話は当たり障りのない、他人行儀なものだったが、一応公の場での接点はできた。
ファレムとエナが次々とワインを注がれ、平然とそれを飲んでいることに、隣でハヴァードが目を丸くしていた。目の前の若い兄妹は、いつまで経っても顔色も変わらず、まるで酔う様子がなかった。セレイザは、酒がまったく効かない家系なんだと、ファレムが以前言っていたのを思い出した。
疑っていたわけではないけれど、本当だったのね。
まるで喉を潤すただの水のようにワインを口にするシェレンの兄妹に、ハヴァードとセレイザはなんだか迫力さえ感じてしまった。
会が終わりに近づく頃、ランケル夫妻がハヴァードにある誘いを持ちかけた。四日後にこの街で、一年に一度行われる「火群送り」という古来からの行事があるから、滞在を延ばして見物してはどうか、とのことだった。それは、まだこの街で一年も暮らしていないファレムとエナも知らない行事だったので、夫妻が簡単に説明した。
「亡くなった身近な者へ、心を表す炎を風に乗せて贈るという祭祀のようなものです。いつまでも我々はともにある、という気持ちを届けるという意味があります。それから、この一年で新しく生まれた命への、加護を願うという側面もあります」
「もっとも最近では、願い事をしながら飛ばす人も増えているそうですけれどね」
身近に亡くなった方がいなければ、それはよいことですからね、と夫人が微笑んだ。
フェデルマには伝統的な行事というものがあまりないので、セレイザはとても魅力を感じていた。エナも嫁ぎ先となるこの国の祭祀に興味を持っており、ぜひこのままこの公館にご滞在なさるといいですわ、とハヴァードとセレイザを誘った。
残念ながらハヴァードは滞在を延ばすことができなかったが、セレイザにはお言葉に甘えさせてもらうといいと勧めた。でも、と言いかけたセレイザに、その場で当主であるジェイに確認まで取ってくれた。
「帰りの船は手配していくし、魔導士団には私から言っておくから大丈夫だよ。せっかくお誘いいただいたんだ。見たことを後で私に教えてくれ」
きっとハヴァードは、もう少しエナたちと過ごしたいというセレイザの本音を見抜いていたのだ。この幼馴染の皇子は、昔からそういうところがある。本当に優しい人柄である皇后陛下に似て、常に周囲に気を配れる人だ。
セレイザはハヴァードに感謝しながら、エナの申し出に甘えることにした。
晩餐会が終わった後、部屋で着替えが終わったのを見計らったかのように、エナの侍女がお茶のお誘いを伝えにやってきた。
エナの部屋に案内されると、そこにはファレムも来ていて、セレイザは少しびっくりした。
「だって二人とも、まともに話さないんだもの」
「仕方ないだろ、『初対面』なんだから。何を話したらいいのか、難しかったんだよ」
正装を脱いでいるファレムは、以前と同じ気さくな人だった。セレイザはなんとなくほっとした。
「――久しぶり、セレイザ」
「お久しぶりです。……この協定も、またお会いできたことも、本当にうれしかったです」
「さあどうぞ座って! ここには紅茶も揃えてあるのよ」
三人で、三年前や現在の話をした。今のファレムたちはあまりシェレンに帰る機会はない。だがファレムは、王都の家族とは以前よりやり取りがあるくらいだった。クレナスのディアンからの手紙によれば、総督府のみんなも変わりないという。セレイザも、グレッド家もおかげ様でみんな元気にしています、と感謝を添えながら話した。
昨日少しエナから聞いていたが、ファレムがこの三年の間していたことをかい摘んで話し始めた。
フェデルマからシェレンへ戻った後、ディアンの提言により、北大陸にもっとも近しい国である母の出身国へ行った。
初めはどうしてこんなにもシェレンと意識が違うのかと思っていたが、その国でさえ、山間部の農村などではまだ偏見が残っていることを知った。
「わかったのは、どんなに王侯貴族が民に語って聞かせても、国中の民の意識は簡単には変わらないってことだったよ」
結局、クレナスや王都が辿ったように、人々が直接触れ合った方が早くわかってもらえる、そう思うようになった。そのためにはもっとたくさんの港を、北へと開放しなくてはならない。まずは貴族たちに、それが国益になると納得させる必要がある。確実に説得できるよう、そのまま母の国で経済や貿易について学んだ。そしてシェレンへ帰り、兄たちの強力な助けもあって発案は通り、外務官を各国に派遣、交渉を経て、今日フェデルマと協定を結ぶに至ったのだ。
