16 闇夜を照らす月明かり2
「なぜ……逃げなかった」
「あなたを置いて逃げるなど、ありえない選択です。明久」
膝と手を地面について死を迎えようとしている明久を慮るように、夜月は優しく言葉をかけた。
「逃げて私に相応しい使い手を探せなど……やはりあなたは愚かな人間というほかありません」
くすりと夜月は笑った。
矢上は一歩も動けずにいた。明久が命を賭けて逃がしたはずの妖刀が目の前にいる。明久を助けるために彼女は逃げなかったのだ。
本来ならその選択を愚かと断じて妖刀を捕縛しなければいけない。だが、矢上は膨れ上がる警戒心のせいで身動きが取れなかった。
夜月は矢上の顔をちらと見ただけで、すぐに明久に視線をうつした。もはや矢上のことなど意中にもないと言うように。
「私に相応しい使い手ならば、今目の前にいます……ですから、逃げる必要などありません」
夜月がしゃがみこみ、地に伏せかける明久と目線を合わせる。
吸い込まれそうな金色の瞳。鼻と鼻が擦れるほど近くに夜月の顔がある。彼女の吐息すら遠くなった耳に聞こえてくる。
「あなたは……私の主に相応しい方です。あなたが望むなら、我が心も我が肌も全てをあなたに預けましょう。笹雪明久、あなたは、私を受け入れてくれますか?」
死にかけの心の臓が、跳ね上がった。まるで生命の息吹をかけられたかのように、止まりつつあった心臓が力強く鼓動を開始する。
「私の名前を呼んでください。そうすれば私は……あなたを、ただ一人だけの主と認めましょう」
「……夜、月」
「はい、明久」
夜月の小さい手が明久の手を包み込む。
このままではまずい。一連の光景を見ていた矢上は、ようやく事態が自分に対して喜ばしくない方に流れて行ってると理解して、暗器を投擲した。
明久の喉を狙った暗器は、だが夜月がその手で掴み止めた。夜月の手の平が裂け、一筋血が流れる。それでも夜月は矢上を一瞥すらしなかった。
何かが変わる。明久はそう感じた。自分の中の何かが変わっていく。しかしその変化は決して恐ろしいものではなかった。
力が満ちる。妖刀夜月の主となったことで、明久は彼女と繋がったのだ。
妖刀である夜月と人である明久が結んだ繋がりは薄く儚いが、非常に強固なものであった。
その絆は、致命傷だった傷すらを塞いでいく。今妖刀三振りの主となった明久は、その体を変質させつつあった。
人でありながら、妖の体に……しかし倉本とは違う。妖刀との間にある絆が、彼を彼女たちと同じ体にさせている。
それは、四人の命が繋がったともいえる。彼と彼女たちは他人であるが、肉親よりも強い繋がりを得たのだ。
夜月の姿が目の前から消える。否、夜月はもう明久の手の中にあった。妖刀夜月。月光を照り返す、妖を斬る妖刀。
明久は立ち上がり、夜気を斬り裂くように一刀を抜き払った。
鋭い風切り音が闇に響く。後に残ったのは凛とした静寂だけだった。
「明久ぁ!」
ようやくこの事態を理解した矢上は、怒声をあげて暗器を数本投擲した。
明久は投げつけられる暗器の軌道を読み取り、暗器に目もくれずに矢上に詰め寄る。
それは自然と肌を撫でる秋風のような、淀みのない動きだった。矢上は暗器の数々を避けた明久が己の懐に迫った頃に、ようやく彼が一刀を閃かせているのに気付いた。
「ぐあぁっ!?」
一瞬の交錯の後、矢上の左腕が地に落ちていた。一歩で急激に間合いを詰め、続く一歩で放った右脇構えからの斬り上げが、矢上の左腕を断ったのだ。
斬られた左腕を抑えて地に膝をつく矢上に構わず、明久は血ぶりをした。
明久は空を仰ぎ見た。先ほど見た時よりも、光に溢れている気がする。
「行こう、夜月」
『……はい、我が主』
どこか虚空から聞こえる妖刀夜月の声音。本体である刀となった彼女の凛とした響きは、刀の冷気を感じさせる。
「ま、待て、明久……!」
この場から去ろうとする明久を矢上が呼び止めた。
「なぜ、俺にとどめを刺さない……!」
「……俺が斬るべきは妖、倉本豊後ただ一人。矢上、お前ではない」
