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妖之剣  作者: アーチ
15/20

15 闇夜を照らす月明かり1

 ここまでひどいと、もう痛みすら感じないのか。明久は、自分の傷口を見てそんなことを思った。


 倉本の家から逃げ出した明久と夜月は、どうにか追手に会うこともなく彼の家にたどり着いた。

 居間に寝かせられた後夜月は台所に向かい、一人残された明久は血が流れ出る傷口を眺めていた。


 二振りの妖刀の主となった明久は、妖刀を通じてその体が尋常な人間とは異なったものになっていた。

 すなわち、妖に近い肉体に変異しているのだ。妖刀と主従関係を結んでいる場合だけの、一時的な変異ではあるが。


 ふと、明久は思った。倉本はいったいどうやって己の身を妖としたのだろう。

 妖刀との繋がりでこうなった明久には、倉本ほどの力はなかった。力も早さも倉本の方が上で、更に念動力なんて厄介な代物まで倉本にはある。


 だが明久は人より治癒力が高くなっただけで、簡単には死ななくなっただけだった。

 おそらくは、それが人でありながら一時的に妖となった者と、人の体を捨て正真の妖になった者の差ではないか。

 倉本が奴と言った存在。それが倉本を妖に変えたのは間違いない。そしておそらくそれは、倉本以外の人間を妖に変えることができるはずだ。

 そんなものを放ってはおけない。しかし、その存在はまるで霧に包まれたように見えなかった。あまりにも情報が無さすぎる。


 いくら考えても明久にはその存在の検討がつかず、そのうちに彼の頭はもやがかかったように判然としなくなった。


「明久!」


 夜月の声が聞こえて、虚ろな目を彼女に向けた。


「大丈夫ですか? ひとまず水を……」


 コップを口元に持っていかれて、明久は水を含んだ。

 口に広がる冷たい水の感触はどこか遠い。飲み込むという行為がどういうことかも忘れてしまったのか、明久はしばらく水を含み続けた。

 ようやく水を飲み込んだ明久を見て、夜月はほっと息を吐いた。


「気分はどうですか?」

「……まだ生きてるのが不思議なくらいだ」


 もうろうとする意識の中で、少しばかり笑いながら明久は言った。

 それは余裕のあらわれではなく、むしろ諦観によるものだった。

 妖に似た体になってはいるものの、この傷はもうどうにもならない。明久はそう悟っていた。


「……そう、ですね。これは完全に致命傷です。今あなたが生きているのは、初音と篝の主となっているから……妖刀と繋がりを持って、その体が半妖のようになっているからです。しかし、それももう……」


 憂いを帯びた夜月の声色が、明久の意識をギリギリの所でつなぎとめる。


「……あの二人は、今も時間を稼いでいるんだったな」

「ええ、ですがそろそろ持たない頃でしょう。倉本の狙いは私たちを己の愛刀にすること。彼女たちが破壊されることはないでしょうが、敗北すればあなたと彼女たちの主従関係は奪われるはずです」