「だから……正直に言うと、シェレンから北大陸への偏見をなくすなんて、まだまだほど遠い話なんだ。でも今日、一歩くらいは進んだと思う」
セレイザがシェレンを旅立つ時に言ってくれた言葉を、彼は実行していたのだ。過去の歴史の結果を変えていくのは、どれだけ大変なことか。
母の国は、より近い北大陸東部との航路を開拓している最中だが、そのうち西部にも打診がいくと思うよ、とファレムは言った。
「それとさ、セレイザには悪いんだけど……その母上の国に勉強に行く許可をもらうために、父上と母上とアラク兄上にも、時呪いとあの旅のこととか、セレイザが受けた偏見の話を、全部しちゃったんだ。ごめん」
「え……ではシェレン王家の方々が私のことをご存知ということですか」
「うん。でも、口外しないから安心して。王家としても、俺の単独行動を公表したらまずいわけだしね」
もちろん国益も見込んでのことに決まっているが、こんなに大きく国を動かし、フェデルマに手を差し伸べてくれた王家の家族だ。口外しないと言っているのに、セレイザが文句を言うつもりはない。それにセレイザも、出奔を隠してくれた皇家に嘘はつけず、ファレムが呪いを解きに来てくれたことを話しているのだ。それは帰る前のファレムに許可をもらってはいたが、お互い様の話といえる。
「みんなびっくりしていたわよ。侯爵家のお嬢さんが、一人でこの国まで来ていたのか、って」
ディアンとファレムが建国祭のため久しぶりに帰った王宮で、家族だけで集まってその話をした。その時のことを思い出したエナが、うふふっと笑った。
「あ……そ、そこも話されたのですね……」
千年以上も続く由緒ある王家の方々に、セレイザは家出娘として知られているということか。
平民のままにしておいてくれてもよかったのに、と少し恥ずかしい気分になったが――もう仕方ない。
「こんな大きな事業を任されておられるなんて、お二人ともすごいですね」
「そんなに大げさな役目じゃないよ。ある適度の裁量権は与えられているけど、本当に重要なことは本国に諮らないといけないし」
ファレムが軽く笑って紅茶を口にした。シェレンではお茶といえばコーヒーのはずなので、なんだか不思議だ。コーヒーを苦手にしているエナに合わせているのだろう。
「セレイザさんは今、何をしているの? 晩餐会で、ハヴァード様が魔導士団とおっしゃっていたけれど」
「はい、所属は魔導士団です。魔法の研究や修練所の講師の補佐などもしますけれど、私は土地改良工事のお手伝いを主にしています」
「土地改良……?」
「荒れ地を畑地に変えるとか、そういうこと?」
「はい。水路を引く時や、河川工事など、私が一番得意な水魔法が役立てることはありますので」
いつかはシェレンのように魔獣の少ない土地になるよう、少しでもお手伝いがしたいんです、とセレイザは話した。
いくら魔獣退治に慣れている民とはいえ、子どもは違うし、大人にだって事故や怪我はあり、時には死亡者も出る。
「生まれた時からそういうものだったので、気がつかなかったんです。シェレンの平穏な土地柄に触れて、フェデルマの魔力の淀みが少なくなるように、私にできることをしたいと思うようになりました」
まだ魔獣が減ったと自信が持てるほどの成果はありませんが、と言ってセレイザも紅茶をいただいた。この香りは、普段あまり飲まないものだ。この西大陸の茶葉なのだろう。
「そういえば……グレッド家のご当主は、今もジェイ殿なんだね」
公館に入ってから、ハヴァードに自身の護衛役として紹介されたのは、「侯爵ジェイ・グレッド」だった。ファレムは三年前、ジェイと出会い、別邸まで馬で並走していた時に、セレイザの父親こそが本当の侯爵なのだと聞かされていた。その口ぶりから、彼は爵位を返還するつもりだと感じていたのだが。
「そうなんです。実はあの後、ジェイと父は結構揉めたんですよ」
セレイザは少し思い出し笑いをした。
ジェイは、やっとあるべきところへ爵位を返せる、と安堵していた。しかし当のシンザは、もうジェイに任せると表明した。
