この閉ざされた土と雪の下で on the Unlimited field
外の景色を見る時程、僕を憂鬱にさせる事も無い。
特にそれが、風蘭守語の勉強でもしていた後だったりすると尚更だ。
窓を通して広がる大地は所どころ黒かったけれど、殆ど一面の白で覆われている。雪はこの国の至る所に、大抵は何時でもある癖に、ろくな使いようが無い厄介な代物だ。暖炉の火を絶やさぬ様、薪は取っておかないと行けないし、寒さのせいで馬の脚も機械の歯車も止まってしまう。お蔭で義体もまともに使えない。近代化を謡っておきながら近代機械の代表を活用出来ないだなんて、お笑い種もいい所だ。
そんな雪が被さって、痩せ細った田畑には、小汚い身形をした農夫達が佇んでいて、乏しい火種をかき集めて作った焚き火に寄り添い合い、硬く節くれ立った手を火にかざしている。もうとっくの昔に農奴としての身分からは解放され、家畜の様にこき使われる事も無くなった筈なのに、その顔は誰も彼も疲れ果てて見えた。当然だ。解き放たれたのは人であって、土地は相変わらず貴族の、つまり僕等の物だったのだから。自分の畑を耕す為に法外な金が要るとあっては、生活が良くなる筈も無い。都市へ行けば仕事もあるから、出稼ぎで行く者も少なく無いけれど、全員が全員そう出来る筈が無い。今まで畑しか弄った事の無い人間が早々簡単に畑以外を弄れる様になる訳も無く、結局、芋位しかまともな収穫の無い土地で、昔と同じ暮らしをするより他ならないのだ。
屋敷の中から彼等を見ていると、僕は酷く憐れに思えてくる。大の男達が生気無く、皺だらけになるまで働いたとしても、決して何も変わりはしないのだから。
ただ、同じ位哀しくもなるのだ。
硝子と石壁で隔てられていたとしても、僕もまた彼等と一緒だったから。
確かに、あんな北風一吹きでかき消えてしまう様な火よりも余程立派な暖炉はあるし、ずっと昔から先祖達が使って来た豪華なベッドもある。着る物も流行のもので……まぁ、華璃とかに比べれば遅れているのは認めるさ……清潔に洗ってあるし、食事にだってちゃんと調理された肉や野菜が出る。本だって買って貰っている。風蘭守を中心に、西皇路覇の文学を学んでいる。ここら界隈の子供で、二ヶ国語以上を話せるのは僕位だろう。
でも所詮それだけだ。ちょっと待遇が違うだけ。根本的には何も変わっていない。
僕は農民達と同じ様に、何処へも行く事は出来ないのだ。
この寒々とした曇天の元で、身動きが取れなくされている。
だから外を見ていると、僕の気分はどうしようも無く重くなった。何かしている間は忘れる事も出来ていた事実を、嫌が応も無く受け入れさせる羽目にしてくれるから。
それに言わせて貰えば、農民達の方がマシなのだ。彼等を縛っているのは土地だけだから、出ようと思えば、出る気と力さえあれば、外へと出られる。今はまだそのどちらも足りてはいないけれど、時間がそれを解決してくれる筈だ。出稼ぎ組が良い例だろう。
だが僕の場合は違う。勿論大なり小なり身分というのも関係してくるけれど、本当に僕を縛っているものは、もっとずっと冷たくて湿っぽくて際限が無くて、それこそ何時まで経ったって止む事が無い雪の様にしつこい奴で、
「ユーリ、ユーリ、ユーリったら! 呼んでるのに何してるの、早く来なさいよ頓馬っ」
今だってほら、あんな風にずっと喚き立てている。一度名を呼べばそれで済むし、声はちゃんと聞こえているというのに、煩わしいったらありゃしない。
でもそう、彼女の言う通り。
彼女は僕の姉だ。
一年とほんの少しの差しか無いが、僕より先に生まれた以上、姉である事を認めない訳には行かない。悔しいし認めたくは無いが、仕方が無いのだ。彼女の言葉を、盲目的に受け入れなくちゃならないのと同じ程度には。
僕は、はぁと胸に溜まっていた息を吐き出して窓硝子を白く染めると、
「はいはい姉さん聞こえてるよ。うん、そんな怒鳴らなくたって直ぐ行くってば」
そう気の無い返事で応えてから、窓辺を離れて、声のした方へと行く。
と言っても、別に急ぐ様な馬鹿な真似はしない。どうせ大した用事でも無いだろうし、急げば急いだで、どたばた走るなと言われるだけだ。それに姉さんの部屋は僕の部屋の隣にあるから、とぼとぼ歩いたって一分と掛からず辿り付けてしまえるんだ。
