天上院弥子の地球浪漫 ~日本編、その5~
午後の授業開始時刻となり、騒がしかった生徒の声はしなくなりました。
誰もいない校舎を一人歩きます。
普段は大勢の人がいる学校をこうして歩いていると、まるで異世界に来たかのようなワクワク感と授業をサボっているという背徳感とで胸が高鳴ります。
椿ノ宮はやたらと敷地が広く、散歩するには困りません。
教師に見つかるリスクもありますが、それはそれで楽しいのです。
もし見つかったらどうしようというワクワク感と共に散歩するのが堪りません。
基本的に外を歩くと視界が開けてしまい見つかりやすいので、校内を散策するのがメインになります。
「~~♪」
なんでしょう。
中学の頃は別にこんな趣味など持っていませんでした。
そもそも中学の頃は嫌がらせ自体受けたことが無かったのですが。
しかし自分がこんなに寛容だとは思ってもいませんでした。
いや、やはり元は器の小さい人間だったのでしょう。
少し前の私では、上履きを濡らされたりなどされようものなら激怒していたはずです。
それが今となっては、余裕を持って流すことが出来る。
「~~♪」
やはりここ最近で、私の心境の変化が生まれたのでしょう。
いや、心境だけではありません。
以前よりも活動的になったのを確信しています。
やる気の無かった勉強も進んでやるようになりましたし、笑う機会も増えました。
その変化を与えて下さったのは間違いなく。
「天上院様……」
そう、あの人のおかげです。
確信しました。
私は天上院様をお慕いしているのでしょう。
ですがこの気持ちは恋などという美しいものではありません。
「天上院様……」
あぁ、今だから理解が出来る。
何故名も知らぬ女生徒から嫌がらせを受けても素知らぬフリが出来るのか。
「天上院様……」
それはきっと、あの女達がいくら努力しても私ほど天上院様の寵愛を受けることは出来ないと思っているから。
あぁ、認めましょう、名も知らぬ女生徒達よ。
私は調子に乗っています。
「天上院様の隣に立てるのは」
これは恋ではありません。
そんな美しい言葉で形容出来るものではありません。
「この私、清宮姫子だけ」
そう、これは醜い独占欲。
天上院様に愛されるのは私だけ。
天上院様が愛してくれるのは私だけ。
「あっ、ははは!」
笑いがこみ上げてきました。
誰もいない廊下に、私の笑い声が響き渡ります。
「あははは!」
そして私の勘違いは、間もなく、そしてどうしようもなく私を狂わすのです。
「……そろそろ教室に戻りますか」
一通り校内の散策をして飽きてきた頃、服も乾いてきたので教室に戻ることにしました。
最終的に教室へ戻るようなルートで歩いていたので、もうかなり近くまで来ています。
教師への言い訳はどうしましょう。
保健室に行っていた……は証明書が無いですし通用しませんよね。
まぁ、時間的に無理がありますけどお花摘みに行っていたということにしましょう。
本当に校内散歩の途中で咲いている花を摘みましたし。
「すみません、遅刻しました」
そう言いながら教室に入ると黒板を書きながら喋っていた教師が一瞬こちらを見た後、「遅いぞ清宮」とだけ言って再び黒板へ向き直りました。
ま、正直こんなもんですよね。
理由も特に聞かれることは無かったのでそそくさと自分の席に戻ります。
せいぜい内申点が多少下がる程度でしょう。
鞄から教科書を取り出し、机に広げると隣の席から紙を丸めたものが飛んで来ました。
飛ばしてきた本人は、私の隣の席で飛ばしてきた紙玉を指差して広げるような動作をします。
「小学生ですか……」
誰にも聞こえないような小声で私は呟くと、言われた通りに紙を広げます。
するとそこには小さくて丁寧な文字で「大丈夫? なにしてたの」
と書かれていました。
天上院様の温かい気持ちが伝わってくるその一文に、私の心が満たされていくのを感じます。
紙に書いて返事をしようと思いましたが、どうせ授業後に追求されるでしょうし、取り敢えず愛想笑いを浮かべて誤魔化しておきました。
それを見た天上院様は一瞬顔を険しくなさると、授業へと顔を戻します。
天上院様が気にかけて下さった。
その事実が私をとてつもない多幸感に包ませるのです。
◇◆◇
「ねぇ、姫子ちゃん。なんで授業に遅れたの?」
授業終了後に案の定、天上院様は私に遅刻の理由を聞いてきました。
「そんな気になさることではございませんよ。少し野暮用に野暮用が重なって帰るのが遅れただけです」
「その野暮用って何?」
「少し先生に頼まれごとをされましてね」
「授業に遅れるような頼みごとを、教師が生徒にするわけないでしょ」
むぅ、流石に一筋縄ではいかないですね。
「まぁ、以後気を付けますので勘弁してくださいな」
「……姫子ちゃんがどうしても言いたくないって言うならいいけどさ」
結局私は天上院様の優しさに付け込むことにしました。
優しい天上院様は私の期待通りに追求を止めてくれました。
あぁ、この甘い世界にいつまでも溺れていたいです。
◇◆◇
「姫子、最近機嫌がいいわね」
ある日の夜、父と母と私の三人で夕飯を食べている時、母が私に話しかけてきました。
以前は私の学校の成績を長々と説教し続けていたのですが、ここ最近は天上院様のおかげで目に見えて良くなっているので、小言を言われることが少なくなりました。
「えぇ、学校が楽しいのです」
「それはいい事ですね。これからも勉学に励んで立派な大和撫子になって下さい」
勉学に励むのと大和撫子になるのとはまた別な気もしますが……まぁいいでしょう。
母は大和撫子という言葉を便利に使っているような気がします。
