水難×救助×人口呼吸!
「――んっ! なだらか先輩!」
「お、ちょ昴、ボール!?」
昴はなだらかの危機を血に飢えたサメよりも鋭敏に察知した。それは完璧人間である包助よりも鋭い感知能力だと言っていいだろう。自分に飛んできていたビーチボールなど捨て置いて、さっそうと海に飛び込む。
なだらかが浮き輪から落ちたところは見ていないが、鈍い悲鳴を聞き取った昴。彼はトライアスロン選手のような美しいクロールで、海を裂くように進む。
「なだっ、らかっ、先っ、輩っ!」
昴は掛け声とともに海水をかき分け、一気になだらかの所目がけて泳ぐ。なだらかの手の先が沈みきたっところで、昴はその周辺に向かって潜水した。
(なだらか先輩!)
海水で滲む視界の先で、なだらかの柔肌に指先が触れる。その瞬間、昴は確信をもってなだらかを確保し、海上に押し上げた。
「ぷはっ、なだらか先輩!」
「……」
「ぐったりしてる……水を飲み込んでショックを起こしたか、単純に窒息か……急がないと」
昴は驚異的なパワーを発揮し、力の抜けたなだらかを抱えて浜まで泳ぎ切る。そこにはすでに包助が担架を備えて待機していた。
「昴様、こちらに!」
昴はまずなだらかを横たわらせ、肩を軽く叩いて返事を促した。それから呼吸の確認をする。水が詰まっているのかその音は断続的で、完全に危険領域だ。ことは一刻を争うのだと言い聞かせる。
(ごめんなさい)
なだらかの鳩尾から少し上に組んだ両手を添える。なだらかには悪いが、今は胸を触ることの問題など細菌よりも小さな問題だ。実際、昴に邪な気持ちなど一寸もなく、ただ水を吐き出させようという一心だった。
――グッ、グッ、グッ!
昴は心臓マッサージを始める。一、二、三と数え、それを三十回。不幸中の幸いか、なだらかはそれだけで息を吹き返した。水を吐き出し、苦しそうにむせている。
「ほっ」という、その場の全員の安堵が聞こえた気がした。
「一応、医務室に運びます……昴様、ご協力願ってもよろしいですか?」
「ええ」
むしろ自分から申し出ようとしていたくらいだった。昴と包助は担架を持ち上げると、大きく揺らさぬよう注意を払いながら、別荘の方に連れていく。
あっという間の出来事に取り残された雨母と英露の二人。
「何羨ましそうな顔してるんだよ」
「別にそんな顔はしておりませんわ!」
別に好き好んで溺れようとは思わない。しかし雨母は、昴があそこまで親身に付き添ってくれるなだらかに、これまでにない劣情を抱く。圧倒的に自分の方がステータスも、個性も優っているはずなのに。
(いけませんわ、それではまたあの頃の私と同じ――)
この世の中には、納得できないことなど山ほどある。雨母はそれを中学の時に存分に味わったのだから。
「まあ、底峰先輩が元気におなりになるまでは手厚く見て差し上げますわ……ふん」
ビーチベンチで一息するため、雨母はとぼとぼと歩きだす。英露はそんな犬猿の仲である彼女に苦笑する。
「素直じゃねえの……あちっ」
夏の日差しに熱せられた砂浜が、今頃になって襲い来る。
浜の熱砂は英露に厳しいようだった。
*
なだらかの寝かされたベッドは、雨母が所有する別荘の一室にある。医者の診断を受け、異常はないと診断され、今は目を瞑っている。
隣では木椅子に腰かけた昴がいる。なだらかの冷えた手を握り続けていた昴は、微笑みながら寄り添っていた。
なだらかの目が覚めるのを今か今かと待っているようである。
「……?」
「あ、おはようございます。なだらか先輩」
なだらかが薄らと目を開ける。まだ意識が覚醒していないようだった。
「おはよう……昴、君?」
「はい、昴君です。貴方の大好きな昴君です」
「勝手に事実を捏造をするのは止めて、あと刷り込みしようとしないで」
昴の軽い冗談は、なだらかの頭に強烈なヘッドブローとして叩き込まれた。
なだらかは起き抜けに突っ込まされたからか、一度息を落ち着かせる。
「なんで私ここにいるんだっけ?」
「え、溺れたんですよ?」
