遣い
港を離れた船は、水平線へと向かって進んだ。その向こうにある北の大地へ向け、重要な責務を負って。
その貴族の船の出港を桟橋で直々に見送っておきながら、彼は館に戻ってからもテラスの手すりに手をつき、ずっとその船影を眺めていた。それは北西の海の彼方へ吸い込まれるように小さくなっていく。
本当ならあの外務官に任務を与えず、直接自分が船に乗って行きたいくらいだった。何度もあの地へ行っている外務官が羨ましい。
「いよいよね、ファレムお兄様」
後ろから、妹のエナが声をかけてきた。
ファレムは妹を振り返って小さくうなずき、海に目を戻した。エナも兄の隣に立って、同じように遥か彼方の船を見つめた。
「やっと、ここまで来たよ」
「楽しみね」
陽のあたるテラスに佇む兄妹は、鮮やかな緑色が透けて見える独特な黒髪――翡翠髪の持ち主だ。瞳は髪とは違って黒味はない、透明感ある緑。
シェレン王家の末の王女であるエナは、幼い頃から美姫と称されている。そしてファレムもその上の二人の兄も、そんな妹とよく似ていた。
ファレムとエナは心に染み入るものを感じながら、もう船がかすんで見える海を見続けていた。
「これで夏には……シェレンとフェデルマの間に、航路が結ばれるはずだ」
シェレン王国の遣いとして出港した外務官は、通商協定締結の最終確認と、その調印式への招待のためにフェデルマ帝国へ向かった。
長かったな、とファレムは思った。これを志してから、三年近くの月日が経ってしまった。だがまだ本懐ではない。これは商業的な繋がりに過ぎないのだ。
エナがにこりと笑って兄を見上げた。
「セレイザさん、お元気かしらね」
「……きっと元気だろ。強い人だから」
「そうね」
ファレムはわざとエナの方を見ずに答えた。そうしないと妹は、妙な探りを入れてくるかもしれない。
「でも……いつになったら会えるのかしらね……。通商協定では、王族や貴族の行き来なんてないものね」
エナはため息をつきながら眩しい空を見上げ、目を閉じた。
ファレムも他の兄たちも、大変な偉業に挑んでくれたと思う。まだ途中だが、今回のことはきっと、シェレンの歴史に刻まれる大事業だと確信している。
……けれど、エナが大切な友人に会えるのは、まだずっと先なのだろう。
北大陸フェデルマ帝国の中央部に領地を持つ、現皇后の出身家キュベリー侯爵家は、帝都の魔導士団にある依頼をすることを決め、遣いを出した。
驚くことにそれに応えてやってきたのは、昔から親交の深いグレッド侯爵家の娘にして、比類なき魔力の持ち主と評されるセレイザだった。
セレイザは早速受けた依頼通りに、作業員と共にとある町の外れの農業地帯の川辺に赴いた。川岸の少し高くなったところから川を見下ろし、水魔法を発動させる。
「ここをおさえていれば大丈夫?」
「はい! ありがとうございます! できるだけ早く作業を済ませますので」
「これならそれほど魔力は使わないから急がなくて大丈夫よ。安全を一番に考えて」
水魔法によって流れが曲げられてあらわになった川底に、円匙を持った作業員たちが一斉に降りる。事前に決められたとおり、それぞれの持ち場の川べりを競うように掘り始めた。
護衛の役についているキュベリー侯爵家騎士団の小隊の隊長が、セレイザと彼女に付き従ってきた侍女に声をかけた。
「どうか、ご無理をなさいませんよう。おっしゃっていただければ、作業は中断いたしますので」
「お気遣いありがとう。でもこれはそれほどの魔法ではないから、まだまだ大丈夫よ」
セレイザは笑顔で応じた。
この魔法は中等魔法だが、以前遠い異国で川を止めた時とは全然違う。掘削作業をしやすいように、川の片側の水を少し避けてやるだけなので、魔力の消費は大したことはない。
この川は町に豊かさをもたらすが、大雨の降りやすい季節になると、氾濫を起こしやすい暴れ川であった。昨年堤防を造ったが越えてしまい、畑を水浸しにしてしまった。
キュベリー侯爵家は本格的な治水工事を決め、帝国魔導士団に水魔導士の派遣を依頼し、セレイザが送られてきたのだ。