僕は肌寒い廊下を歩き、部屋の前に付いた。どうせ来るのは僕位だが、しないとまた怒るで、こんこんと叩いてから扉を開ける。
「遅いっ。呼んだら直ぐ飛んで来る位の気概は見せなさいよユーリ!」
吹き零れてくるむっとする暖気と共に飛び込んで来た言葉は、何時もの様に辛辣なものであり、それを放った主は、相変わらず不遜な態度でベッドに寝そべっていた。顔はいいのと合わせて、何処か異国の女王の様な雰囲気だ。ほらあれ、ナポレオン公が攻め入った砂漠の国。白い絹のネグリジェ姿で横たわっているものだから、木乃伊の様でもある。
まぁ寝そべっているのも、手足が無いとあれば無理も無い事だけれど。
「何で姉さん如きにそんな必死にならなくちゃいけないのさ」
「あんたねぇ、それが実の姉に対する態度?」
頭を掻き掻き、僕がそう言えば、彼女は胴の力だけを使って、ベッドの上で飛び跳ねる。ぎしぎしと、何時壊れるか解らない寝具に同情した僕は、側まで寄って縁に座った。
「まぁいいけどさ。それで、何、僕に何の用?」
「ろくな言葉遣いも出来ない野蛮人じゃ解らないかもしれないけどね、」
姉さんはそこで飛び跳ねるのを止めると、身を翻してベッドの頭の方を向き、側に置いてあった懐中時計の鎖を咥える。その揺れる文字盤の方を僕へと向ければ、喋りたそうに唇だけを動かした。両手の代わりが口一つというのが不便な所だ。一つ咥えるともう何も掴めない。どうせだったら咥えたままに黙っていて欲しかったけれど、彼女の青眼がそれを許さないので、僕は懐中時計を手に取った。噛んでいた部分に触れぬ様時計本体を持ち、
「うん、いや、解るよ。これは懐中時計だ。そうだろう? 違うのかい?」
「馬鹿、そうじゃないわよ。二つの針は何処を指しているの?」
言われて見れば、長針は12に、短針は3の所に指している。
「嗚呼そうだねぇ。長身は12に、短針は3の所を指しているよ」
「だから……嗚呼っ、もういいわはっきり言う、お茶の時間よ、早くお茶を持って来てっ」
再びベッドを飛び出し始めた彼女に肩を竦めつつ、僕は立ち上がった。別に言われなくとも解っていたけれど、言われたままというのも癪なものだ。
「最初から素直に言えばいいんだよ姉さん、この意地っ張り」
「お黙り。減らず口叩く前に脚を動かしなさい、脚を」
それでも相手はへこたれる事無く、金色の巻き毛を震わせながらに言えば、いい加減この遣り取りにうんざりして来た僕は、手を振って応えてから廊下へと出て行った。
彼女、僕の姉さんは、産まれた時から四肢が無かった。
病気だとか事故だとかで後から無くなった訳では無く、本当に最初から、その格好で産まれて来たのだ。特に理由が無くそうだったから、原因未詳の人外、保因者だって言う人も居たが、真偽は定かじゃない。解らないのが保因者という奴だから。
まぁ何にせよ、祝福されるよりも驚愕を先にされたのは確かで、最初に彼女を見た医者は悲鳴を上げ、母さんも直ぐに卒倒したという。まぁ当たり前だけれど。
最後に姉さんを見た父さんは、どうしようか考えたらしい。どう、というのは生かすか殺すか、だ。手も脚も無い姿でこれから真っ当に生きて行けるとは思えず、そんな娘がいると世間に知られては、貴族としての沽券に関わる。それに欲しかったのは家長を継ぐ男児であり、女児では無い。ならばいっその事この手で。彼はそう考えたらしい。
しかし、赤子だった頃から彼女の美しさは眼を見張るものがあり、母さんの反対もあって父さんは(半分位残念な事に)直ぐに間引きを思い止まったという。何どうせ奇形児だから長くは生きていられまい。側近の家令が見るに、そういう含みもあったらしいが。
けれども周囲の予想と大いに反して、エレナと名付けられた彼女はすくすくと育った。年を経る程に少女らしい、愛らしい見目になりながら、決して手足を生やす事無く。