「それは……困った、な……」


 力を無くした明久の体が夜月にもたれかかる。その重さが夜月に伝わり、彼女は明久を軽く揺さぶった。


「……あ、明久、起きてください。今眠っては……」

「大丈夫だ、まだ起きている……まだ、やることがある……」

「やること?」

「ああ……おそらく、そろそろ追手が追いつく頃だ。あいつが……矢上がきっと来る」

「あ……」


 夜月ははっとしたように息を飲んだ。明久を心配するあまり、彼女は追手の事を忘れていたようだ。

 明久は軽く呼吸を整えて、どうにか秒読みで力が抜けていく体を動かした。

 ようよう立ち上がる明久を訝しげに夜月が見ている。


「無理をしては……」

「いいんだ、どうせ、長くはもたない。ならば残った命は有効に使うべきだ」


 明久は居間に飾られていた刀を持ち、抜き払った。


「まさか、追手と戦うつもりですか?」

「当たり前だ……俺は笹雪家当主。命が尽きていないのなら、剣を握るのが道理……」

「で、ですが、今は共に逃げるべきです。その体では何もできません!」

「この体だからこそ、だ。もし俺のような死にぞこないを連れて逃げたら、すぐに追いつかれる」

「そんな、ことは……」


 普段は無表情な夜月らしくない、悲痛な声だった。


「……気にするな、これは俺の意地のようなものだ。お前を庇ったのは、もしかしたら無意味だったかもしれない。それでも俺は後悔はしていない」


 ふと、何かが可笑しくなって、明久は自嘲した。


「なぜだろうな。今死にかけているというのに、どうも生き返った気分になっている。こんな気分になるのはきっと、気づくことができたからだ」

「……なにに気づいたというのです」

「お前たちと共に過ごした時間だ」

「私たちとの……時間?」

「ああ。お前たちと過ごした時間は、短かったが悪くはなかった」


 二年前に家族を失って、天涯孤独の身となった明久。今十八歳の彼にとっては、その若さで家族を失い一人で生きるのは、言葉に尽くしがたい不安があった。

 しかしそんな不安を見せていては、この世界で生きていくことはできない。命をかけた斬り合いが珍しくない退魔の剣客なのだから、迷いがあっては命取りになる。

 だから、その不安を心の奥底に閉じ込めていた。だというのに、彼女たちは明久のその不安を自覚させ、更には自然と取り除いていたのだ。


「初音のわがままに振り回されるのは、嫌な気分ではなかった。篝のころころ変わる機嫌も、愛らしく思える。そしてお前の、その、冷たいようで優しい目も、好きだった」

「……その言い方は、まるで遺言のようです」

「あるいは、そうかもしれないな」


 明久がそう言った時、夜月は切なそうに彼の手を握った。


「お願いします……安静にしていたら、助かるかもしれません。ひとまず落ち着ける場所まで逃げましょう。私たちならばきっと逃げられます」

「いや、それは無理だ」


 軽く咳きこむと、口から血の泡が溢れた。

 数度咳き込むだけでこんなにも意識が遠のく。

 初音と篝。二振りの妖刀の主となっても、この傷では死期をわずかにずらすことしかできないのだろう。


「夜月、逃げるのはお前だけだ。俺はもう死に損ないの体だが、まだ刀は振るえる。お前が逃げる時間を稼ぐことはできるはずだ」

「……」


 夜月は、今にも泣きそうな表情をした。

 その姿が痛ましく、明久は思わず目を逸らした。


「逃げ延びて助けを求めろ、夜月。きっと俺よりも剣術に秀でた者が……お前に相応しい者がいるはずだ」


 夜月に背を向けて、明久は居間から出てその足で庭に向かった。


 庭にたどりついて、ふと空を見上げてみる。空は徐々に明るくなっていく。夜明けが近いようだった。

 死ぬときはせめて日の光を浴びたいなと明久が自嘲した時、塀を飛び越えて彼の目の前に何者かが降り立った。

 夜が明け始めている今、顔を確認するのは簡単なことだった。明久の目は霞んでいたが、その男の顔ははっきりと捉えられる。


「矢上……やはり来たか」

「明久……随分な様子だな」

「ああ、見ての通りだ。こんな様でもまだなんとか生きている」

「そうか? 俺にはお前が死んでいるように見えるが」


 その軽口に明久は笑おうとして、もう顔の表情を動かす力もほとんどないことに気づいた。


「その半死半生の状態で俺を足止めするつもりか?」

「当然だ」

「……死を前にして狂ったか、明久。その体で何ができる」

「狂ってなどいない。俺はようやく、自分の意思で決断したんだ。このまま死ぬとしても、倉本の呪縛を脱した今、俺の視界は明るい」

「……」

「矢上、お前がどうして倉本に従ってるのかは知らない……が、お前を見ていると、哀れに思うよ。きっと以前の俺もお前のようだったのだろうな」

「黙れ、死にぞこないめ」


 矢上の瞳に憎悪が灯る。明久が今まで一度も見たことがない、激情にかられた表情が矢上にあらわれていた。


「貴様に俺のなにが分かる。生まれながらに妖の血を引き、退魔共から半妖と唾棄される俺を……いや、俺たちのことを、なにも知らないだろう」

「……そうだな、妖の血を継ぐ半妖、か……俺はろくにその存在のことを考えてもこなかった」


 思えば半妖とは歪な存在だった。すでにこの世から姿を消したと言われる妖の血を受け継ぎ、数百年後の文化が変わった現代にまで生まれてくる半妖という存在。

 それはもしかしたら、存在を消しつつあった妖の呪いだったのかもしれない。

 文明が進み人は暗闇への恐れを失った。闇に潜む者たちのことを恐れなくなった。

 人の心の奥底に潜む恐怖から生まれたとされる妖が、黙ってその姿を消すはずがない。彼らの置き土産が半妖なのだ。


 この世に半妖が生まれる度に、人々は過去の荒れた世に潜んでいた妖の存在を思い出す。人でありながら人を凌駕する身体能力を持つ半妖を放ってはおけないと、戦国の世から続く退魔の家系が現代ですら力を持つ始末である。


