2 白衣と少女と火の玉と
――妙に背中の下が柔らかい。寝台の上にでも寝そべっているようだ。
意識が浮上した私は、ゆっくりと目を開けた。
棒状の電灯らしき物が二つ、まず目に入る。それから一つ間を置いて、今自分の視界に入っているものがどこかの建物の天井だと理解した。
起き上がってみると、今私のいる場所が、私の寝ていた寝台、その隣に小机があるくらいの質素な部屋であることがわかった。入口は一つで、これまた奇妙な形の取っ手が付いた扉だった。
しかし、全く記憶にない場所である。殺風景で、置かれている物品がほとんど白。異様な空間に思えた。
確か私は、女王が放った矢が生んだらしい光に吸い込まれて……そこからの記憶がない。つまり、この部屋までどうやって来たのかわからないのだ。
外の状況を確かめてみなければどうにもならない。そう思った私は、寝台から降りようと身体に力を込めた。
「っ……!」
力を込めた途端、身体中を激痛が走る。思わず呻き、上半身を前に倒して蹲る。そこで初めて、自分が普段の法衣を着ていないことに気が付く。今の私は、真っ白であまり締め付けのない、休むのに適していそうな服を着ていた。この身以外に慣れたものが何一つとしてなく、混乱するばかりだ。
そこで、音もなく扉が開いた。
「あっ、起き上がっちゃ駄目です!」
入ってきたのは、白い清潔そうな服を着た若い男だった。彼は私の身体を起こし、再び寝台に寝かせた。その動作がやけに手馴れている感じがした。
「君は……?ここはどこなんだ」
「ここは桜木総合病院の病室ですよ。あっ、僕は看護師の岩崎です。道路で倒れたまま意識が戻らないって聞いたけど……大事なさそうでよかったです」
優しい口調で話しかけてくるイワサキとかいう男からは、敵意は一切感じられない。ひとまず安心したが、ここがどこなのかという問題の解決には至っていなかった。
「サク……ラギソーゴービョーイン?」
彼が口にしたのはこの建物の名前だろうが、全く聞き覚えのない名前だ。ここがジダーリャでないことは間違いない。あまりにも変な名称なものだから、もしかしたら、異大陸にでも漂流したのか。
「私はジダーリャ王国の宮廷魔法師、ランディーヤ・ブランだ。この国は何という名前なのか教えてくれないか」
所属と名前を名乗ってみれば、イワサキは変な顔をした。
まるで珍妙なものでも見たような顔で私を見るものだから、少し腹が立った。
「……それ、漫画か何かの話ですか?ここは日本ですけど……」
「マンガ?何だそれは」
マンガ。ニホン。奇妙な文字の並びが私を襲う。どうやらここは、私のいた大陸とは文化が全く異なる場所らしい。
「漫画っていうのは……なんて言えばいいかな、架空の物語……ってところですかね?」
だって、魔法なんて存在しませんし。
苦笑しながらイワサキが言った最後の一言で、私は雷に打たれたような衝撃を受けた。
魔法が存在しない。彼はさも当然のように言ったのだから、それが事実なのだろう。
しかし信じ難かった。信じたくなかった。つい先程までの自分は、その魔法を駆使して味方を支援していたのだから。
開いた口が塞がらず、目も見開いたままの私は、他人から見れば相当な間抜け面だったことだろう。
「架空な筈がない!私は本当に魔法を使って……!」
魔法が使える証拠を見せてやろうと、軽く発火魔法を展開しようとした。
しかし、いつも通り静かに燃える炎をイメージしても、掌に炎が現れることはなかった。
まさか、魔法が使えなくなってしまったのか。魔法が存在しないというこの土地にいるからか。様々な憶測が私の脳内を飛び交うが、絶望と孤独がごちゃ混ぜになった私にはそんなものは意味はない。
脂汗が額から流れ落ちた。
「まだ気持ちが落ち着いてないのかもしれないです、今はゆっくり休んでください」
イワサキの顔が、だんだんと心配の色を帯びてくる。それが頭のおかしい奴を見ているような顔に見えた私は、焦りを加速させる。
「……そんな、私は……」
誰も知らない。私の国を、魔法を。魔法という生活の中にごく普通に存在していた力を当たり前のように否定され、暗闇に一人取り残された気分になった。
今私は、本当の意味で独りだ。ここでの扱いは、身元の知れない頭のおかしな奴。
視界が揺らぐ。鼓動が頭に響くほど大きくなる。だんだんと、呼吸すらままならなくなってきているのを感じる。
寝台で仰向けのまま浅い呼吸を繰り返す私と、それを見て慌てるイワサキ。
この部屋に漂う嫌な空気を破ったのは、控えめなノック音だった。
「白藤です、入っても大丈夫ですか?」
その声は、少女のものだった。
「ああ、入っていいよ」
ノックで我に返ったらしいイワサキは、優しく扉の方へ返事をした。
