11 覚悟
居間でおとなしく座っていると、思っていたよりも早く食事が運ばれてきた。
茶碗によそわれたお米に、湯気が経つ味噌汁。主菜は鯖の味噌煮で、副菜にほうれん草のおひたしまであった。
明久が肩を怪我してから、笹雪家の台所事情を管理していたのは篝だった。料理の才能でもあったのだろうか、日ごとにまともな食事を作り出し、今ではもう一般家庭の和食をきちんと出せるほどになっていた。
「初音、篝、腕をあげましたね」
鯖の味噌煮をつつきながら、夜月が感心するように二人を称賛した。
「なに、突然?」
篝が訝しむように夜月を見ると、彼女はふっと小さく笑いをもらした。
「いえ、料理を始めた最初の頃はありえないほどまずかったので」
「あんたね、もうちょっと言い方ってのあるでしょ」
「ひどいよ夜月ちゃん」
「事実ですから」
明久は無言でそのやり取りを見ていた。もう彼女たちのこういう会話は聞きなれたものだ。
こういう会話に巻き込まれるとろくな目に合わない。もうそう学習していた明久は、無言で食事を始めた。
とはいえ、まだ完治していない左肩では少し難儀を覚える。もともと右利きであるため箸の操作は問題ないが、左手でしっかり茶碗を持っていないとどうも落ち着かない。
しかしこの左肩では茶碗を持ち上げるのも辛いものだ。
「まだ傷が痛むのなら、いつぞやの時のように食べさせてあげましょうか?」
そんな明久の様子に気づいた夜月が、嗜虐的な声色で言った。
「いや……いい。お前、食べさせるの下手だからな」
「な……! 無礼な!」
「夜月ちゃん結構不器用だもんね」
「初音、それはひどいです」
こちらをからかおうとする夜月は厄介なものだったが、うまくかわすことができた。今のうちに明久は食事を進めていった。
――最近、どうにも気分がいい。
食事を終えてお茶をゆっくり飲んでいる時、そんなことを思った。
そんな風に感じる理由は、もう明久には分かっていた。この妖刀三振りと共に過ごしているせいだ。
この三人と生活をはじめて、明久の心境は驚くほどに変わっていた。
心が変われば見る世界も変わるのか、明久はここ最近ぼうっと外の景色を眺めることが多い。
今まで気づきもしなかったが、どうやらこの世界は色鮮やかなものだったらしい。
日の光は眩しいが、それは命に溢れた輝きで、草木を照らしている。耳を澄ませると、時折鳥や虫の鳴き声が聞こえた。
そして、初音と篝、夜月の三人。この三人の言葉や行動に時に呆れ、動揺したこともあった。だがそれ以上に、彼女たちとの会話には花が咲きほこるような実りを感じた。
――俺は、どうしてしまったのだ?
そのことに最近気づいて、明久は戸惑いを感じていた。
初めの頃は気の迷いかと思ったが、彼女らと過ごす時間に慣れればなれるほど戸惑いは大きくなり、心の水面には波紋が沸き起こる。
その波紋が沸き起こすのは、やはり倉本豊後への不審だった。妖刀たちと時を過ごせば過ごす程彼女たちの性格や心が分かり、とても他者を謀ろうとする気配などないことが分かる。
だが倉本はどうだ。明久は今まで目をかけてもらった恩を抜きで、彼のことを思い出してみた。
倉本ははたして、心から信用がおける人物だろうか。いや、あれこそ老獪な人物というべきではないだろうか。
彼になにかよこしまな目的があったとしたら、顔色一つ変えず他者を謀り、己の都合の良い方向へ操ることができるのではないだろうか。
――お目付け役の倉本家にこのような不信を持っていると気づかれたら、叱責どころでは済まないだろうな。
そんな不安を持ちながらも、疑念というものを払拭はできない。
この疑念は解消しなければいけない。明久は自然とそう考えていた。
それは笹雪明久という人間が退魔の剣客となる前に、最初にやらなければいけなかったことだった。それをやらずに自分を騙していたことこそが、彼の抱える歪みだった。
もはやそれから逃げることはできない。逃げてはいけない。
「この前の話のことだが……」
その思いが、明久にこんなことを言わせていた。
「この前?」
きょとんとした顔で、初音が明久の顔を覗きこんでくる。
「倉本様……いや、倉本豊後の話だ」
「……おや、信じる気になったのですか?」
夜月が意外そうに目を丸くして言った。
「お前たちの言葉をそのまま信じた訳ではない……が、確かめる必要があるとは思った」
明久がそう言うと、夜月があの金色の目で穿つように彼を見た。
「殊勝な心がけですね。確かに、言われたことをうのみにして信じるのは愚かなことです」
耳に痛い言葉だった。明久が過ごしてきたこの二年間は、倉本に言われたことをただ聞き続けた愚かな時だった。別に夜月はそのことを揶揄したわけではないだろうが……。
明久は気を取り直して口を開く。
「倉本豊後は妖だと、そう言っていたな」
「ええ、間違いないでしょう。私たちは妖を斬る刀。よもや斬るべき対象を間違うはずがありません」
「……そこがまず信じられん。彼は人間のはずだ。でなければ退魔の重鎮になどなれるはずが……」
「人も堕落すれば妖になるということです」
「……それは、はぐらかしているな?」
「おや、バレましたか」
夜月はわざとらしく微笑んだ。
「まあ、あなたにはまだ教えられないこともあるということです」
初音と篝を見ると、二人は少し表情を暗くして俯いていた。どうやら夜月と同じ考えのようだ。
――それも当然か。
まだ明久は彼女たちに協力すると決めた訳ではない。ならば重要な情報を話すことはできないだろう。
