8 少しの優しさ
シャンプーが目に入り、水だと思って思い切りひねったのが湯のジャグチで……。まさに踏んだり蹴ったりである。
その後状況を何とか呑み込んだシンジによりシャンプーを洗い流してもらい、風呂場を脱出することができた。
腰の痛みは引く気配がなく、パジャマに着替えた今でもシンジに肩を貸してもらい、部屋へ向かっている。
「何でボトル半分も使おうとするんだよ。1プッシュで十分だろーが」
「プッ……?どうやって出すのかわからなくてな……」
やはり大声で呼ぶなり裸で出てくなりして聞けばよかったのだ。この際恥は捨てて。
「あーあー俺が馬鹿でした。ぜーんぶこまかーく教えればよかったなー」
「その言い方はないだろう。馬鹿にするな」
シンジはわざと大きな声を上げた。それも、面倒くささとこちらへのからかいが混じった声色だ。前言撤回、こいつには死んでも頼りたくない。これからはトモルや彼女の両親に訊くことにしよう。
シンジに対する不満をあれこれ並べ立てていると、いつの間にか部屋に到着していた。
「もう寝な。明日から学校だから」
部屋に入ると、意外にも優しく寝台まで連れていかれ、そのまま寝かされる。丁寧に布団まで掛けてくれた。まるで母親に寝かしつけられたような気分だ。
「あ、明日だと?」
なんと。明日からとは初耳である。コーコーといったか、そこに通うのはもう少し生活に慣れた頃だと思っていた。……なんて悠長なことを考えていたとかの聖獣様に知られれば、また冷静な顔で詰られるのは火を見るよりも明らかである。
私の表情から、私がその事実を知らなかったことがわかったのだろう、シンジは少し驚いたような顔をする。
「知らんかったの?……まあ、言いたかないけど姉ちゃん浮かれてたもんなあ。ランディーヤさんと一緒に学校に行ける~って」
最後の方はトモルの声真似をしたようだったが、全然似ていない。
…………。
こほん、とシンジはわざとらしい咳払いをした。
「ま、明日のことは心配すんな。俺たちが全部やるからお前は言う通りにしてればいい」
俺はまだ起きてるから。そう言って、シンジは部屋を出て行ってしまった。
布団を被りながら、私はふと思った。
私はシンジを誤解していたのではないか?
出会った当初こそ、心底こちらを警戒しているようで(当たり前だが)彼から向けられる言葉は棘まみれだったが、私が危害を加える人間でないとわかったのか、馬鹿だ馬鹿だと罵りながらも世話を焼いてくれる。私の方も、最初の頃は彼に何か言われる度にパッと怒りが湧いたものだが、今ではそんなこともない。むしろ、部屋を出ていく直前のシンジは、私に優しい目を向けていると感じられた。
ありがとう、と小さく呟いてから、私は目を閉じた。
カサリと何かが動いた音がして、眠りに落ちていた私の意識は瞬く間に浮上する。
これは、宮廷魔法師として王城に曲者が侵入した時や他国に奇襲をかけられた時などに素早く対応、応戦できるようにするためについた癖である。だから、どんなに深く眠っていても普段の城の中ではあり得ない物音があればすぐに起きてしまう。他国との緊張が高まっていた時は、風が窓を叩いた音で飛び起きたこともあるくらいだ。
目を開けると、部屋は明かりを消してあり、薄暗かった。窓から差し込む月光が優しい。
寝台から上半身を起こし、物音のした方へ目をやると、シンジがいた。床で大の字になり、寝息を立てている。彼の腹には薄い掛け布が雑に掛けてあった。これでは風邪をひいてしまうだろう。そして、おそらくさっきの物音も、彼が寝返りを打ったものだろう。
私は極力音を立てずに寝台から降り、シンジに近付いた。
しゃがんでその寝顔をしばらく見つめても、起きる気配はない。寝顔には夢でも見ない限りは感情は反映されない。そのためか、そこに普段の小馬鹿にしたような色はなく、ただのあどけなさの残る少年の寝顔があるばかりだった。
床の上で眠りこける彼を見て、私はつい苦笑が漏れた。
「私を寝台で寝かせ、自分は床の上か。……全く」
不器用な優しさとはまさにこのことだ。できればシンジを寝台に持って行きたいところだが、そんなことをすれば流石に彼も目が覚める。それに、この彼の気遣いは素直に受け取っておいた方がよさそうだった。
私は掛け布をシンジの身体に掛け直すと、また寝台に上った。
慣れない環境下で休むのだから、シンジの寝返りの時のように些細な物音で飛び起きるかと思ったが、そうでもなかった。起きたのはその一度きりで、私は思った以上に安らいでいるようだった。
