17 約束
父のげんこつで沈んだ慎次が復活すると間もなく、夕食となった。
「ランさん、燈から聞いたんだけど、馬術部に入るんだって?」
夕飯の席には、朝は忙しそうに家族の朝食を作っていた燈の母もついていた。
母の言う通り、私は馬術部に入ろうと思っている。
あらそうなの、頑張ってねと微笑む母の隣で、燈がいきなり勢いよく立ち上がった。
「ええっ!?ランさん馬術部に入るんですか?」
「そ、そのつもりだが……。鬼塚先生もいるし。燈も誘われていたじゃないか」
燈は俯き、もじもじとしだした。
「わ、私は運動は苦手だから……」
「そんなの、やってみなきゃわからないでしょ?いいじゃない、入っちゃいなさいよ。顧問の先生からのスカウトなんて、めったにないんじゃない?」
別に燈も私も、馬を駆る能力を買われたわけではないが。
燈の両親、弟の慎次には、詳しい事情を説明しても心配をかけるだけだから、状況がはっきりと、安定してきたら真実を伝えてみよう。今は、こちらの世界で確実な自分の居場所、そして味方を多く見つけることが先決だ。その方が、女王を復活させ、祖国へ還ることも容易になろう。
「燈、君が嫌だったら無理強いはしない。だが、私と鬼塚先生の傍にいた方が安全ではないだろうか。……どうだ、馬術部に入らないか?」
そこですかさず私と燈の間に入るのは慎次。彼は身を乗り出し、手を私と燈の間に振り下ろした。
「姉ちゃん、入るな!何もこんな変態野郎と一緒の部活に入ることなんかねえ!だいたいこいつは……」
「慎次、お前はもうちょっと燈離れしなさい」
にこりと燈の父が笑えば、慎次はむくれつつも黙る。流石に、げんこつを三発も喰らいたくはないらしい。
一方の燈は、俯いて腕を組み、考え込んでいる様子だ。それを見るに、どうやら彼女は絶対に馬術部に入らないというわけでもなさそうだ。
今までは、あの化け物が燈に近付こうとするたびに鬼塚先生が陰で鞭を振るい、守っていたのだろう。そんな先生の傍にいれば、燈も守ってもらえて私も気が楽になる。一石二鳥である。それに、先生にはまだ聞きたいことがいくつも残っていた。……まあ、問い詰めてものらりくらりとかわされるような気がするが。
「……そうですね、わかりました。私、馬術部に転部します」
「そうか!ありがとう、助かる」
燈の決断は、意外と早かった。私は安心したため、思わず頬が緩む。
礼を言うと、例のごとく燈の頬は赤くなるのだった。
風呂に入り、パジャマに着替えて部屋に戻ると、慎次が寝台に座っていた。遅い、と言うところから、私を待っていたことがわかる。ちなみに、今日は何とか一人で入浴することができた。
「何だ。寝るなら寝台で寝ていいぞ。私は床で寝る」
何か不満を持っているような表情の慎次は、私の発言に首を横に振った。
「いや、お前はベッドで寝ろよ」
そうしてスマートに寝台まで誘導され、気が付けば自分は昨晩と同じく、敷布団と掛け布の下に収まっていた。慎次は口は悪いが、こうして母親のように寝かしつけてくれるあたり根はいいのだろう……と度々思う。
「お前、絶対何か隠してるだろ。知ってること放せよ」
寝転がる私の腹の辺りを掛け布越しに軽く叩きながら、慎次は言った。
私はほんのわずかな間、逡巡した。
慎次は度を超すほどの姉想いだ。それも見ているこちらが引くくらいの。そんな彼に、姉が得体の知れない化け物に狙われているということを告げるのは気が引けた。これからは私と鬼塚先生で守るし、これまでも鬼塚先生が燈に気付かれることなく陰で化け物を退治してきたのだから、余計な心配はさせたくない。
「隠してることなど……何もないぞ」
私はそこまで嘘が上手ではないと自覚している。故に、声が変に上ずってしまった。
それを見逃す慎次ではない。彼はピクリと片方の眉を吊り上げ、そして私の腹を強く叩いた。その威力は予想以上に大きく、私はぐえっとみっともない声を上げてしまった。
「俺に嘘が通じると思うなよ」
それは姉関連のことだけだろう、という言葉は口に出さないでおく。
私が何も言わないでいても、慎次は発言を続けた。
「おい、何とか言え。それかあのピンクい犬を呼んで状況を説明させろ。もしお前らが姉ちゃんを辛い目に遭わせるって言うなら……」
私の腹を叩いていた方の手を拳の形にし、ドスドスドスと連続で強い打撃を放ってくる慎次。
私は魔法を主に扱うから、白兵戦はできても、そこまで物理的な防御力に自身があるわけではない。はっきり言って、慎次の打撃は痛い。下手をすると夕食が逆流する。
「ぐふっ、それはない!断じてない!うっ、私が燈を危険な目に遭わせるわけがない、だからそれを止めろ!吐くぞ!」
「吐くな!早く言え!隠してないならこの拳は痛くない筈だ!」
「馬鹿を、ぐえっ、言うな!……わかった、話す、話すから!」
滅茶苦茶な理論を振りかざす慎次には、私の声は届かない。
慎次に心配をかけたくないという思いと、このままでは苦しみ悶えながら嘔吐するぞという危機感が私の中でぶつかる。それは刹那の間に決着が着いた。
勝ったのは、勿論後者だ。今は私の生命が危険にさらされている。そして嘔吐してしまえばそこに精神的なダメージも上乗せだ。それは何としても避けたい。
慎次が拳を開き、再び寝かしつけるように優しく腹を叩くようになったことに安堵した私は、観念してこれまでのことをかいつまんで話した。
全てを聞き終えた慎次は、しばらく目を閉じていた。彼なりに整理する事柄があるのだろう。
ややあって、彼は目と口を開いた。
「――俺はただの一般人で、お前みたいに戦争の経験とかはない」
お前の話が全部ホントなのかは知らんけどな、と続ける。
「いいか、姉ちゃんを絶対守れ。姉ちゃんは割と繊細だから、お前の軽はずみな言葉ですぐに傷つく。姉ちゃんに悲しい思いをさせない、痛みを感じさせない。それを誓え」
いつもの棘を含んだ、こちらを馬鹿にするような声ではない。彼の言葉は、私を見据える視線は、真剣そのものだ。
私の中で、答えは既に決まっている。これを瞬時に決められぬのならば、女王の右腕として戦場に立っていた最高魔道将の名折れだ。
「誓おう。ランディーヤ・ブラン、そして天月ランは、燈を一切の悲しみ、苦痛から守る」
「…………もし破ったら、本気で殺すからな」
「破るわけがない」
燈は私が全力で守り抜く。彼女は女王の復活の手がかりとなるようだし、ここで世話になっている恩もある。恩人を傷つけるわけにはいかない。
しばらく互いに真剣に見つめあった後、慎次がふっと口元を緩めた。
「じゃあ寝な。疲れたろ」
おやすみ、と言って、慎次は私の腹を一つ叩くと退室した。
「あ、ああ……おやすみ」
あの慎次の笑顔は何だ。彼は、家族以外にあんなにやわらかい表情もできたのか。
灯りの消えた部屋で私は眠ろうとしたが、意識が途切れる寸前に慎次の笑顔がちらつき、なかなか眠れなかった。
次の日の朝。つまり学校生活二日目の始まりは寝坊と遅刻から始まったのだった。