・こういうときは
・こういうときは
翌日。一通りの準備と贈り物を頂いた俺は、昼食を済ませてついでに、シノさんの家を訪ねて、また魔法を使えるようにしてもらった。腕も鈍っているから、要練習だ。
それからミトラスと共に、近所の公園に来た。町の東側。市場を抜けて、住宅街に隣り合う川の傍。時刻はそろそろ二時。
こういうときに週休が、きちんと二日あると、週を跨がなくていいから、大事だよ。春の淡い日差しと、通り抜ける穏やかな風が、緊張を解していく。
川のせせらぎを聞きながら、まだ少し肌寒い昼下がりに、二人並んでベンチに座る。
一度役所に戻ったときに、用意した水筒からお茶を淹れる。カップは一つしかないから、先にミトラスが飲んで、次に俺。
不思議だ。ここに来るときは、いつもお互いに向き合っていた。今は隣り合っている。だから二人は顔が見えない。
俺たちはいつも、二人に何かがあったとき、ここに来て、二人きりで話すんだ。
それはいつのまにか、約束みたいになっていた。
「僕はね」
先に切り出したのは、ミトラスだった。真っ直ぐに前を見つめたまま、口から紡ぎ出される言葉は甘く、それでいて鋭い響きを持っていた。
「僕は、君に帰って欲しくなかった」
聞いた瞬間に胸がざわついた。肩に少しだけ重さが加わる。慣れた重さ。彼の匂い。
怖いとは思わなかった。
「もしも、またこの世界に戻った君が、あまりにも、変わってしまっていたら。もしも、君を受け入れられなかったら、そんなの、絶対嫌だもの」
俺を嫌いになりたくないってことは、嫌いな俺にはなって欲しくないってことだ。そんなの、当たり前のことだ。彼の肩を抱いて続きを聞く。
今はまだ、俺がこうしてやれる。
「でもね、それって結局、僕の我が侭なんだ。でも、君と前に口論になって、思ったんだ。我が侭を言うならせめて、もっと他になかったのかなって」
だから、俺に付いてくるなんて、言い出したのか。我が侭を言わないっていう選択肢はなかったんだな。嬉しい方向転換だけどさ。
「分かってるよ。俺が良かれと思って、皆のために、明日のためにと思ってやった自己満足を、否定されて酷いと思って、勝手に傷ついて、自業自得のくせに、被害者ぶって、甘ったれて逆恨みをする。特に意味も無い頑張ったつもりを、認めてくれなかったってお前に向かって喚く。そんなときがきっとある。だけど、それを許して欲しい。俺だって我が侭だよ」
胸にもたれかかり、体を預けてくるミトラス。猫耳を撫でる。もう何度、これを繰り返しただろう。もう三年か。
「嫌だ」
「何が」
「全部、本当はね」
顔を上げたミトラスと目が合う。
金色の瞳に隠れるように、女の顔が映っている。
いつからだろう。
保護者気取りのつもりでいたのに、今はもう、そんな顔をしていられない。
「君が僕の手から離れたら、そこからは君の運命が、また始まる。もしもの君が、沢山出る。そこには二度と僕たちと会えず、不幸になるサチコがきっと出る。
それが嫌だ。僕は、君を手放したくない。運命だって独り占めしたいんだ」
「どうしてか分かる?」とミトラスは呟いた。
ううん、という音が、俺からした。
「僕にはね、母親がいないんだ。父が関係を持った誰かの子ども。それが誰かは誰も知らない。僕にとって周りの人は、皆を除けば友だちしかいなかった」
思えば、彼はずっとその話題を避けてきた。父親のことを、嫌っているのは知っていたけど、母親のことは単純に、その記憶が無かったからなんだな。
何も言うことが、無かったからなんだ。
「でも君を呼び出して、一緒に暮らしているうちに、お母さんってこんな感じなのかなって思えて、すごく安心した。温かくて、嬉しかった。けど、君はだらしなくて、あどけなくて。子どもみたいだったり、お姉さんみたいだったり、妹みたいだったり……」
彼が、目を静かに閉じるのが分かる。俺がずっと、隣で見てきたように、向こうもまた、俺のことを見ていたんだな。
「僕にとって、サチウスは多くの意味で、初めての人だったの。そうして家族みたいに暮らしていたのに、今ではもうそれさえ、物足りなくなっちゃった。僕はもう、ちゃんと言えるよ」
――ずっと、あなたと一緒にいたい。
ぶつけられた心の一つ一つが、その重さが嬉しい。目を閉じればあの日、弱り切り、何かにつけては恥じらい、戸惑っていたミトラス。
俺のミトラス。
「そうして、くれるんだろ」
「……違うよ、そうじゃないよ、サチウス」
彼は徐に立ち上がると、俺と向き合いながら、改めて俺の上に座り、背中に腕を回した。
抱きしめられた。できることならば、何だってしてあげたい気持ちになる。
「あの日、帰りたくないと、言ってくれたあなたが、今は帰ると言っている。ねえ、それなら僕が、同じことを言っても、いいかな」
囁く声が熱を帯びて、俺を抱く腕に力が籠る。
あの日は、この子には笑顔でいて欲しいと、願っていたな。それが叶って、いつの間にか、もしかしたら最初から、ずっと守られていたのは、俺のほうだったのかも知れない。
「お願い、言ってよ」
「僕は一緒にいたい。だからそろそろ、一緒にいてくれって、言って欲しいの」
満たされて行くのが分かる。
少しだけ、目が潤む。
「ああ、一緒に、いてくれ。ミトラス、ずっと、ずっと俺と、一緒にいてくれ……!」
声が震えてるのが分かる。自分が今、どんな表情をしているのか、分からない。
きっと笑っているはずだ。だけど、俺は自分の笑顔が分からない。
こんなに幸せな気持ちになるなんて、たぶん生まれて初めてだから。
「お願いだ」
「ありがとう、そう言ってくれて」
首元に彼の頭が埋められていく。甘えるように押し付けられるそれを、俺も精一杯、抱き返した。
不意に、胸がいっぱいになって。
いけないとは思っていても、滲む視界から零れるものが、彼を濡らすことを止められなかった。
この日、俺の異世界からの帰還を、ミトラスと一緒にすることが決定した。
俺の運命は彼が握っている。一緒にいてくれると、そう告げられた。
あの日から何も変わらない。
いや、あの日よりもずっと、彼と一緒にいたいと、思った。
「帰ろう、サチウス。今日は、僕たちの家に」
「……うん」
どれくらいの間、そうしていただろう。まだ二時間は経ってないはずだ。でも、とても長い、間そうしていたような気がする。
ベンチから立ち上がり、帰路に着く。
そのとき、所在がなかったので、何となく空を見上げた。どこにでもある雲が、青空の中をゆっくりと、流れていく。
あの日もこんな天気を、していたんだろうか。
「サチウス」
「あ、うん、今行く」
俺の前には、ちっとも変わらない背中があった。
小さいようで、大きくもある。
でも、確かに変わっているんだ。お互いに。
ミトラスだけじゃない。
だって、今じゃこんなにも、俺は、お前のことが。
誤字脱字を修正しました。
文章と行間を修正しました。