翌朝。ピピピピピと何か音が聞こえ、ゆっくり目を開ける。既に日は顔を出しており、その光をもって一日の始まりを告げていた。
一定の間隔で繰り返される音は、一度耳に入れば再び眠りにつくことは不可能だった。単調ながらも、再び眠ることは許さないと直接脳に訴えてくる。
ピピピピピ、ピピピピピ。
ピピピピピ、ピピピピピ。
音は鳴り止むことを知らないようで、頭を無理矢理覚醒させようとするそれはその出どころがわからないから止めようがない。
いい加減鬱陶しくなったその音から逃れるように、布団を被る。しかしそれで防げる筈もなく、音は淡々と鳴り続けた。
いつまで経っても鳴り止まない音にうんざりして、他の部屋に避難することに決めた。
寝台から起き上がり、耳を塞ぎながら部屋の入口に向かう。
視界の端で、床で寝ていたシンジがもぞもぞと動く気配がした。やっと起きたようだ。あれだけうるさい音が鳴っていながらもここまで眠っていられたのはある意味尊敬する。
ピピピピピ、ピ。
シンジが動き出した途端、音はぱったりと止んだ。不思議に思って、床に転がっている彼の方を見る。
彼は眠たそうに目をこすり、薄い板のような物をいじっていた。あれは確か……
「スマホ。目覚ましもこっから鳴ってた」
私の言おうとしたことを、シンジがだるそうな声で言った。
そう、スマホだ。ビョーインから出てトモルの家に向かう時も、道行く人の大半がそれを手にして歩いていたのを見た。この世界での生活には必要不可欠な物なのだろうか。
そして、先程の音はそこから発せられていたようだ。目覚ましのための音と聞けば、納得した。
シンジはのろのろと立ち上がると、部屋の隅にある棚に向かう。両開きになっている扉を開けば、数着の服が現れた。
その中からシャツ、ズボン、ベルト、ネクタイ、上着を取り出したシンジは、それを次々にこちらへ投げて寄越した。
「これ、お前の制服。サイズはぴったりだから安心しな。……流石にどれをどこに着るかはわかるよな?」
やはり学びの場は規則があり、制服を着るのはどこの世界でも同じようだった。
ただ、彼の発言の後半……ぼそりと言われた言葉に私はむっとする。お前の目には私が服の着方もわからぬ幼子に見えるのか。
「それくらいわかる!」
朝から少し声を荒げてしまった。シンジはうるさそうに顔をしかめる。当たり前だ。
パジャマを脱ぎ、シャツに袖を通そうとして、私は一つの疑問にぶつかった。
私がこの家に世話になり始めたのは昨日のことである。そんな短時間で私のための制服など用意できるのだろうか?
「私の制服はどうやって用意した?私は採寸など受けた覚えはないし……」
すると、シンジはのろりと片腕を上げ、私の胸を指さした。その先には、私の首から下げられたルナの石のペンダントがある。これがどうかしたのだろうか。
私が首を傾げると、シンジは少しかすれた声で言った。
「聖獣のありがたいお力によるものですよ」
シンジの言葉で連想するのは、かの薄桃色の聖獣様である。何故彼が、ルナの石に姿を変えているルネミーニャを知っているのだ。彼の前で変化したことはなかった筈……。
シンジはため息交じりに語りだす。
「寝ようと思って部屋に入ったら、急にお前の胸が光って、そこからピンクの変な犬が出てきたんだよ。しゃべるし跳ねるし撫でてもらいたがるし。……んで、そいつがお前の制服一式をどっかから持ってきて、伝言を頼んでそのペンダントになった。以上」
なるほど、そういうことか。私の制服の心配をしたらしいルネミーニャはおそらく石の魔力をギリギリまで使って魔法で制服を創ったのだろう。確かに聖獣様のありがたいお力によるものだが、素直に感謝できないのはルネミーニャの冷静でいて煽るような口調のせいか、はたまた未熟な自分が他人の好意を素直に受け取れていないだけか。
シンジは私の着る予定の茶色を基調とした服とは違い、上下黒の、かっちりとした厚い服に着替えた。早く着替えて下りて来いよ、そう言って彼は部屋を出て階段を駆け下りていった。
コーコーとは色々なことを学ぶ場所だとトモルに教えてもらった。ただ、それ以上のことは全く想像がつかず、正直に言うと少し怖くもある。
シャツを着てボタンを留め、ズボンを履いてベルトとネクタイを締め、上着を羽織る。これでもう、こちらの世界の学生たちと何ら変わりない姿になった。上手く順応できたような気がして、一人で笑う。
あまりトモルを待たせてはいけない。私はペンダントが胸にあることを確かめ、部屋を出た。