そうして家から一歩も出されずに(暗黙の了解として近隣には既に知られていたが)こうなったらどうにか一人前の人間にさせよう(してどうする気だったのかは良く解らない。変態の嫁にでも出すつもりか?)と、教養を身に付かせるという名目で周囲が何でもかんでも手を出した(いい迷惑)結果、大きな病気一つ、怪我一つする事無く成長した姉さんは、実に我儘で、手前勝手な性格になり、両親や使用人達を困惑させる様になった。なまじ温情を掛けていた分、手酷くする訳にも行かず、父さんとしては産まれて間も無い赤ん坊を手に掛けようとした負い目もあり、誰も手出し出来ない状態になってしまったのだ。そんな状態だから自然と人心は離れて行き、男女問わず使用人は彼女の世話を嫌がった。両親すら例外では無い。周囲の反応に、可愛そうにも気付いたのか、姉さん自身も自分の部屋に人を入れたがろうとはしなかった。精々食事とお茶と着替えとトイレ、後は風呂等、彼女一人ではどうしようも無い時に、しぶしぶ、もとい嫌々呼ぶ位だった。
そんな中、引っ張り出されたのがこの僕だ。
エレナが産まれて一年と少し後に産まれた僕は、待望の長男という事で最初こそ家中の関心を受けたらしいけれど、成長して行くに連れてまた姉さんの方に眼が行く様になった。
幼い僕はそれが何だか気に入らなかったが、『エレナは特別な子だから』という母さんの言葉ですんなりと受け入れた様だ。馬鹿馬鹿しい。要するに、一度助けたものだから無碍には出来なくなっただけだろうお人好しどもめ。手を焼くのが嫌だったら、焼かれる前にさっさと焼いてしまえば良かったのだ。そうすれば、後腐れも無かったものを。
ただそれが出来なかったのには、見た目の事がある。美貌というのはつくづく得だ。僕だって決して悪いものじゃない、というか、寧ろ秀でていると自覚しているが、確かに彼女には構わない。皆がちやほやしたのも解るというものだ。無論それは精神と吊り合っている時だけだし、首から下に眼を向けない間のみだったけれど。
さて、僕と姉さん自身の関係はというと、察して貰っていると思うが、最悪だった。
物を知らぬ時であれば普通に接せられもしただろうが、彼女の姿が奇怪なものだと解ってからは、それも変わった。どんなに顔が好かろうとも、気付いてしまってはもう遅いし、それに姉さんの性格が性格だったから、僕等は何時も喧嘩ばかりしていた。口喧嘩では大抵年長である彼女には負けるので、最終的には取っ組み合いにまでなった。優位は僕、と言いたい所だけれど、残念ながらそうでも無い。加勢は常に姉さんのものだし、それに噛み付きと体当たりは、寝たきりの女の子とはとても思えない程力強かった。
という風に、物心付いた頃から僕と彼女は仲が悪かったが、腹の内を好き勝手にぶちまけられるという意味では悪くは無かった。周りの大人達の様に、どう見ても作り笑顔で誤魔化す事はせず、僕等は思いっきり罵り合い、殴り合った。姉として、弟として。
そうこうしている間に、幾許かの歳月が過ぎた。
僕等は、次第に大人の体へ近付くに連れて、拳と歯を使った喧嘩こそしなくなったけれど、相変わらず口の方は顕在だった。物事を学び、経験を積んだ分、そこには皮肉と諧謔、要するに持って回った言い回しが入る様になったが。
そして気が付くと、姉さんと接するのは僕だけになっていた。
僕が、この芋虫めと嬉々として言っている間に、皆はさっさと逃げ出していたのだ。
今や『エレナの身の回りの世話をするのはユーリ』という了解が屋敷中に出来ており、部屋へ食事を持って行くのも、お茶を持って行くのも、着替えをさせに行くのも、風呂に、トイレに行かせるのすら僕の役目になっており、誰も彼も直接姉さんへ言わずに僕の元へと来る。全く、迷惑な話だ。僕はただただ、動けもしないのに図が高い彼女に腹が立って、ちょっかいを出しに行っていただけだというのに。姉さん自身それを助長する様な態度を取るものだから、本当に僕だけしか側に寄らなくなっている。その為に、僕の個人的な時間は殆ど無くて、昔だったら何時間も本を読んでいられた所を、今ではほんの少しの間、それも頻繁に中断されてしか読む事が出来ない。本当に迷惑。だが正直、僕だって人の事は言えないお人好しなんだ。皆の厄介者になった姉を捨て置ける筈が無いだろう。それがどんなに嫌な事だって、血の繋がった姉弟である事に変わりはないのだから。
そう、血だ。
僕が逃れられないもの。
僕を縛って離さないもの。
それは、姉さんとの繋がりである血だった。
そいつがある限り、彼女が身動きも取れぬまま生き続けている限り、僕は何処へも行けないし、何者にもなれない。どれだけ勉強して、外国語を話せる様になっても、決して去る事を許してはくれないのだ。周りが。姉さんが。そして他ならぬ、この、僕自身が。
嗚呼っ、嗚呼っ、嗚呼もうっ、面倒臭いっ!
