魔王の奏功
魔王。いや、天上院弥子がゆっくりとフィストに歩み寄る。
顔だけではない。
頭から足の指先まで、間違いなく天上院弥子だ。
服装は魔王だった頃と変わらない。
だが、本人と言って差し障りの無いほどの完璧な変身能力。
「それ以上歩いて来たら、刺すわよ」
「怖がらなくていいよ。フィスト」
あぁ、見た目だけでない。
その声の抑揚から所作まで一緒だ。
天上院弥子が一歩近付くのと同時に、フィストは一歩後ろへ下がる。
「ビッケ。これはどういうこと?」
「私達の一族が使える奥義よ。秘中の秘中だけどね」
この技、『恋煩い』はサキュバスの奥義であると同時に、決して使うことの無い禁忌である。
何故なら、この技の使用はサキュバスにとって、負けを認めるに等しい行為だからである。
その魅力を持って人を狂わせ、生命力を糧とする種族サキュバス。
だが、『恋煩い』による吸精は、他人の魅力を利用するものである。
サキュバスで、『恋煩い』が使用可能な程の力を持つ者は少ない。
だが、それほどに強力なサキュバス程に高いプライドを持ち、この技の使用は避ける。
過去に高名なサキュバスが、どうしても篭絡することが叶わなかった男に対してこの技を使用したが、『恋煩い』による吸精に成功した後、喉を掻き毟って自ら命を絶ったという。
故に使用された事例が極めて少なく、幻の技と言っても過言ではない技なのである。
「あはは、逃げないで。フィスト」
そう言うと、天上院弥子は槍……ペニバーンを構えて襲い掛かってきた。
いつの間にか辺りの景色も変わってしまっている。
ここは、この場所は。
「『追憶のワンショット』」
初めてフィストと天上院弥子が出会った森の中だ。
ビッケの姿も見えなくなってしまった。
今、ここにいるのは天上院弥子とフィストだけ。
あの時と唯一違うのは、フィストが全く手出しをすることが出来ないのだ。
「な、んで」
アレはヤコじゃない。
魔王・サタンが変身しているだけの偽物。
頭では理解している、いや、本当は理解出来ていないのかもしれない。
なのに、フィストは反撃が出来ない。
どうしても、天上院弥子にしか思えないのだ。
判断力が低下し、動きも鈍る。
そんな彼女の隙を、魔王が見逃すはずもない。
遂にペニバーンの穂先がフィストの体を捉え、深く突き刺さった。
胸に突き刺さった槍の衝撃により、倒れるフィスト。
戦いが決着したのだ。
「……合格じゃよ、フィスト」
突き刺さる槍を引き抜き、『恋煩い』を解除した魔王・サタンが、動かなくなったフィストを見下ろす。
「幻術使いは、常に相手よりも先に一手を打つべし」
嬉しそうな声音と共に、サタンは自らの両目を軽くこすった。
すると、そこには倒れたフィストではなく、たった一つの藁人形だけが転がっていた。
辺りを見回せば、自らの力の糧とする為に生贄となった魔族の群れ。
どこを探してもフィストとビッケはいない。
「魔大陸を離れる時、既にワシへと幻術を掛けていたというのか」
そう。初めからフィストとビッケはこの場所に来ていない。
今の戦いは、全てサタンがフィストによって見せられた幻想。
サタンはただ、大勢の魔族の命を犠牲にして、誰もいない空間で一人芝居をしていただけだ。
完全に騙されたサタンの大敗北であり、まんまとフィストに一杯食わされたのである。
「……くくく、かははは!」
だが魔王は笑う。
実に恥ずかしい、悔しい、悲しい。
だが、それ以上に喜ばしい!
凡百の掃いて捨てるような木っ端の命など、どうでもいい。
ただ一人の天才の成長を、この目で確かめたという事実。
最強だったはずの自分を容易く打ち破った存在の誕生。
「ならば、卒業祝いでもやろうかの」
そう言うとサタンは、どこからか一本の美しい短剣を取り出した。
決して神聖な美しさではない。
どこまでも深い闇のような妖しさでありながら、人を惹きつけて止まない。
それを自らの心臓へと突き立てた。
短剣は魔王の心臓から溢れ出る血を啜るかのように吸い出す。
満足そうにその光景を見ながら、サタンは目を閉じた。
やがて短剣が魔王の血を全て吸い取ると、何処かへと消えた。




