成れる×成れない×成りきれない!
ほの暗く感じる、ひっそりとした教室。昴と英露は、かたや机にっぷし、かたや椅子に背を預けていた。英露の方が若干気楽そうだ。
(なだらか先輩のことで手一杯だってのに……)
あの日から、雨母は素っ気なくなった。呼んでも「ええ」とか「そうですわね」くらいしか返さないのだ。
「悪友。珍しく悩んでるみたいだな」
「珍しく? 俺は大体悩んでるよエロ」
「そいつは初耳だっ」
椅子が圧轢音を鳴らす。
「雨母か?」
「……そんなところだよ。なあ、俺は間違えたのか?」
ぼんやりと肘をついた、昴に似合わない格好。
「そういうふうに聞くってのは、お前の中で答えが出てるってことじゃないのか?」
英露にしては的を射た意見に思える。事実その通りで、昴は明らかに雨母への対応を間違えた。その証拠に、いつも三人で固まっていた風景はどこにもない。
「兎にも角にも、昴の選択次第でいくらでも状況は変わるさ……っと、さーて、俺はこの前買ったバイブルの観賞でもするかねえ」
エロ本を持って放課後の教室から退出していく悪友。
昴は教室に誰も居なくなるまでとどまっていたが、お茶らけた英露らしからぬアドバイスが、いつまでも胸に突き刺さっていた。
「雨母か、そういえば俺はあいつを気に掛けたことがあったんだろうか……」
友達レベルの付き合い、という意味でなら十分なものだと自負していた。雨母は、昴からのアクションをそれ以上求めなかったし、昴もまたそれでいいと解釈していた。
それが間違っていたのだろうか。
だとすれば。
「昴様、少々よろしいでしょうか」
「……包助さん。雨母から離れるなんて珍しいですね」
「ええ、まあ。……一緒に来てもらえますか?」
包助はすました表情のまま昴を誘った。教室入り口から指す光が、包助のシルエットを際立たせていた。
「昴様は……」
廊下を先導する包助が口を開いた。
「パーフェクトの属性である私と似かよい、それでいて非であるのでしょう」
「……?」
「私が完璧なら、昴様は完全だということです」
昴が無個性なのは、アトリスが証明している。しかし、包助の言葉は冗談に聞こえなかった。
「俺は、完全だなんて到底思ってませんけど」
「昴様は、昴様が考える以上に完全な人間です。ただ、今は、真円の満月に陰りが差しておられるのです。そして、呼応するように雨母お嬢様の気持ちは揺れている……」
包助は、科学実験室の前で昴にストップをかけた。おもむろに振り向いた彼は、雨母の執事として対峙する。
執事の覚悟を察した昴は、黙って続きを待つ。
「昴様という月を完全に映し出すのは、雨母お嬢様という海面の鏡以外あり得ない。それが雨母お嬢様の執事である私の答えです」
なるほど、と昴は妙に納得した。昴と雨母は互いに一定の距離を築いていたから。
包助は少し苦しそうだ。
「しかし、一人の人間である私はこうも言うのです。水面に映る以上に月を受け入れられるのは、底深くに佇むなだらか様なのではないかと」
握りしめた拳は、完璧を属性に持つ包助らしくないものだった。
昴も覚悟を決める。雨母と向き合う決意。
「包助さん……雨母と話をします。そこを退いてくれますね?」
「元よりそのつもりですよ……どうぞ、雨母お嬢様がお待ちです」
そう言って、昴が瞬きした直後には包助の姿はなかった。本当に何者なのだろうか、包助は。
「さて、」
三回ノックして勝手に実験室の扉を開ける。
奥の窓際は棚のようになっており、雨母はそこから夕焼け空を眺めていた。金髪が黄昏に映え、ぱっちりとした瞳は、細められ切れ長く見えた。
令嬢らしく絵になる一枚だったが、昴はなんら動揺を見せなかった。
「雨母」
「来ましたわね」
「話がある」
「私もですわ」
龍虎の睨み合いが、実験室の端と端で勃発する。
やがて雨母が薄らと微笑みを作った。
「昴、私の気持ちを読めるかしら」