何故僕はあんな奴の弟として産まれて来てしまったのだろう。彼女よりも先に産まれていたならば。彼女が真っ当な体だったならば。父さんがもっと残酷な人だったならば。周囲の人達が薄情だったならば。ならばならばならば。言っても仕方が無い、思ってもどうしようも無いとは解っていても、ついつい考えてしまう。ならばもしきっと恐らく、と。
だが夢想に耽った所で現実は変わらず、姉さんは変わる事無くベッドに寝そべっている。
「まぁた遅いわねぇ。あんたがちんたら歩いてる間にお茶が冷めたらどうするのよ」
そしてどうだ、この口振りを。折角こちらが言われた通りに紅茶とジャムを持って来てやったというのに、こんな事を開口一発言われては堪らない。
僕はむっとして歩み寄ると、どんと彼女の腰の上に盆を乗せた。ポッドとカップがぶつかり、僅かに飛び出した紅い液体が殆ど着たきりの白いネグリジェに降り掛かる。
「ちょっと、掛かっちゃったじゃないっ。気をつけてよね、お気に入りなんだからっ」
「それ一着しか無いのに? 大体、そんなに嫌なら掛かる前に避けろよ芋虫」
「気に入ってるから一着なの、解らない子ね。後、芋虫って言うなと何度言えばっ」
「嗚呼嗚呼申し訳ありませんアンデルセンの芋虫姫よ。こんな極寒の地に貴方様の様な麗しい虫貴族のお方が居るとは露とも知らず、とんだ不手際をしてしまいました」
「あ、あんたねぇユーリ、いい加減にしないと私だって怒、」
「はいはい解った解った、ジャムをお食べよエレナ姉さん。甘いよ?」
ちょっと服を汚した位で何時までもぐちゃぐちゃ言われる覚えも無い訳で、僕は姉さんがこれ以上何か言うよりも早く、口の中へ血の様に赤いジャムを掬ったスプーンを突っ込んだ。もごもごと、舌を動かして舐め取った彼女は、ぷっと唇を放して言う。
「全く……しょうがないわね、ユーリは。この甘い苺ジャムで許してあげるわ。お茶」
「そうだね、ジャムは甘いね、良かったねエレナ姉さん。はい、お茶」
それでまぁどうにか機嫌は治ったのか、まだぶちぶち言いつつも素直にお茶を所望する姉さんを立てて、僕もカップを持つと、そっと唇へ寄せてやる。音を立てて啜って行くのに合わせ、今度は本当に零さぬ様、そっとカップを傾けた。う、と軽い呻き声が僅かに上がれば、さっと戻してやる。エレナへのお茶やりは何時もやっているから、流石に慣れた。扱いも感覚も、ペットの犬とか猫とかと変わらないから、楽と言えば楽だし。
「でも、やっぱりネグリジェを汚したのは許せないわぁ、この馬鹿ユーリ。どうしてやろうかしらね、えぇい、義体に換装出来ればぎったぎたにしてやるものを」
まぁ、勿論ペットは喋らないし、ましてや主人に文句は言わないものだが。まだ何か小言を言って来るかと半ばで呆れながら、僕も自分用に淹れた紅茶を飲みながら応える。
「だったら同じものをもう一着買って貰えばいい。義体は、まぁ無理だろうがね。知っているだろ? 寒冷地用のそれは出来てないって。接続部分ごと凍っちまうさ。それに、この国には義体職人なんて殆ど居ないよ。何処でどう換装するっていうのさ」
「ふん、ちょっと言ってみただけよ、継母みたいに五月蝿い弟だわねぇ。本当、やんなっちゃう。こんなユーリみたいな嫌な奴が私の弟だなんて、考えただけでぞっとするわよ」
「継母なんていないけどね。所で姉さん、鏡というものを知っているかい?」
「勿論知っているわ、私の美しさを讃えるもの。そうでしょう?」
「まぁ、外面だけだからね、映すのは。内面は反映されないから間違っちゃいない」
「つまりそれだけ広く大きく清らかという事よ。ジャム」