イワサキが入ってきた時と同じく音を立てずに横に開いた扉の陰から、控えめに一人の少女が顔を出した。その動作がまるで小動物が物陰から周囲を伺うのと同じように見えて、少し心が和んだ。
「おいで。今ちょうど目が覚めたところだよ」
イワサキが手招きする。すると、少女は「失礼します」と小さく頭を下げてから部屋に入ってきた。
黒髪を肩の辺りで切り揃えてある彼女を見た時、戦前に髪を切り捨てた我が主のように思えて、不意に、守れなかった悔しさがよぎる。
「よかった、目が覚めたみたいで……。何をしても起きなかったから心配しました」
ほっとしたように小さく笑う彼女の肩を、イワサキがぽんと叩いた。
「この白藤燈ちゃんが病院まで付き添ってくれたんですよ。燈ちゃん、こっちはランディーヤ・ブランさん」
私の名前を聞いた途端、シラフジトモルというらしい少女が先程のイワサキと同じように、不思議そうな顔をする。私が彼らの名を奇妙だと思うように、向こう側からすればやはり私の名前も、魔法を使えるということも何もかもがイレギュラーな存在なのだろう。
「そういえば、渡したい物があるって言ってたよね?」
イワサキに促され、トモルは何かを握っているらしい右拳を私に向けた。こちらも反射的に左手を掌を上にして差し出した。
「これ、ランディーヤさんがずっと持っていたんです。大切な物だと困るから、早めに渡した方がいいかなって思って」
トモルが拳を開き、それと同時に私の左手に何かが載ったような小さな重みを感じる。手の中にある物を見た私は、驚愕のあまりしばらく動けなかった。
「これは……ルナの石!」
私の手のうちには、子供の掌大の丸石がぶら下がっているペンダント。その石とはまさしく、女王の持っている筈であるルナの石だった。光の当たり具合で様々な色を見せる神秘の輝きは、間違えようがない。
イワサキとトモルは、揃って私の手にあるルナの石を見た。そして、二人してわあ……と声を漏らす。双子のような動作に、思わず笑いそうになってしまった。
「綺麗な石ですね。見たことないや……」
「これは希少な魔力の結晶体だ。そうそうお目にかかれるものじゃない」
「魔力?」
……そうだ。ここには魔法がないのだから、魔力と言ってもわからないのか。
どう説明すればいいか私が考えあぐねていると、トモルが何かを思い出したかのように両手を一度叩いた。
「そういえば……ランディーヤさんって、コスプレイヤーさんですか?」
「は?コス……?」
また意味不明な単語が出てきた。そのコスなんとかとは何なのだ。
「何か、ほんとにアニメとか漫画に出てくるような恰好をしてたから……」
「いや、私はそのマンガとやらの中の存在じゃなくて……本当に魔法師なんだ。今は何故か魔法が使えな……」
そこで私は、自分の中にごく少量だが魔力が巡り始めたのを感じた。今まで全く知らない世界にいることに困惑していて気付かなかったが、ルナの石を手にしてから、私の中に魔力に流れが生じている。
今なら、軽度な魔法であれば展開できるかもしれない。
自身の感覚に一筋の希望を見出した私は、再び掌を広げ、静かに燃える炎を頭に思い浮かべた。炎を発現させるという思考以外の一切を断ち切り、精神を統一する。
いつもよりも遅い速度だが、着実に魔力が掌に集中してきているのがわかる。
小さな火の玉になるくらいの魔力が集まったと、私の直感が告げる。
「現れよ、小さな焔……プチフィレーム」
縮小発火魔法を展開する引き金となる呪文を呟く。すると、私の掌に不安定にゆらゆらと揺れる火の玉が現れた。
「これは発火魔法を縮小化した、縮小発火魔法。……どうだ、これで魔法が存在しないなんて言えないだろう」
安定さこそないものの、魔法展開は成功したのだ。
やはり魔法は存在する。掌で踊る火の玉を見つめ、私はどうだと言わんばかりの顔を二人に向けてやった。
「え、これ、本物の火……?」
イワサキは、動揺を隠しきれないといったふうな表情で、そっと火の玉に手を伸ばす。そして、彼の手が火の玉に僅かに触れた瞬間に、バッと手を勢いよく引っ込めた。
「あちっ!」
「正真正銘本物の火なのだから、熱いのは当たり前だ」
当然のことながら火の玉と接触した部分を赤く腫らしたイワサキの表情は、動揺から驚きに変わる。
「ランディーヤさんって、ほんとのほんとに魔法使いなんですか……?」
そう問うてくるトモルの顔は、魔法で発現した炎を見てもなお、信じられないというふうに眉を寄せていた。
「だから言っているだろう。私はジダーリャ王国の宮廷魔法師、ランディーヤ・ブランだと」
むっとした私は再び名乗る。
「ほんとに魔法使い――!?」
イワサキとトモルは、二人で顔を見合わせた後、一緒に大きく素っ頓狂な声を上げた。
そのすぐ後、声を聞きつけてきたらしい別の白衣の人間に叱られた二人は、恥ずかしそうに黙り込んでしまった。