1 別れの慟哭
あちらこちらで火柱が立つ。空を一面に覆うどす黒い雲は、青白い雷を大地に落とすぞと脅さんばかりにゴロゴロと唸り声を上げている。雷を落とさんとするのは、空が怒っている証拠だ。
神のおわす空が怒るのも無理はない。人は今、神が最も厭う争いをしているのだから。
「前衛第六部隊まで壊滅!このままでは中衛部隊も突破されます!」
「治癒班はできるだけ広範囲の治癒魔法を!グリフォンで移動可能な者は前線へ移動し、援護しながら負傷者を回収せよ!」
私の属するジダーリャ王国軍は、開戦から三刻にして七ある前衛部隊のうち六部隊が壊滅。既に中衛部隊まで敵の手は伸びており、将たるクレンヴ女王が陣を構える軍の最奥まで迫るのは時間の問題だろう。
つまり、戦況はこちら側から見たら絶望的であった。
国土の大半が砂漠のジダーリャ王国は、点在するオアシスに都や村が存在する。そこで暮らす人々は、昼の灼熱と夜の極寒という本来の砂漠の気候に晒されることなく穏やかに生きている。
砂漠の本当の姿を知らず、私たちジダーリャの民が平穏に生きてこられたのは、女王の所持するルナの石のおかげである。
ルナの石とは簡単に言えば魔力が結晶化したもので、女王はそれの力で砂漠の至る所へ魔力を流して気候を安定させ、人々を生活することのできない極限の環境から守っているのだ。
ジダーリャの女王の持つ石は人々の繁栄を約束させる奇跡の石。ただの魔力の結晶に、随分とたくさんの尾ひれがついてしまったものだ。
そんな噂が独りで大陸を歩き回り、ついにルナの石は、大陸の南半分を所有する大国・ヴィ―ティス帝国に狙われることとなったのだ。
ヴィ―ティス帝国は元々痩せた土地が広がるだけの小国だった。しかし、先々代皇帝の時代より他国に無謀ともいえる戦をいくつも仕掛け、それらに全て勝利して徐々に豊かな国土を増やしていった。
もはやここ、東のジダーリャ王国以外の国は帝国の属国と成り果て、援助は見込めない状況下であった。
勿論、帝国は軍事力も大陸随一で、【最凶】と名高いヴィーティス銀狼兵団は領土が増えるのに比例し、力も規模も大きくなっている。そんな最凶の兵力を抱える大国に襲撃されているのだから、勝率は極めて低い。もとより、ヴィ―ティス帝国に宣戦布告された時より我らジダーリャ王国軍の士気は下がり続ける一方である。
我らの陣営の奥、ユニコーンを左に従えた鎧姿の若い女性が一人立っている。戦に邪魔だからと、腰まであった美しい蒼髪を無造作に肩の上まで切り捨ててしまったその人こそが、我が主クレンヴ女王陛下である。
女王付きの宮廷魔法師である私の役目は、彼女を守り抜くこと。
女王がいれば、この国は壊されたとしてもきっと蘇る。それこそ不死鳥のごとく。
じっと立ち、遠くの戦火から目をそらすことのない女王の前に跪き、私は口を開いた。
「女王、どうかお逃げください。敵がここへ来る前に」
女王の視線が遠方の戦火から、私へと注がれる。
「私がこの石を持ち込んだのがいけなかったのね。自然の理を変えてまで、ここに国を構えるべきではなかったのよ」
しかし、私の発言を聞いた筈の彼女の口からは、独り言のような呟き漏れただけだった。この僅かな時間にも、中衛部隊が壊滅したとの知らせが飛んでくる。怒号や断末魔、味方ではない兵たちの声がだんだんと後方の我らに近付いてきていた。
じれったさを覚えた私は、思わず立ち上がりかける。
「女王!もう時間がありません、早く……」
早くユニコーンに乗り、お逃げください。そう言おうとした矢先、女王のそれまで静かだった双眸が、鋭い刃のような険しさを帯びた。
「私がいつ逃げると言ったの。今回の戦は、私が砂漠を人に都合の良いように変えたのが原因なのは明白。その原因が逃げることはできないし、これまで戦ってくれた民たちのためにも、私はここに残るわ」
女王は、背に負っていた大ぶりな弓を構え、矢をつがえた。見事な意匠の施されたその弓矢が貫かんとする方向に、私は動揺を隠しきれなかった。
弓は、矢は、まるで前方の敵に用などないというかのように、黒雲を巡らす空に向けられていた。
「私が石を持っているせいでこの国の民を死なせ、今も生き残っている民は皆眼前の敵の猛威と死の恐怖に怯えている。……せめて、生き残っている者たちだけでも自由にできれば……」
神のものである空に武器を向けることとはすなわち、神への反逆を意味する。一瞬だけ、劣勢になったせいで気が狂ったかとも思ったが、聡明な女王がそんなことになる筈がないと慌てて打ち消す。
「何をおっしゃるのです、我らは女王を守るためにここにいます。貴方を守って死ぬことが至上の喜びです」
「馬鹿なこと言わないで。私が貴方たち人間を守るのは当然の役目よ」
矢と視線を天上に向けたまま、女王は笑った。そして、その片腕は弦を引き絞り始める。
「女王、貴方は……!」
キリキリと弦が悲鳴を上げ、限界まで矢が引かれた時。
「こことは違う場所で、幸せになって」
美しく微笑んだ女王は一言私にそう言うと、矢から手を離した。
きらきらと淡い光を帯びた一矢は、風を切り裂き真っ直ぐに天へと突き進んでいく。
やがてそれは黒雲に呑み込まれ、完全に見えなくなった。
その瞬間。
光るものといえば雷くらいだった黒雲に、明らかにそれらとは違う種の強い光が走った。あまりの眩しさに、大地が一瞬真っ白になったほどだ。
敵も味方も動きを止め、一斉に空を見やる。その顔は皆驚愕に染まっていた。
閃光が収まると、今度は幾本もの光の筋が空を駆け巡る。それは瞬く間に黒雲を千々に引き裂き、元の美しい青空を取り戻させる。
「女王、あれは……!?」
私が尋ねても、女王は答えなかった。ただ、満足げに笑うだけだ。
青空の中心に光の筋が集まり、一つの光る空間を生み出す。空間は次第に大きさを増していき、暴風のような風を巻き起こした。
「なっ、何だ!?」
「うわあああっ!」
「助けてくれーっ!」
そこで周りに変化が起こっていることに気が付く。
今まで戦っていた兵士や騎士、死体までもが全て風によって巻き上げられ、光の空間の中へと吸い込まれていったのだ。
何が何だかわからないでいるうちに、私の身体も風で浮かび上がる。地面に足を着けようともがくが、そうしている間にも身体は勝手に光の空間へと向かっていく。
「女王!」
思わず下へ手を伸ばす。女王は私たちと違い、風に衣や髪はなびくものの、大地にしっかりと足を着けて立っていた。その表情は、相変わらずやわらかな笑顔である。
「貴方はこれから平和な世界へと飛ぶの。争いのない、平穏な世界へ」
「何を言っているんです、私にとっての平穏は、貴方の傍にいること……!」
空間に近付くにつれ、私の視界も意識も、だんだんと薄れてきていた。
「さようなら、ランディーヤ」
意識が途切れる寸前、「行かないで」と聞こえた気がした。