「……昴君が助けてくれたの?」
「はい」
「そっか、ありがとう」
命の恩人だね、となだらかは昴を労うように言う。しかし、次に考えるのは自分がどうやって助かったかということだ。
(あれ……私、たくさん水を飲んでいた気がする。それに意識が薄くなっていって――)
それで昴に担がれて、浜に運ばれたのだろう。そして、救助された。普通、そういう者に対する処置と言うのは心臓マッサージと人口呼吸と決まっている。
途端に、なだらかの頬に朱が差した。
なだらかもまた、一人の乙女なのだ。
「す、すすすす」
「え? 酢?」
「違うよ! ……昴君もしかして――」
なだらかは赤面しながら体を抱きしめる。昴はすぐに理解してくれたようだった。
そして申し訳なさそうに頭に手を当てる。
「ああ……本当は謝らなきゃいけないと思っていたんですが……その、緊急事態だったもので……」
「そ、そうだよね。あ、あはは」
「「……」」
両者の間に沈黙が生まれる。柔らかく日差しの入り込む窓際で、硬直する身体。
昴も全面的に非を認めているので間違いないだろうとなだらかは確信する。同時に昴もまた、なだらかの恥じらう姿に罪悪感が生まれてしまう。
――右斜め四十五度ほどズレた方向に。
(不慮とは言え胸を触ってしまったなんて……紳士にあるまじき行為!)
(私が溺れてしまったのが原因だけど、昴君とキスしちゃうなんて……)
どちらも玉突き交通事故並の勘違いをしていた。
「すみませんでした、なだらか先輩」
「ひゃい!」
(どうしよう、責任を取りますとか言われないよね!?)
なだらかの思考回路は最早滅茶苦茶に乱れていた。配線工事を頼んでも無駄なレベルで。無論医者も匙を投げるレベルである。
「取り敢えず、お粥でも持ってきますね。まずは体力を付けないと」
「あ、はい」
なだらかが驚くほど、昴は素直に引き下がっていった。それはいつも押してくる昴を見ていたなだらかにとって一大事に等しかった。
昴が素直に引くところなんて見たことが無いからである。
(どういうことなんだろう……もしかして、もう押す必要がないという確信が昴君に――!? 嘘嘘嘘! ありえないからー!)
なだらかは孤独になった瞬間、掛けられた毛布に顔を埋めた。
(どうしようどうしようどうしよう)
もっと強烈に昴を拒絶する名目を考えなければいけない。でないと昴はもっと距離を縮めてくる。それはなだらかにして見れば、|無個性として満足すること《今の生活》を壊しにかかる行為であるのと同義だ。
それだけはあってはならない。
――コンコンコン。
「は、はいどうぞ!」
ノックが聞こえたのでなだらかは跳ね起きる。
「お粥持ってきましたよ。あれ、顔が赤いですね? 体が冷えて熱でもひいてしまったんでしょうか?」
そう言って盆を直ぐ近くに置くと、昴はなだらかの額に手を当てようとする。もう一大事だ。なだらかは急いで腕を振り払うと「大丈夫だから!」と一喝した。
昴は叱られらた子供のように少ししゅんとした。
(そんな顔しないでよ……)
わけもなく胸が痛んだ。
「じゃ、じゃあ……」
気分を持ち直すように微笑んだ昴が蓮華を取った。
「一人で食べるのも何なので、俺も一緒にいますか?」
「ご、ごめん。ちょっと一人で食べたいから……」
「……そうですか」
なだらかの返事を受けた昴は、凄く従順だった。それはもう、なだらかの意識に確変をもたらすほどに。今までかじ取りの一切効かなかった昴を相手にして、自分がイニシアチブを取れている。それが堪らなく快感なのだ。
本人はそれを本能レベルで察しているだけだろう。認識していなかろうが、確かに感じていた。
だからなだらかは、意識せずにその言葉を言う。
「夕飯は……一緒に食べてもいいよ」
「――!」
締まりかかった扉が一瞬止まった。
(聞こえたのかな? 喜んでくれたのかな?)
昴の感情、表情を探る術を知らないなだらかだったが、その時は何故か喜びに満ちた面持ちの昴を想像できた。