シンザに言わせれば、ジェイは十年間これだけしっかりと領民と領地を守ってくれていたのだから、今さら過去の人間が返り咲く必要はない、とのことだった。どうせあと五年くらいでエリセに相続させて、自分は隠居する気だった。返すならエリセに返してくれ、前当主と一騎士としてできる補佐はする――と言って引かず、戸惑うジェイを押し切ってしまった。
ところがエリセも、十年後の世界を、特に領内を見て回るうち、このままでいいと言い出してしまった。もともとエリセは長子として後継の義務を自覚していただけで、権力欲とは無縁の女性騎士だ。自分よりも、確かな実績のあるジェイが続けた方が領民のためだ、と判定してしまったのだ。
名家と言われているはずの家柄を……普通は争いが起きても不思議ではないだろうに、とファレムは感心したような、呆れたような気分になった。
「それで、セレイザは年齢的に『グレッド侯爵のいもうと』って表現になったの?」
港でハヴァードにセレイザをそう紹介され、ファレムは違和感を覚えていた。ジェイとセレイザは従姉弟のはずだからだ。
セレイザは口元をおさえて微笑んだ。
「いいえ、本当に『いもうと』なんです。ジェイと姉が結婚したので」
「えっ……あ、そうだったんだ……!」
「姉も領主になるための教育は済ませていたので、今のグレッド家は頼もしいものですよ」
ファレムは三年前に会ったエリセを思い出した。
三歳違いで生まれた妹が危険な旅をしたことを知り、一歳違いになって少し雰囲気まで変わったことに目を潤ませていた。セレイザの顔を両手で包み込んで、その無謀な行動を少し叱り、私が代わりたかったと抱きしめていた。
ファレムの兄妹は四人そろって顔立ちが似通っているが、セレイザとエリセは髪の色なども異なり、あまり似ていなかった印象が残っている。
「昨日、エナさまのご婚約内定の話をうかがいました。おめでとうございます」
「ああ、ありがとう。父上は泣いていたらしいけどね」
そう言ったファレムとエナは顔を合わせて苦笑した。
ファレムはその時シェレンに帰らず居合わせなかったのだが、カッシア王家の使者から申し入れを受けた日の父王の落ち込みはひどいものだったと、アラクが手紙で教えてくれた。そういうアラクもエナを相当かわいがっていたから、たぶん気落ちしていた。
「……三年も経つと、いろいろと変わりますね」
「うん、そうだね――」
なぜだか自分の言葉に、セレイザは急に寂しさのようなものを感じていた。それをエナが、おそらく無意識に払い落とした。
「お兄様はそうでもないじゃない。また魔獣退治に行くんでしょう?」
「えっ、このようなお立場でですか?」
「いや、暇だから行くわけじゃないよ? この街がちょっと特殊なんだよ」
町の外や街道の魔獣を定期的に狩って安全性を高めるのは、普通は領主の役目だ。
ところがこの街は商業特区とされ、管轄は国であるのだが、総督や領主という者が存在していない。だからここに館を持つ貴族が定期的に開く話し合いで街を動かし、魔獣駆除は持ち回りで行っている。
ファレムはカッシアの民ではないし、一時的な駐在なので街の運営には関わらないが、この街に仮にでも居を構えている以上、魔獣駆除には協力している。
「確かに変わった習慣ですね」
「今ちょうど俺が駆除の担当なんだけど、調印式の準備があったから延期していたんだ。でも祭祀があるなら周辺の町からも人が集まるだろうから、その前に行くべきだな……」
「そうね、明日は無理だけど、急いだ方がいいわ」
セレイザは、ファレムが戦う姿を思い出していた。彼は剣に火魔法を乗せる。そんなことをするのは、自分以外は今でもファレムしか知らない。
「セレイザさんの滞在が延びてうれしいわ。一緒に街を回りましょうね!」
エナは大人っぽくなっても、無邪気な笑顔になると途端に可愛らしくなる。
ぜひ、と答えたセレイザもうれしくて笑顔になったが、きっとエナのように無邪気な表情ではなかった。
その後もしばらくエナの部屋で三人で話をした。
二人との再会に、こうして話せたことに、セレイザは喜びを感じている。間違いなく、とてもうれしいのに。
なぜ、うれしいだけではなく、小さな寂しさがつきまとうのだろう。