今日はまだ工事の一日目だ。溢れやすいところの川幅を拡張するだけでなく、迂曲している箇所もいくつか整えたいとのことだった。
今は五の月。初夏の太陽は思いの外、肌にジリジリとする。セレイザは傍らに立っている侍女を顧みた。
「カーリ、暑いから、あなたは木陰で休んでいて」
「いいえ。暑いからこそ、ここにいるのです」
そういうとカーリは日傘を開いて、二人の上に降り注いでいた日差しを遮った。いつの間に荷物に載せ、いつの間に手に持っていたのか。
「……なんて、用意がいいの」
「当然でございます。お嬢様がお倒れになられたら、キュベリー家にご迷惑をおかけしてしまいますから」
さらりとそう言ったカーリだが、感心しているセレイザと目が合うと、澄ました顔を維持できなくなった。
「もう……、お嬢様はもう少し日焼けをお気になさった方がよろしいと思いますよ。ドレスをお召しになった時、襟元に出てしまいます」
「あ、……そうね。ありがとう」
二人は目を合わせたままくすくすと笑った。
今のセレイザとカーリは現場作業者に近い格好をしており、それは丸襟のシャツである。ドレスは首元が広く開いたり、肩を出すことも多い。今着ている服で日焼けをしたら、その境目がくっきりと出てしまうだろう。淑女として、それでは美しくない。
セレイザが水をおさえて行われる作業は、とてもはかどった。治水工事は予定以上に順調に進み、セレイザがキュベリー家の依頼を完了し、その報告をしに帝都への帰路につくのは、七日後のことになる。
フェデルマ帝国の帝都は一番南西に位置しているといってよい。海に面してはいないが、ごく近い距離にある。
その帝都から東にある街道上に、ひと目で貴族のものとわかる二頭立ての立派な馬車が走っていた。護衛の騎士が何列にもなって付き従っている。国内は平和であるが、かつて主人がまさかの襲撃を受けた経験のあるこの貴族の騎士団は、その主人自身が大げさだと呆れるほど、警護にちからを入れていた。
「それでジェイ、そろそろ話してくれもいいんじゃないか。なんでリューベルトはお前だけじゃなく、俺まで呼びつけたんだ」
「ですから叔父上、私も用件については何も心当たりはないのですよ。本当に」
叔父の何度目かの追求に、ジェイは困った表情を浮かべた。
イゼルのグレッド侯爵家に皇帝リューベルトからの遣いが到着し、急ぎだと渡された手紙の内容は、ジェイとシンザに城に来るよう催促するものだった。急ぎといいながら用件はひとつも書いておらず、何もわからないまますぐに出立するしかなかった。
シンザは灰茶色の髪の下で、納得がいかないという顔をしたが、どうやら甥も本当に知らないようだ。それならこの追求は八つ当たりにしかならない。シンザはしかめた顔を、窓の外の遠くに見えてきた帝都に向けた。
「あいつ、俺のことは指先一つで動かせると思っているからな。遠慮ってものがない」
「それだけ陛下は叔父上のことを、本当のご家族のようにお思いだということでしょう」
ジェイの父ノルドレンを含め、内乱時代に皇帝を支えた他の貴族家も、現在でもとても親しくしている。しかし四十年以上前の政変時に、城を追放された少年時代の皇帝を命懸けで救い、匿い続けたグレッド家は、やはり別格なのだ。
シンザは、冷静な大人の対応をする甥を見て、静かに微笑んだ。呪いが解けたあの日、シンザから見れば一晩でいきなり、十四歳から二十四歳になっていたジェイは、目を見張るほどの成長を遂げていた。侯爵家当主としてもそうだが、エリセを上回りシンザに並ぶ騎士になっていたのだ。
「……変な頼みじゃないといいがなあ。コーディの件だって、もともとはあいつに話を振られたんだからな」
「それは……陛下は本当に後悔しておられましたよ」
「ああ、いや、他の者が呪いに遭わなくて良かったとは思っているんだが」
シンザは少し言い訳のように言葉を付け足した。
家人にも周りにも苦労はかけたが、二女にも大変なことをさせてしまったが、内乱時代の余波が自分たち限りで終わったようであることは、シンザにとって救いだった。国内は安定している。騎士が尊ばれる国であっても、もう本物の戦など起こってはならないのだから。