「は、はは……そうか、妖以外斬るつもりはない、か……半妖の俺など、眼中にすらないと言いたいのだな。くく、さすがは退魔の剣客と言ったところか」
「いや」
自嘲する矢上を遮る様に、明久はどことなく虚しそうにかぶりを振った。
「お前を斬る気にはなれないだけだ」
「な……に?」
「お前が半妖だとか、そういうことは関係なく……俺はお前を親友だと思っていた。道を違えたとしてもだ」
矢上は呆然と明久を見ていた。
明久は少し迷った後、すぐに矢上に背を向け笹雪邸から立ち去った。矢上には矢上なりにその命を賭けるべき目的があった。それを知ってなお、彼にこれ以上の言葉をかけることはできない。
半妖を解放するために戦っていた矢上と、人でありながら妖刀の主となり、その体を妖と同一にした明久。二人の道はきっともう、まじわることはない。
明久の道が交わる先は、一つだった。同じく人でありながら妖へと成り果てた、倉本豊後。彼を討ち果たすことが明久の目指す場所である。
それは、倉本の計略で奪われた家族への復讐でもあり、この手にある妖刀夜月、そして初音や篝の望みを果たすためでもある。
妖を斬る妖刀。その主になったのだから、明久もまた、妖を斬らねばならない。もとより、笹雪家の人間とはそういうものだ。
だがそれは、倉本の計略によって否応もなく退魔の剣客に甘んじていた今までとは決定的に違う。明久自身が選んだ運命だった。
『明久……彼を斬らなくてよかったのですか?』
刀の姿のまま明久に握られていた夜月は、躊躇するように聞いた。
「ああ、必要ない」
『ですが……遺恨を残すかもしれませんよ』
「だとしても、俺は矢上を斬る気にはなれない」
夜月はそのまま押し黙った。それは頑固な明久の態度に諦めたというよりも、主がそう決めたのならばそれでいいという信頼によるものだった。
話題を変える様に、明久は夜月に問いかける。
「このまま倉本を斬りに行く。問題はないか?」
『一つ、心に置いてください。一時的に治癒力を高めあなたの傷は塞ぎましたが、失った血と体力は回復していません。もしもう一度あのような怪我を負ったら、今度は助かりません』
「分かった、気をつけよう」
『あと一つ……我ら妖刀との繋がりによりその肉体を妖のようにしても、真の妖となった倉本には大幅に劣っています。たとえ、あなたの体調が万全だったとしても』
「ああ、分かっている。だが、それはもう問題ではない」
なんの気負いもなく、明久は言った。
「剣と剣の勝負なら、身体能力の差はただの条件だ。力で劣っているのなら、それに勝る技を用意すればいい」
『……ええ、今の私とあなたなら、倉本相手にも勝機はあります』
少し沈黙した後、夜月が続ける。
『明久、私が以前敵は倉本だけではないと言ったのを覚えていますか?』
「ああ、そういうことを言っていたな」
『おそらくですが、倉本豊後が妖となったのも奴のせいです』
「……奴、とは?」
『一言でいうのなら、アクイでしょうか』
「アクイ……悪意、ということか?」
『はい、奴にはっきりとした名前など無いのです。分かることは、あれは悪意の塊だということだけ。……ですから私たちはあれを、アクイと呼んでいます』
夜月の言うことは少しとりとめが無く、明久はどう言ったものかと言葉を探した。
しかし夜月は、殊更強い語調ではっきりと言った。
『あれは、あの妖は、あるいは人類の敵と言ってかまわないでしょう。私たちは妖を斬る妖刀。奴は斬らなければいけません』
「……どちらにせよ、倉本を斬ればそのアクイという奴の正体も分かるのだな?」
『ええ、奴は倉本の影に潜んでいるはずですから、そう考えて問題ありません』
結局、倉本を斬ることには変わりなかった。だが彼の背後に夜月でさえ警戒する忌まわしい妖が潜んでいるのなら、油断はできない。
『あれからかなり時間が経ちましたが……まだ初音や篝との繋がりは切れていません。二人はきっと無事でしょう』
夜月の声色には、どことなくほっとしたものがあった。
『行きましょう、明久。倉本豊後を……私たちの手で倒しましょう』
「ああ……」
夜は明けはじめ、日の出の光が空を照らしていた。