僕はああ言えばこう言う……まぁそれは自分だってそうだけど……姉さんにやれやれと首を振りながら、また苺のジャムを掬って食べさせてやる。ちゃんとした手足を持つ僕がこんな風に束縛され、逆に姉さんは衣食住を気にせず、自由気ままに過ごしていると思うとやり切れ無くもなるが、そこはこの行為を鳥の餌付けとでも解釈すればいい。僕は肝要だ。相手がそれを解っていないだけであって。
しかしこの売り言葉と買い言葉の応酬は、他の連中に対してはもっと険しいものになると、お茶を淹れてくれた女給の一人が言っていた。彼女は一度善意でお茶を持って行った事があるらしいが、散々に言われて泣きを見る目になったという。
ならまぁこの辺りで納得しておくかと思いつつ、でも早くくたばらないかなぁとも思いながら、僕はカップとスプーンを交互に動かし続けた。本当に鳥に餌をやる様な要領で。
けれども案外と早くに、僕の願い叶う時が訪れた。一つの転換期もまた、だが。
エレナが病に倒れたのだ。
それも相応に酷い症状で、ろくに会話も出来ぬ程のものだった。幸か不幸か、これまで一度も大病を患った事の無い彼女に、周囲は朝から慌てに慌てた。自分達が僕に姉さんを押し付けたのだという事など何処吹く風で、てんやわんやの大騒ぎだ。そもそも彼女の様子がおかしいという事に最初に感づいたのだって僕だというのに。
姉さん本人は、そんな状況をどう思っているのか。心中は解らない。屋敷中を使用人達が走り回り、彼女の部屋には普段の僕の変わりに父さんに母さん、医者が付きっ切りとなって看病していた。それに対して、姉さんはうんうん唸り、時折水を望むだけだから。
因みにその時の僕はというと、病が移るかもしれないという理由で近付かせても貰えない。自室に押し込まれるが、姉さんの部屋が隣とあっては会話も騒動も全部丸聞こえ。それによると、どうも皆は僕から移ったと思われているらしい。失礼な話だ。確かに彼女と一番接していたのは僕だが、当の本人がぴんぴんしているのに伝染も糞もあるものか。
そうは思って見ても、誰も初めての事態に動揺して、まともに言う事も聞いてくれないから仕方が無い、僕は部屋の中でのんびりと本でも読んで過ごす事にした。実際の所、別に死んだって構わない、寧ろ葬儀は早ければ早い方がいいと思っているのは皆も同じだろうに、難儀なものだと一人高みの見物を決め込みながら。ここら辺り、体裁を保たなくちゃならない大人が実に不憫に思えてくる。勿論僕だってやがてそんな者達の一人になるのだろうけれど、少なくとも今は違う。姉さんを前にしても、多分さらっと言ってやれるだろう。ねぇエレナ姉さんもうそろそろ息を引き取ったっていいんじゃないですかね。そうしないと、僕が自由になれなものですから、そら、悪いですけれど。
そんな事を考えている間に、何時の間にか時刻は夜になっていた。
本を開いたままうとうとしていた僕は、はっとして起き上がる。
違和を感じた。それが何か考えると、昼間の喧騒が無くなっている。あれだけ喧しく走り回り、五月蝿くのたまっていた声が聞こえない。
彼女は治ったのだろうか。僕は訝しがると、こっそりと廊下に出た。
もう大分夜も更けていれば照明は消されて、辺りには濃厚な闇が立ち込めている。足音を消して僕は隣の部屋へと歩いて行く。ここまでの道は目を瞑っていても解っている。わざわざ見る事も、誰かに案内される必要も無い。
「姉さん? エレナ姉さん? 起きてるかい?」
僕は扉の前に立つと、とんとんと戸を叩いた。
返事は無い。寝入っているのだろうか。或いはそれとも、皆の願望が実現したのか。
僕は期待半分不安半分に扉を開けた。出来たら後者がいいなと考えながら。
