恋煩い
「参るぞ」
その一言と共に、魔王の身体は漆黒の影に染まる。
魔王の影は足元から無数の蝙蝠へと変化し、それらはフィスト達へと襲い掛かった。
自身の身体を影へと変化させ、それらを巧みに操る。
この力は『吸血鬼』という魔物が使える能力である。
「修行の続きのつもり?」
襲い掛かる影達を恐れる事無く、フィストは手に持っていたナイフを構え、魔力を込める。
そしてすぐにナイフに収まることなく溢れ出した魔力は、影から守るようにしてフィストの身体を包み込む。
「『色眼鏡のヴェール』」
この影を用いた攻撃は、魔王・サタンがフィストとの修行中に何度も使用した技の一つである。
幻影の技を使うものが、他者に心を乱されることがあってはならない。
実体がないはずの影が質量を持って襲い掛かって来たとしても、我を失ってはならない。
そう教えられたフィストが生み出したのが、色眼鏡のヴェールである。
「後ろで立ってるだけなんて、お優しいのね魔王様」
「ほっほ、いっそハグでもしてやろうかの?」
色眼鏡。
先入観と偏見は、自らが判断した情報を基に組み上げられたものである。
それに触れる事実は否定され、彼女だけの現実が映し出される。
実体がない影は消え失せ、消えるはずのない肉体が現れる。
魔王はフィストの後ろで微笑みを浮かべていた。
「さて、では次のテストと行こうかの」
そう言うと、魔王は両手で自らの顔を隠す。
絶対的な隙にも見えるその行為だが、仮に手を出すことがあれば、恐らく死が待っている。
確証は持てないが、今だけは攻撃をしてはならない。
むしろこちらへ奇襲されないように、その守りを固めるべきだ。
そんな思考が頭に過ぎるほどの恐怖が、魔王からは発せられていた。
「いないいな~い」
まるで赤子をあやすかのように優しい声音。
だが安らぎを感じる事などなく、怪物が封印を破る瞬間のような緊張感が辺りを支配する。
「ばぁ~」
そして魔王がその顔を現した。
夜空に浮かぶ星のような瞳と、一瞬にして心を奪う笑顔。
フィストがこの世で最も愛する者。
天上院弥子の顔が、そこにあった。
「……その、技は」
フィストの傍で守りの構えを取っていたビッケが息を呑む。
そう、この技こそビッケの一族である『サキュバス』の奥義。
「『恋煩い』」
愛する者と戦うことは出来ない。
戦うとは自らを守ることであり、愛する者とは常に自らよりも大切な者である。
故に矛先を向けることなど出来ず、傷付けることも許されない。
それは自らの愛の否定であり、最大の障害となる。
「愛してるよ、フィスト」