英語が出来なかった中学の時も、そんなことでは立派な大和撫子になれませんよと言ってきました。
現代の大和撫子には英語が必須技能なようです。
大和撫子もグローバル化しないと生きていけない時代なんでしょうか。
「……そうだな。最近の姫子はよく頑張っている」
その言葉に驚いて目を向けると、父はさも何も言っていないかのように箸を進めています。
寡黙な人ですので、食事中は勿論普段からあまり喋ることのない人です。
最近は直接会話した記憶が殆ど無く、一週間下手すれば二週間は会話をしていないのではないでしょうか。
私の家は遡るとかなりの昔からある家なのですが商才に恵まれていたらしく、かなり広い範囲の土地を持っています。
家の蔵には先祖から伝わってきた宝物などが納められており、一部は国の博物館に提供する程の代物をあったそうです。
残念ながら私の代で男が生まれなかったらしく、現在は父が男手は一人で家を支えている状態です。
そんな父は日頃から気難しい顔をしており、初対面の人からはよく怒っているのかと勘違いされるそうです。
「このまま卒業まで努力をし続けるのであれば、見合いの話は無しにしよう」
見合いの話、というのは、私の将来の旦那様の話です。
先程申し上げた通り清宮家は現在父が一人で支えている状態であり、子供も私一人しかいません。
なので私が成長したら父が選んだ男と見合い……というかほぼ確定で結婚をすることになっていました。
「姫子。食後に私の部屋に来なさい」
◇◆◇
「呼ばれて参りました、姫子です」
「入れ」
夕食後、呼ばれた私は父の自室にやってきました。
中に入ると父は正座をしており、向かい合うようにして座布団が敷いてありました。
「座れ」
促されるままに座布団に座ると、父は懐から布に包まれた何かを取り出し、私の前に置きました。
「これを渡そう。卒業する日まで持っていなさい」
いったいなんでしょうかこれは。
手に持ってみると、それはズシリと確かな重さがありました。
え、これを持ってろってどういうことですか。筋トレですか?
「話は以上だ。自分の部屋で確かめなさい」
父に渡された物を持って自室に戻ると、早速渡されたモノを調べてみることにしました。
見た目は小さいにも拘わらず、かなりの重量感を持ったソレ。
包んでいる年代物の布をゆっくりと開いていきます。
「……これは」
中に包まれていたのは、一本の小太刀。
鞘からゆっくりと引き抜くと、妖しいと言える程に輝く刀身が姿を見せます。
名刀『岩融し』
ただの小太刀ではございません。
代々清宮家の当主に受け継がれてきた、まさに伝家の宝刀。
それを父が私に授けた意味はなんなのでしょう。
これを卒業の日まで持っていろ、と父は言っていました。
この刀はまさに清宮家の魂そのもの。
それを身に着けていろというのは、清宮家を継ぐものとしての自覚を持て、ということに他なりません。
「……」
夜も深くなっていたのもあり、取り敢えず私は一旦考えるのを止め、その岩融しを枕元に置いて寝ました。
◇◆◇
「ごめん、姫子ちゃん。先に行ってもらっていいかな」
岩融しを授かった翌日。
またまた天上院様は女生徒に告白をされた為、私は先に授業クラスへ向かうことになりました。
次の授業は日本史。
担当の教師がかなり堅物な中年の女性で、椿ノ宮の教師の中で最も厳しい先生です。
授業開始時刻になり、先生がぐるりと教室を見回します。
「天上院さんはどうしましたか」
「……天上院さんは少し体調の悪い生徒を助けています」
「はぁ、またですか」
そう言って歴史の教師は眉間に皺を寄せて説教を始めました。
「なんとも嘆かわしいことです。椿ノ宮ともあろう学校が、最近は風紀の乱れに随分と緩くなってしまったようで。そもそも~~」
あぁ、長い説教が始まりました。
この教師は椿ノ宮の教師の中で唯一、天上院の『暗黙の了解』を認めていない方なのです。
天上院はこの前の中間試験で日本史含む全教科満点と言う椿ノ宮始まって以来の偉業を成し遂げた方ですから、多少授業に遅刻するくらいはどうでもいいと思うんですがねぇ。
「とにかく、居場所をご存知の方は連れ戻して来てください! 今すぐに!」
「……わかりました」
仕方がありませんね。
私は立ち上がって教師に一礼すると、教室を出て天上院がいた場所に向かいました。
えーっと、確かあの曲がり角の辺りですね。
その時、私は嫌な予感を感じました。
あの曲がり角を曲がれば、人生が変わってしまう、そんな予感が。
でもまさかただ想い人を呼びに行くだけで人生が変わるはずもないと思った私は、遂にその運命の曲がり角を曲がってしまうのです。
そこにいたのは、泣いている女生徒を抱きしめて唇を交わしている天上院様。
「……姫子ちゃん、どうして」
天上院様が、口付けを止めて私を驚いたように見詰めます。
一方の私は、呆然とその場に立ち尽くすだけです。
つい先日に自覚した恋慕。
天上院様が愛するのはこの世で自分だけという勘違い。
それらが今、私の心を大きく搔き乱します。
その後の事は、よく覚えていません。
ただ告白した子と天上院様が別れたのを見送った後、機械的に天上院様を教室まで案内しました。
胸に渦巻く何かは、留まることなく回り続ける。
制服の裏ポケットに入れた岩融しが、やけに軽く感じます。
◇◆◇
「全ては天上院様が悪いんですよ? 私に愛を囁きながら他の女にも愛を語るなんてするからです」
「どこですか、天上院様?」
「はぁ……もういいです」
「さよなら、天上院様、すぐに追いかけますね。今回のお仕置きはこれで勘弁して差し上げます