だが結果は残念、前者の方だった。
姉さんは寝ているだけだった。暖炉の火を弱く、照明を消して、シーツを頭から被り、弱々しいと同時に荒々しい寝息を立てている。周りには誰も居ない。既に死の心配は無くなったのか、それとももう死ぬのが明らかとなったからか。何にせよ、薄情なものだ。あれだけ騒いでいたのに、こうも易々と退散してしまうだなんて。
「……ユーリ……?」
そう僕が呆れていると、シーツの中からか細い声が届いた。
「嗚呼ごめん姉さん、起こしちゃったみたいで……具合はどう?」
僕は足音を立てぬ様にベッドの元まで行くと、何時もの様に縁へと座った。一度シーツに手を掛けてから、一拍待って、そっとそれを開けてやる。
薄暗闇の中で、姉さんの様子は普段とは別人の様に一変していた。白い頬は赤く染まっているし、それに全身酷い汗だ。球の様な雫が、額にびっしりと浮き出ている。
「馬鹿……病人を起こすんじゃないわよ、一体今何時だと思って……水」
服の袖でそいつを拭き取ってやれば、彼女は普段と変わらない憎まれ口を叩くけれど、その台詞はひゅぅひゅぅと耳障りな呼吸交じりだし、覇気が全く感じられなかった。
僕は何とも言えない気持ちで汗を拭くと、水を取りにそっと立ち上がった。ベッド脇の小さな円テーブルの上に水差しとコップが置いてある……これを置いた奴は、一体誰にどう飲ませるつもりで置いたのだろう……のを見つけると、それに手を伸ばし、
「ねぇユーリ……」
とくとくとコップに水を注いでいれば、背後から姉さんの掠れた声が掛かった。
「何だい、姉さん。水以外に何か欲しいものでもある?」
「違う……ユーリ、私、きっともう駄目……死んじゃいそう……ぅうん、きっと死ぬんだわ……だってこんなに……熱くて苦しいんだもの……どうしようも、ないわ……」
「死ぬって……はっ、いいじゃないか。元々死んでる様なものだろ、姉さんもその生活も」
それが余りに情けない弱音だったものだから、僕はつい本音を言ってしまった。吹き出す様に笑いながら、だけれども、励ましの意味も少しはあった。少しは、だったが。
けれどもそれに返って来る言葉は無い。
「……姉さん?」
あれ、と僕が思いながら振り返ると、彼女は顔を枕に埋め、うつ伏せに寝ていた。
その下から、しゃくり上げる様な無言の声が聞こえて来て、僕は思わずぎょっとし、
「姉さん? 泣いているのかい姉さん?」
僕は縁に立ち、顔と近付ける。
間違い無く、姉さんは泣いていた。嗚咽を堪える様に唇を噛んで、それでも吐息を漏れ出してしまっている。実に意外だった。僕は、彼女が泣いているのを初めて見た。この娘でも泣くのかとすら思ってしまった。考えて見れば、周囲が何でもしてくれたから不自由しなかったとは言え、本来はまともに生きられない体であり、尚且つ、ここまで大きな病をこじらせた事は無かったから、気が弱くなっているのだろう。確かに医者の様子を見るに、抜き差しならぬものではあるみたいだが、大袈裟だ。普段との差が激し過ぎる。
その途端、僕は姉さんが酷く哀れな生き物に思えてきた。
哀れで悲しげで、手を出してやらなければ何も出来ない、本当に虫けら同然の生き物に。
僕の唇が我知らず笑みの形を作った。
おっと、と僕は毀れ出る笑みを消しながら、ほら、とコップを顔の側へ近付け、
「姉さん、エレナ姉さん、馬鹿だなぁ、姉さんが死ぬ訳無いだろ? 違うかい?」
そう心にも無い様な事を言えば、彼女はいやいやと首を横に振って返す。僕はコップを円テーブルの上に置くと、体を姉さんの上に乗せた。逃れられぬ様そっと蔽いながら、髪の毛を掻き上げ、震えている彼女の耳たぶに声を吐きかけてやる。汗と一緒に、姉さんの匂いが鼻先を擽ってくる。花の様に。