「だが、倉本に従うのは愚かなことだ」

「俺はそうは思わん。彼は退魔の者でありながら、人の体を捨て妖へと成った。彼ならば作ってくれるだろう、妖がはびこる世を。半妖が解放される世界を!」


 深く深く、実感のこもった矢上の言葉を聞いた時、明久はようやく彼の心を知った。

 矢上が望むのは半妖の監視がない世界なのだ。半妖が虐げられることもなく、危険視されることもなく、ただ人のように自由に暮らす世界。

 だが、それは……。


「倉本についていっても、そんな平等な世界が訪れるとは思えない。そんなことは分かっているんだろう?」

「……それでも、俺の望みが叶うとしたら、彼についていくしかないんだ!」


 矢上が一喝するや、素早くその手を振り払った。

 闇夜にひとすじ輝線がはしる。明久は一刀を振るって喉元に迫るそれを打ち払った。

 鈍い音を響かせて、矢上が投げた暗器が落ちる。


「ぐっ……」


 同時に明久が膝から崩れ落ちた。ぎりぎりの所で膝立ちになり、その体を地に擦ることは避けられた。

 迫ってきた暗器を払っただけで、明久の体は限界を迎えたのだ。


「それが人の限界だ」


 矢上は唾を吐くように言った。


「半妖は人よりも優れている。なのになぜお前たち脆弱な人間に監視されなければいけない……!」

「脆弱……か、その通りだ」


 傷口から、口元から、止めようもなく血をしたたらせながらも、明久は再度立ち上がった。

 すでに体の力は尽き、その命が消えようとしていることは誰の目にも明らかだった。それでも明久は、意思の力を原動力にして一刀を構えた。


「見ての通り、俺はしょせん死にぞこない。半妖のお前からすれば、哀れで脆弱な人間に見えるだろうな」


 ぴたりと正眼の切っ先を矢上の喉元へ突き付けて、明久は声を振り絞った。


「それでもまだ、俺には一刀を握る手に、地を踏み込む足がある。ならば、もう限界だと全てを諦めることはできない……矢上、お前はこの命に代えても斬り捨てる」


 夜月を逃がすために。彼女たちがいつか倉本を討つ時を迎えるために。この命の燃料を一滴残らず注ぎつくす。

 その意気込みで、明久は一刀を放った。


「くっ!?」


 とても死にかけとは思えない俊敏な一刀を前にして、矢上は予想を裏切られたように慌てて後ろに飛び下がった。

 明久の一刀は止まらない。避けられれば避けた方向を斬ろうと跳ね上がり追撃を行う。矢上は投擲しようとしていた暗器を持ってそれを迎えうった。


 不思議なことに体が軽い。まるで重力から解き放たれたかのように、明久の体は軽やかに舞動く。

 あるいは抜けてしまったのは魂なのだろうか。考えるよりも早く体が動く。体よりも早く一刀がはしる。


 夢想。あるいは無我。剣術を修練する者にとって、たどりつくべき理想の境地というのがあった。

 死を目前にした明久が一時的にこの境地に達したのは、ある意味当然かもしれない。彼にはもう生死の概念すらない。生きながら死につつあり、死にながら一刀を振るう。

 しかしそんな境地に達した明久も、運命には抗えない。矢上が反撃する暇すらない連続斬りで彼を後一歩というところまで追い詰めるものの、突然糸が切れた人形のように膝をついた。


 ――これ以上は、無理か。


 体の感覚がどこか遠くになり、冷ややかな夜気さえ感じられない。自分に残っていた生命の、最後の一滴が尽きかけているのが分かった。


「……口だけではなかったな、明久。見せてもらったぞ、笹雪家当主の実力を。見事だった」


 矢上は肩で息をしながら、冷や汗を流していた。あのままでは斬られていた。その思いが明久への畏怖と畏敬に繋がっていた。


「悔しいが、お前の目論見通りになったか……妖刀夜月はもう逃げおおせたことだろう。明久、お前の勝ちだ」


 もう耳に聞こえる矢上の声すらも遠くなっていたが、明久は称賛を受けて満足げに笑った。


「せめて、止めは俺が刺してやろう」


 それは、今では道を違えてしまったものの、親友同士だったことからの情けなのだろう。矢上は暗器を手にし、明久の喉へその切っ先を突き立てる。


 その、瞬間。流麗な剣撃が、明久と矢上の間に割り込んだ。

 矢上はあわやという所で剣撃を避け、突然の乱入者を見て驚愕した。

 驚愕したのは、数分後には死を迎えるであろう明久も同じだった。


 夜明けのわずかな暗闇を斬り裂くように爛と輝く金色の瞳。一陣流れる風に舞い泳ぐ、三つ編みにされた長髪。その手には、月光を照り返す神秘的な一刀。

 妖刀夜月が、そこにいた。

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