12 鬼塚先生
「もしまた先生を無視したら、思いっきりシバいちゃうんだから~。それはもうシバくっていうか、シバき倒すっていうかあ」
シバく、シバいてやる、と変に緊張感のない声で物騒なことをのたまうこの女を、私は知っている。
この女に、私はあちらの世界がまだ平和だった頃に一度会ったことがあった。
ビアン・シンレイ。”雷鞭”の異名をもつ女戦士。元いた世界で対峙していたヴィーティス帝国の軍・ヴィーティス銀狼兵団の将だ。馬と鞭の扱いに長けた彼女には、随分と我らジダーリャ王国軍は苦しめられたものである。馬で単身敵軍の中に突っ込んでは大人の男の背丈以上はある鞭を振るい、大勢いた筈の敵兵士を片っ端から吹き飛ばすその様は、鬼神を連想させた。私は最後方の女王の陣営にいたため直接対峙してはいないものの、伝令兵からの報告によれば、ビアンを食い止めるために軍の半数が犠牲になったという。恐るべき女だ。
その彼女が、何故戦とは無縁そうなこの世界にいるのか。他人の空似かとも思ったが、服装は違えど顔、声、体型、口調などすべてが全くあちらの世界で見たのと同じで、同一人物としか思えない。
「な、何故お前がここに……」
「その話は後だよ~。先生も生徒をシバくと体罰でお縄になっちゃうから、とりあえず席に戻ろうか」
いい加減イライラしてくるんだよね~と、とても苛立っているとは思えないのんびりとした声でビアンはそう言うと、教壇に戻っていった。
「ランさん、席に戻りましょう。鬼塚先生は起こると怖いんですよ」
いまだ倒れたままでいる私を、席から離れた燈が助け起こしてくれた。
「鬼塚?それがあの女の名なのか」
バシン、と強く鞭を叩きつけた音が響く。
前を見ると、笑顔のままで周囲にどす黒いオーラを放っているビアン……いや、鬼塚先生が机に鞭を打ち付けていた。
「と、とにかく今は戻りましょう!」
焦った燈にゆすられ、私は渋々自分の席に戻ったのだった。
鬼塚先生の担当する授業は、国語というものらしい。今は、昔の作家が書いた物語を段落ごとに解説している最中だと、燈は言った。
時々生徒が一人指名されては立ち上がり、文章を読み上げることがあった。幸い私は指名されなかったが、せめてわからないなりに真面目に聞いていようとした授業の内容はてんで頭に入ってこなかった。これも全て、祖国の敵にそっくりな鬼塚先生のせいである。
チャイムが鳴った。すると、それが授業終了の合図だったらしく鬼塚先生は教科書を閉じ、生徒に立つように言った。
「今日も皆頑張ってね~。じゃ、終わりま~す」
ありがとうございました、と礼をする生徒たちを満足げに見渡した鬼塚先生は、教壇から降りて教室から出て行こうとする。
……が、扉を開き、教室を出る寸前で止まり、私の方を振り返る。
「天月君、放課後に先生のとこに来なかったら、命はないと思ってね」
「……はい」
それじゃまた放課後ね~!と手を振り、鬼塚先生は出て行った。
精神的にも肉体的にも疲れてしまい、私は力なく椅子に座り込んだ。そんな私を見た燈は心配そうに顔を寄せてくる。
「ランさん、大丈夫ですか?それと、授業の初めに鬼塚先生のことを”ビアン”と呼んでいたのは……」
「あの女は、私のいた世界で戦っていた相手の国の兵士だ」
「えっ!?じゃ、じゃあ、ランさんと同じように、別の世界から来たってことですか?……でも、私が入学する前からいたらしいし……」
おそらくは燈の言う通り、私と同じくクレンヴ女王の力によってこちらの世界に飛ばされてきたのだろう。しかし彼女の本当の感情がわからない一定の笑顔、私のことは以前帝国の宮殿で会ったから知っている筈なのにその素振りを見せなかったことなどから、本当に他人の空似の可能性も捨てきれない。
それからもう一つ、女王の力で異世界に飛ばされたと断定できない事実があった。
その事実とは、ビアン――鬼塚先生が、燈がこの三滝高校に入学する以前からいたらしいということにある。
燈と私はまだ出会ってから日が浅い。それは、戦場で同時期に飛ばされた筈のビアンにも同じことが言える筈だった。
ビアンは確かにあの戦場で、馬上で鞭を振るっていた。それは、私が見た前線のジダーリャ兵たちの遺体の山が証拠だ。私と同じ時間に飛ばされた者たちは皆、今もこの世界の空気に、技術に、文化に戸惑っていることだろう。そう考えれば、鬼塚先生だって、この高校に来てまだ数日と経っていないという理論になるのだ。
「まだ本人だと確信したわけではないが、空似にしては似すぎている。まあ、放課後にはわかるだろう」
「鬼塚先生は、放課後は馬術部の練習馬場にいると思います。馬術部の顧問だから……」
「そうか。では放課後、案内を頼めるだろうか」
案の定、燈は少し頬を染めて頷いた。真っ赤になってばたつかなくなっただけ、彼女も私の存在に慣れたということなのだろうか。
「勿論です。……でも、気を付けてくださいね、鬼塚先生はあの通りいつも鞭を持ってて、陰では体罰の噂もあるんです。他にも人がいるから大丈夫だとは思いますけど……」