帝都にあるグレッド邸は城のすぐ近くにある。
シンザたちは今日はこのまま休み、明日城に上がるつもりでいたが、彼らの到着を城から目ざとく見つけていたらしい皇帝は、すぐに登城するよう使者を寄越してきた。シンザとジェイは一息つく間もなく着替え、使者とともに城へと向かうことになった。
「リューベルト、何のつもりだ。明日でいいだろう。イゼルは遠いんだ」
皇家の私的な区画の小さな謁見室に入るなり、シンザは待っていた皇帝に向かって毒づいた。こんなことができるのは、帝国広しといえど彼だけである。
シンザはリューベルトより二つ歳上だった。だが十年間時が止まっていたシンザは、今や八歳も歳下になってしまった。もちろん、周りのみんなの時間が十年も進んでいたことにひどく衝撃は受けたが、シンザはリューベルトが歳上である事実が、三年近く経った今でも一番気持ちが悪かった。
「騒がしいな、お前は。久しぶりに城に上がっておいてひと言目がそれか」
皇帝がこれほどくだけた話し方をするのも、妻や息子たち以外にはシンザくらいである。
ジェイは少し笑いたくなったが、腕を組んで少しも頭も下げないシンザの横でしっかりと膝を折り、主君への挨拶を済ませた。皇帝はジェイに、もとの姿勢に戻るよう促した。
「本当に佇まいまで立派になったな、ジェイ。お前も見習うんだな、シンザ」
「今さら俺がお前に膝を折る挨拶はないだろう。もう俺は引退しているんだよ」
「……はは……引退か……」
ふっと少し目を閉じたリューベルトに、シンザが組んだ腕をほどくことなく言葉をかけた。
「――譲位を考えているのか」
「ああ……、考えているさ。私はもう五十六だ。ハインも今年三十三歳になる。この国を背負っても、軽んじられる年齢でもなくなった」
「お前が背負った時は、それより十歳くらい若い頃じゃなかったか? もう、……充分だろうよ」
「……陛下……」
驚きを隠せず、主君と叔父の顔を見比べているジェイに、皇帝は微笑んだ。
「もう少し後のことだ。それまでは内密にしておいてくれるか?」
「は……はい……」
「リューベルト、今日はそんな話なのか?」
「いや、用件はこれじゃない」
皇帝は二人も座れるよう、自らも玉座を離れ、テーブルを挟んで向き合う椅子に腰掛けた。
「……時に、セレイザは元気か」
「元気だが?」
「八の月には齢二十になるのだったか」
「俺たちの年齢は正確じゃないが、そうだな」
シンザの一家と五人の使用人たちは十年一ヶ月の間、時が止まっていた。生まれた日から数えた記録上の年齢では、本人の意識や肉体的年齢と乖離があるため、本来の年齢から十を引いた年齢を誕生日で数えることにしている。二女のセレイザだけは八年四ヶ月で呪いが解けたため、八歳引いている。
「陛下、もしやセレイザのこともお呼びでいらしたのですか? 使者殿のお手紙には名がございませんでしたので、連れてきておりませんが――」
「いや、仕事に行っていることは知っている。それでいいのだ、ジェイ。呼んではおらぬ」
「……なんだ、おい……冗談はよせ、まさか縁談じゃないだろうな」
「……いや……」
なんとも歯切れの悪いリューベルトに、シンザはまるで脅すような視線を向けた。当主と父親だけを呼びつけて、娘の話題を出す……どこかから縁談を持ちかけられたと受け取っても無理はない。
当人の気持ちを汲まぬ政略結婚は、どの国でも今は減っている時代だ。しかし身分の高い家系であるほど、どうしても相手に制限はあるし、家が持つちから関係や思惑と完全に切り離して考えるのは難しいものである。
今のフェデルマ皇家には、適した年齢の皇女がいない。グレッド侯爵家の娘ならば、その代わりに望まれる可能性は充分にある。
「はっきり言え、リューベルト。いや、はっきり言われても断るがな」
「違う。縁談が来たわけではない。……順に話そう」
リューベルトは、不機嫌に眉根を寄せるシンザから目をそらし、ジェイに視線を向けた。
だが本当は、シンザにこそ話すべきことだ。