「仮に死んだとしても、別に誰も哀しんだりしないから安心して」
「……嘘よ……そんなの、嘘に決まってるわ……」
「嘘じゃないさ。その証拠に、誰も君の側には居なかった。姉さんは苦しんでるのにねぇ」
「……う……うぅ、そんな事、嫌ぁ……」
「まぁ葬儀は簡単だし、ぽっくり逝っていいよ。姉さんは小さいから直ぐ終わっちまう」
「……嫌だって、言ってるでしょ、馬鹿……聞こえないの……」
「あ、でも棺桶の寸法計るのが少し面倒か。いいよね、赤ん坊用の奴でさ」
「……だから、うぅ、嫌っ……んなもの、絶対入らないわ、よ……」
その言葉は出来るだけ酷いものを選んで紡いだけれど、彼女はただ首を横に振り続けるだけだった。見えない腕ではその耳を塞ぐ事もならず、存在しない脚では何処にも逃げ場など無い。拒否する程の力も無く、さりとて受け入れられるものでも無く、姉さんは僕の台詞をただあるがままに感じ、震え、涙を零した。最後の方だと言葉も返せない程に。
滑稽だ。僕は必死になって笑い転げるのを押さえた。これは最高に面白い。あの姉さんが、病一つでここまで衰えるだなんて考えてもいなかったが、いざ対面して見ると、実に面白い。今までの鬱憤が溜まっていた分、僕は凄く気分が良かった。
ただ、それも最初だけだった。小一時間そうやって無慈悲な死神を気取り、怯える彼女を愉しんでいたけれど、だんだん僕の心は冷めて行き、別の感情が芽吹き始めた。
その時僕が抱いた気持ちを表すのに、一番的を射ていると思うのは、落胆だった。
嗚呼こんなものなのか。
気が付けば幼子の様に僕の膝の元ですすり泣いている彼女の髪を無造作に撫でながら、僕は思った。今まで自分が絶対だと信じていたものと、それを手玉に取る自分を。
彼女が持っている風に見えた、謳歌される自由。だがそれは、ちょっと何か起これば、いとも容易く崩れてしまう幻の様なものだった。憧れる様なものでも無い。こんな、蝶へも成れないくせに蝶の様に気取って、冬がくれば震え出す芋虫なんて哀れでしかない。
そうして僕はそっと髪を撫ぜながら、その下から覗け出た白い首筋を見る。それは、姉さんのどの部分よりもか細く白く、青い血管が薄っすら、本当に薄っすら透けて見える。まるで枯れ木の枝の様だ、と、感じた所で、僕はふと考えた。
こんなに弱いんだったならば、案外と断ち切るのもまた楽かもしれないな、と。
僕が解放される為に。仮の自由の代わりに、僕が本当の自由を得る為に。
「悪いね、姉さん、つい何時もの癖で色々言ってしまった。傷付いたかい?」
「……うん……うぅん、もういいわ……だって、たった二人の姉妹じゃない……」
「嗚呼、その通りだねエレナ姉さん」
「私……貴方が居ないと、駄目……何処にも、行かないでねユーリ……」
「うん解ってるよ姉さん……今まで言わなかったけれど、愛してるよ姉さん」
珍しく可愛げのある声に口元を崩しながら、僕は半ば冗談を絡めつつそう言うと、姉さんの髪から首筋の方へ手をやった。さり気なく、気取られぬ様、さり気なく。そんな心ここに在らずの言葉に対して、私も、という返事が来たけれど、最早知った事じゃぁない。
「それじゃお休み……エレナ姉さん」
丁度詩にある様な、野薔薇を手折る感覚で、僕はそっと静かに力を入れていった。
外の景色を見る時程、僕を憂鬱にさせてくれる時も無い。
窓の向こうに広がる風景、そして人々が、僕が如何なる者かを告げて来るからだ。
雪に覆われた大地、そこで田畑を耕す他無い者達が声も無く言う。