逆に言えば、倉本豊後が妖になった手段と理由が彼女たちにとっては重要なことなのだ。今のところそれが分かったところで、どうにもなりはしないが。
「なら、今ごろ倉本の家から逃げ出したのはどうしてだ? 倉本が妖だと気づいたのがここ最近だからか?」
「その質問に答えるには、事の経緯をたどる必要がありますね」
夜月は困ったようにお茶をすすった。その間に言うべきことを取捨選択しているようでもあった。
「まず倉本が妖だと気づいたのはもう随分前のことです。おそらく五年ほど前から彼は妖だったでしょう」
「なっ……」
絶句する明久をよそに、夜月は淡々と続ける。
「五年前から気づきながらも、今になるまで私たちが何も行動を起こさなかったのは、私たちが厳重に封印され休眠状態だったためです」
「封印……?」
「お蔵の中でね、しめ縄でぐるっと囲まれてたの。あれをされると私たち身動き取れなくなっちゃうんだよねー」
初音はその時のことを思い出したのか、嫌そうな顔をして身震いをした。
彼女たちは五百年前から存在する稀代の妖刀。それを考えれば、厳重に封印をかけられるのは当然のことだった。
「もともと私たちは奉納されていた神刀だというのに、少し時代が経っただけで信仰は薄れ妖刀扱い。あまつさえ一度も使われたことがないのに封印までされるとは、人間は勝手な生き物です」
夜月の人間嫌いはそこからきているようで、唇を歪めて端正な顔を崩していた。
「……それで、封印されていたはずのお前たちが、どうやって逃げ出した?」
「簡単よ、倉本が封印を解いたの」
明久の問いに答えたのは篝だった。
「……倉本が?」
「うん。あいつ、あたしたちが人間に化けられるって知らなかったみたい」
「おかげで隙をついて楽に逃げ出せましたね」
「追手を分散するためにばらばらに逃げなきゃいけなかったけどね」
明久にもようやくあの夜のことが大分見えてきた。彼はその夜の内に倉本に命じられて妖刀を探し、初音と対峙したのだ。
「奴の狙いは、稀代の妖刀である私たちをその手にすることでしょう。そうして力を求めるということは、どういうことか分かりますね?」
無論のこと、力を振るう相手がいなければ力を求める理由は無い。つまり倉本は、彼女たち妖刀を手にして何者か、あるいは何かにその力を振るおうというのだ。
倉本が力を振るうであろう対象は……明久にも薄々と分かっている。彼が妖であるならばきっと、妖の天敵である退魔という組織を排除するつもりなのだ。
ここまで話を聞いて、明久は深く考えこんだ。彼女たちの話が真実だとすると、事態は非常に危うい。
だが、その話をそのまま信じるべきだろうか。
「……やはり、本当に倉本が妖かどうか、一度確かめなければいけないな」
「私たちを信じないと?」
「いや、そういうつもりではない」
それは明久の本心だった。この妖刀たちはきっと嘘をついていない。それは彼が彼女たちと初めて会った時から思っていたことだ。
「だが確たる証拠を掴まなければ、信じることはできない。今度、俺一人で確かめにいってこよう」
「確かめるって……まさか倉本に直接!? しかも一人で!?」
「ああ、それしか方法はない。倉本の狙いがお前たちなら、連れていくわけにはいかないしな」
「ば、バカ言ってんじゃないわよ、一人で行ったらあんた殺されるわよ!?」
泡を食ったような篝を見て、明久は驚いた。
「……まさか、心配してるのか?」
「……なっ! そ、そんなことは……うっ、うぅっ……バカっ!」
狼狽した篝がパタパタと手を慌ただしく動かして、終いには思いっきり明久の頭を叩いてきた。
「……なぜ叩かれる」
「お兄ちゃん、わざとやってない?」
さしもの初音も、呆れたように肩を竦める。
「でも篝ちゃんの言う通りだよ。直接倉本に聞いたら、お兄ちゃん絶対殺されちゃうよ」
「……俺も一応は剣客のはしくれだ。むざむざ殺されるつもりは……」
「甘いですね」
鋭く夜月が言った。
「相手は退魔に関わる者でありながら、自ら妖に堕した男です。しかも彼は今も退魔の者たちにその正体を気づかせてはいない狡猾な者。若いあなたなど手玉に取られるのがオチです……更に」
明久がなんとか反論しようとすると、畳みかけるように夜月が続ける。
「私たちが倉本と戦うことを諦め、ひとまず逃げるほどですよ? あなたの想像の数倍は強いと心得なさい」
さすがにこれには明久は言葉を無くした。
倉本豊後が昔、剣の名手であることは聞いたことがあった。しかし今では剣術はめっぽう触っていないという噂でもある。
だが彼女たちの口ぶりからすれば、しょせんそれは噂でしかなかったということなのだろうか。
「……倉本は、お前よりも強いのか?」
「業腹ですが、一対一ではまず勝てませんね」
明久は言葉を無くして歯噛みした。
夜月の実力は、実際に斬り合った明久がよく知っている。それを超える腕前となると、明久の手に負えない可能性が強かった。
「倉本は私たちよりも強い……しかし、私たち四人が協力すれば話は別です」
「なに?」
「四人ならば、勝機はあるかもしれません」
「……お前たちもその姿で戦うということか」
「ええ、でなければきっと相手にもならないでしょう」
あの夜月がここまではっきりと言うのだから、きっとそうなのだろう。
そう理解しながらも、明久の顔はどこか苦々しい。夜月はそんな彼に釘を刺すように冷たく言い放った。
「ですから、一人で倉本の元に行くなどというバカな考えは捨てることです」
「……そうだな」
あいづちを打ちながら、だが明久の心は決まっていた。その心の機微に、彼女たちが気づいたかどうかは分からなかった。