「読めねえな、読めねえよ」
読めていたら、昴はここまで苦しむことはなかった。
「私ね、中学の頃から昴が好きよ」
「……」
慌てることじゃない。告白されるのは初めてだったが、昴の愛がなだらかに向いている以上、雨母の言の葉に怯みまなかった。
昴は、雨母の全力投球にどこまで応えられるだろう。
「俺と雨母は友達だよ。今までずっと、これからもだ」
「……そんな答えを、私が求めていると思うのかしら?」
勿論そんなはずはない。
雨母が欲しいのは、肯定と頷きとハイの返事だけだろう。
「昴は、覚えてるかしら。線香花火が上手くできなった私に、手ずから教えてくれたこと」
「覚えてる。友達との思い出を忘れるわけないだろ」
「私は、昴の掌の温度も……覚えていてよ」
雨母は、昴に近寄り、そのまましなだれかかる。
昴は手を握られた。雨母の柔らかい手のひらをダイレクトに感じる。
「ほら」
「雨母……やけくそになるのは止めてくれ」
その気のない女の子に触れたところで、昴の心が揺れるはずもなかった。
特に、なだらかに敵対意識しかもっていない、今の雨母には心が動かない。
「こうでもしないと、昴は底峰先輩の所へ行ってしまうのでしょう? 彼女の転校を、阻止するために」「ああ、だから、力を借りようと思ったんだけど……仇になっちまったみたいだ」
「いいじゃない、仇でも。私の手を握り続けなさい」
だいぶ魅力的な提案だった。
耳元でささやかれるように、提案されれば、大抵の男は頷くかもしれない。
財閥の令嬢でスタイル良く、ワガママでヒステリックな性格も慣れれば可愛いものだ。意外に素直で情熱的でもある。
これを首を横に振る男は、そういないだろう。
「あいにく、俺の手は両方ともなだらか先輩を抱きしめるためにある」
「私が動けば、底峰先輩の転校の件、どうにかなりますわよ?」
最初から、なだらかの転校を人質に、昴を強請るのが目的だったのだろう。
雨母は強気だ。
「それは魅力的だ。けど、なだらか先輩への愛を捨てる理由にはならない」
「……本当に、財も権力も、女の武器も、昴には役に立たないですわね」
名残惜しむように指先を昴の躰に這わせ、雨母は密着させていた躰を離した。
昴は雨母に笑いかける。
「雨母の手を握ってくれるのは、俺じゃない誰かだ。きっと」
「言いますわね、なら私にも手がありますわ」
「……?」
これ以上なにがあるのだろう。そう身構えた瞬間、もう一度雨母が接近した。
「んっ」
「んっ!?」
夕焼けの教室に、重なった影ができる。
いつもの昴なら、このキスを避けられた。
雨母はすぐに唇を離し、心底意地悪そうに微笑んだ。
「私を選ばなかったこと、これでチャラにして差し上げますわ。お安いとは思いませんこと?」
「……は、はは。怖い女だなあ、お前は」
「あら、写真でも撮って、底峰先輩に送り付けたほうが良かったかしら?」
「止めい」
「冗談ですわ」
雨母は指をパチンと鳴らす。
「お話は済んだようですね」
その合図を待っていた包助が、ドアを開けた。
「……じゃあな、雨母」
昴が通り過ぎていくのを、包助は見送るだけ。
包助は、雨母が実験テーブルに座っている姿を見て、事の顛末を悟った。
「お嬢様、もっと賢いやり方があったのではないですか?」
「かもしれませんわ」
昴が身動き取れなくなるような、財閥の令嬢らしい、搦め手もできた。それは雨母も認めるところだった。
「私は、本物の悪役令嬢には成りきれないようですわ。アトリスの示す通り”ツンデレ”止まりなのですわね」
「おや、意味をお調べになったのですか?」
雨母は中学から属性にあまり興味を示さなくなっていた。それが、サブカル用語であるツンデレを学ぶとは。包助は意外に感じただろう。
「自分と向き合う年頃になっただけですわ。行きますわよ、黒崎」
「……はい、お嬢様」
雨母は、珍しく驚愕を見せた従者を連れ、実験室を後にした。