お前は自由人では無い。お前の前に道は存在せず、その後ろにも、横にも、ただ白い不毛の荒野が広がっているだけだ。お前はそこに居るしかないのだ。
僕は唇を噛んだ。そんな事は解っているというのに、解って全部受け入れたというのに、彼等は止め処も無く語ってくる。実に煩わしい。
ただ、今僕の後ろから聞こえて来る声に比べれば、割りにそうでも無い。
ユーリユーリと一度言えば聞こえるというのに、彼女は構わず僕の名を呼び続ける。喧しい娘だ。数日前の病がまるで嘘の様。もし本当に僕から病が移ったというならば、もう一度引かせてやるものを。そうすれば、またあの夜の様に泣いてくれるだろうに。
でもいいさ。毎度毎度泣かれては面倒臭いにも程がある。僕はその声に、解ってるよ、と気の無い返事をすると、そっと廊下を歩き出す。歩みを早めようとはしない。急ごうとそうじゃなかろうと、結局何も変わらないのだ。僕も、僕と姉さんとの関係も。
僕が姉さんに手を掛けなかったのは、何も彼女が可哀相だとか思ったからでは無い。
あの時、力を込めれば簡単に折れそうな首筋に手を当てた時、僕は気付いたのだ。
姉さんが、好き勝手に生きている風に見えていた彼女が、そうであるかの様に生きられたのには、他ならぬこの僕の助力があったからだ、と。僕無しでは彼女は何も出来ない。傍若無人で姫様然とした、勝手気ままな暮らしぶりも、周りが許容し、溜息交じりに僕が合わせてやらなければ達成し得なかったものなのだ。
故に僕は、そんな彼女を好きに出来る。願いを聞いてやるのも僕だし、断るのも僕だ。傍迷惑な言い分に応えてやるのも僕だし、それを無視するのも僕。僕僕僕、僕だ。彼女の行為にはすべからく僕が付く。このユーリが居なくては、エレナという存在は在り得ない。
そう気付いた瞬間、僕は、僕の状況に、何とも言えぬ喜びを感じた。
封ぜられ、何も出来ぬと思っていた。血の繋がりは強く、一年の差は大きいと。このまま姉さんが死ぬまで、僕はこの屋敷の中に閉じ込められているのだ、と。
でも違う。そうじゃなかった。
確かに閉ざされてはいる。だが、閉じ込められている訳では無い。
僕は彼女を生かす事も、殺す事も出来るのだ。一度も触れた事は無いけれど、この掌の上で虫を転がす様な案配に、正に自分の思うがまま、誰にも邪魔される事も無く。
そうだ、僕は自由だったのだ。姉さんが満喫している箱の中の自由を、僕が自在に操れるという事は、その担い手である僕もまた、自由であるという事だったのだ。
その事実を知った今、僕の心は本当に愉快で、その足取りも実に軽い。あの少女がまだ居る間は、彼女を何の遠慮無く弄れるのだし、少女が居なくなれば、その時は晴れて本当に自由の身だ。こんな屋敷などさっさとおさらばして、華璃にでも行ってやるんだ。或いは鐘琳でもいいかもしれない。義体技術の本場で機械文明の隆盛を満喫しよう。もしくは論曇はどうだ。大詠帝国の首都は、こんな古臭い国の片田舎とは比べ物にならない程の威光に溢れている筈。嗚呼、他にもあるぞ。路磨、塔京、新曜、上海っ。魅惑の都市達だ。
ゆっくりと彼女の部屋へ向かいながら、僕はくすっと笑った。未来は明るい。今もだ。その光はおよそ相反する別種のものだけれども、だが明るい事には違いない。
後ろへ振り返ると、彼方の農民達を見た。彼等が土塗れになってくだらない作物を作る様に、僕も時期が来るまでは、ここに止まって至らぬものをこしらえよう。
それは華の無い野薔薇だ。虫食いだらけで朽ちている様に白く、風の音を怯え、皮肉な事に日の光から逃げながら、際限無くのたうち、その蔓を何処までも伸ばして行くのだ。
この閉ざされた土と雪の下で。