「白兵戦もできるように一通り戦闘技術は叩きこまれている。何かあっても大したことでなければ対処できるだろう」
「そうですか……」
燈はひとまず安心したようだが、その瞳は不安に揺れていた。
彼女の不安をどうしたら消せるだろうか。散々考えを巡らせたが、結局いい案が出ることはなく、次の授業の開始を告げるチャイムが鳴る。
「皆席に着いて、授業を始めるよ」
次の授業は、夏岬先生のようだった。燈の机に乗っているのは、数学の教科書。どうやら夏岬先生の担当教科は数学のようだ。
私は、とりあえず「自分は大丈夫だ」という意味を込めて、燈の頭を撫でようと思った。撫でようと手を伸ばした時にちょうど先生が号令をかけたから、燈には悪いが、少し雑に隣の黒髪をかき回す。すると、燈は真っ赤になりながらも席を立った。
頭の鬼塚先生の国語から数えて四つの授業が終わった時、皆の空気がふっと緩んだ。生徒らは皆パンやら弁当が入っている箱を取り出し、好き勝手に場所を取っては友人たちと食べ始めた。昼食の時間のようだった。
「ランさん、昼休みは一時間あるのでその間にお弁当を食べちゃいましょう。お母さんがランさんの鞄にも入れておいてくれた筈だから」
燈は桃色の布の包みを鞄から取り出し、言った。
「弁当?……ああ、この包みがそうか?」
彼女の発言を受けて鞄を漁ってみれば、燈が持っているのと色違いの青い布に包まれた箱があった。
布の結び目を解き、箱の蓋を開けると、中には食欲をそそる美味しそうな料理が詰められていた。きっと燈の母の手作りの料理たちなのだろう。
手を合わせ、いただきますと言い、料理を口に運ぶ。燈は箸を使っていたが、私の弁当箱にはフォークが入っていたためそれを使った。箸が使えない私のための気遣いはありがたい。
「やはり燈の母の料理は美味いな」
「それ、お母さんに言えばきっと喜びますよ。ランさんの口に合うかどうか、朝ご飯も不安だったみたですし」
「そうか。では帰ったら言おう」
燈は穏やかに笑う。それは、戦などとは無縁の、平和な笑顔だ。私があの人のもとにいた時には、もう見ることはないだろうと思っていたタイプの笑顔。
周囲を見渡せば、スマホを見たり、友人としゃべったりと、思い思いの昼休みをとっている。一瞬、元の世界よりもこちらの世界の方がよいのでは、という考えが脳裏をよぎり、慌てて打ち消した。
「天月君、燈ちゃん、一緒に食べよー?」
パンをかじり、自分の椅子を引きずりながらやってきたのはれあちー。断る要素もないので、私と燈は頷いて彼女の分のスペースを机に作った。ありがと、と言って、れあちーはそのスペースに収まった。
「天月君、自己紹介で異国出身とかって言ってたけど、どこの国?よく見れば鼻も高いし、顔の彫りも浅いわけじゃない……あんまり日本人顔じゃないよねえ。それに地味に茶髪だし。最初アタシみたいに染めてんのかと思ったわ~」
彼女は一人で何か妄想しては暴走することがあるが、それ以外は普通の人らしい。ごくごく普通の質問をされて、私は少し戸惑った。
「私の祖国?それは……」
れあちーは私の話を信じてくれるかどうかわからないが、別に嘘だと笑われても、それが事実なのだから変えようがない。別に減るものでもないし、正直に話そうと思って口を開いた矢先、燈に勢いよく塞がれた。
「ら、ランさんはえ、えと……そう!お父さんがフランス人だったらしくて!」
「フランスか!おしゃれだわ~!死ぬ前に一度は行ってみたいのよね~」
燈がちらりとこちらを伺った。その瞳にある心を完全に読み取れたわけではないが、大体はわかる。
魔法が存在しないことが常識となっているこの世界のことだ、私が異世界から飛ばされてきたと言えば、混乱を招くのだろう。
私も燈の言ったフランスとかいう国の知識は微塵もないが、彼女の話に合わせることにした。
「わ、私もこっちで生まれ育ったから、行ったことはないんだ」
「え~?でも、異国出身故、知らぬことが多いとかって言ってたじゃない」
本人には悪いが、れあちーは騙しやすそうだと思っていた。しかし、私のしどろもどろの発言の矛盾をあっさり突かれてしまい、口ごもる。
どうしよう、無邪気に追及してくるれあちーの双眸から逃れられない。私も、おそらくは燈も冷や汗をかいていたことだろう。
しん……と私たち三人の間に気まずい空気が流れる。いや、気まずく思っているのは私と燈だけだろう。れあちーには悪意の欠片もない。純粋な疑問をぶつけているのに過ぎないのだ。
「あ、あっ!次の授業って何だっけか!永久恋愛ちゃん、何かわかる!?」
燈が強引な手段に出た。わざとらしく手を叩いて首を大げさに傾げ、主張するようにやたら大きな声を出す。こんな急な話題転換に、果たしてれあちーは乗るのだろうかと疑問だった。
「次の授業?歴史じゃん。歴史自体は好きなんだけどさ、小田の長話が嫌なのよね~」
意外にも燈の強硬策に上手くはまってくれたようで助かった。
それから昼休みまで、授業が嫌だとか、先生がどうだとか三人で他愛のない話をして昼休みは終わった。