おにぎりとおでん
アルプスのおでん屋シリーズ。
嫌なことがあって当たり前の毎日だけど、あったかいものでも食べて、自分を取り戻しながら寝て起きて生きよう。
ハイジもいるしね。
会話に入れてもらえなかったのか、単に入れなかっただけなのか。
もっと心情に沿った言い方に変えると、いじめられたのか、それとも打ち解けられなかったのか。
本気出して正直な言い方をするならば、連中が悪いのか、わたしが悪いのか。
とにかく、あんまりな気分になったので、これ以上耐えられなくなり、そっと抜け出してきて、今は零時過ぎ。
寒気を顔いっぱいに受けながら自転車を漕いでいる。
バイトの連中に誘われてカラオケに行き、そこで昼食を摂ったから、たっぷり半日を耐え忍んだことになる。
もともと、気の合う感じじゃなかった。華やかな女子大生と、イケメンを目指している感じの男子学生の集いであり、恋愛だの、友情だの、バイトの文句だの、誰かの悪口だの、そういう雑多なことを話して盛り上がっていた。
見事に浮いていた。
最後のほうになると、邪魔者みたいになって、仲間の一人のアパートに上がる時は、ぽつんと一人、最後尾に体を小さくして入ってゆき、みんながこたつを囲んで飲んでいる時なんか、こたつに入れず、部屋の隅で正座していた位だ。
(まだ終わらないんか)
と、思っていたら、ほろ酔いを通り過ぎ、立派な泥酔状態になった連中が、乱交パーティを始める勢いになってきたので付き合いきれずに黙って退出した。
今日はまた、ものすごく冷える。
まるで切れそうな風じゃないか。ナイフみたいな三日月が、冴え冴えとした光を放っている。
年末が近づいて、そろそろお祭りモードな町である。深夜だからだいたい閉店しているが、イルミネーションがあちこち派手だ。
お腹は、空いていた。
夕食は居酒屋で飲み放題食べ放題だったが、輪に入れなかったから、食べ物の大皿に箸を伸ばせる感じじゃなかった。
惨めな気分は空腹で増長された。
さらに今は真夜中だ。たまに通りかかる歩行者らは、どいつもこいつも、そこはかとなくヤバイ。
異様に疲れているか、異様に浮かれているかのどっちかだ。
だらだら坂道にかかった。尻を上げて自転車を漕ぎながら、重い溜息をついた。
行かなきゃよかった。
心からそう思い、無言でこぎ続けた。
心身ともに冷え切った時、我が家に到着した。2DKの超極安物件、幽霊下宿がわたしのスイートホーム。
同居人のハイジが帰っているらしく、部屋に入るとほんのり温かく、奥から音楽が聴こえてきた。
フランス・ギャルである。若いくせにハイジは60年代70年代の音楽を好む。
そして台所が明るい。
ハイジがいる時ならば、うちには幽霊が出ない。だから、大変助かっている。
おまけにハイジは料理がうまい。居酒屋のママにしたいくらい気がきいたものを作る。
台所の扉を開いた瞬間、ずうんと圧し掛かっていた重たいものが、ふっと軽くなった。そして、ギャルの声が、ふぁっと体を包んだ気がした。
「やー、お帰りー。いいところに」
真っ赤なほっぺを、湯気にさらしたハイジが満面の笑顔で振り向いた。
大きなステンレスの鍋にはおでんが煮えている。
しかし今彼女はフライパンを持っていた。香ばしい香りが漂っている。
「高菜が安かったからさ、シラスとごま油で炒めて、溶き卵も炒めて、ごはんの友を作ったんだよ」
じゅう、と派手な音を立てるフライパンを恐れげもなく片手で持ちながら、テーブルに出してある大きなボウルを引き寄せる。
「混ぜごはんにしてさ、おにぎりにするから、食べよう」
たまにはみんなで集まって楽しく盛り上がってさ、ストレスも発散してさ、いいじゃない。
ふっと、バイト仲間の言葉が思い出されて一瞬だけ、嫌な気分になった。
白い歯を見せた笑顔で。
ねー、カレシも作っちゃいなよ。みんなそうしてるんだよ。こないだ別れた人もいるからさ、ねえ。
わたしはハイジに気づかれないように溜息をひとつついた。バカだったんだよ、わたしは。
え、誰?誰が別れたの?
なんて、密かに胸を躍らせながら聞いたりして。
なーに、誰か気になるの?聞かせてよ、協力するからさー。
親切そうに言われて、うっかり心の中を他人に見せたりしてさ、バカだ、わたしは。
だが、ハイジがかぱと炊飯ジャーを開け、湯気のたつご飯を気前よくボウルに入れ始めた時、ゆり戻ってきた不穏なモヤモヤはふっと消えた。
代わりに、ギャルの子供っぽい歌声が軽やかに流れてきた。
ハイジは、ほどよく冷めた高菜炒めとご飯を混ぜ、てきぱき結んでゆく。
ぐつぐつとおでんの鍋が音を立てていた。
ギャルの「夢見るシャンソン人形」に合わせてハイジが歌いだした。
それは日本のアニメの主題歌だ。シャンソン人形によく似たメロディの曲である。
歌いながらハイジはおにぎりを皿に並べて行き、わたしも立ち上がっておでんを取り分けた。
焼酎とカルアミルクがあるんだなー、とハイジが言うので、わたしは笑ってしまった。
「なんで笑うの」
「両極端なんだよ。でも両方出そう、両方のもう」
手際よく作られた料理をはさみ、向き合って座った。
高菜おにぎりと、大根とこんにゃくとごぼう巻きの皿を見て、おなかがグーとゆかいな音を立てた。
お湯割りを作ってハイジに渡すと、ものすごく幸せそうな笑顔で受け取ってくれる。
「なんだっけ、それ、相手に惚れさせたらピンクのハートの宝石がゲットできるやつだったよね」
「そうそうー、あははー、よく知ってるねー」
食べようよ、と言いながらハイジはさっさとおにぎりに噛みついていた。
わたしも高菜おにぎりを一口齧った。
旨い。
ごくんと飲み込んだ時、「自分」が戻ってきた気がした。
別に何も語っていないのに、すべてを知っているような笑顔でハイジは言った。
「おかえり」
本当にうまいものを食べたら、地に足がつくような気がする。
心なんか無防備だから、取り上げられ、もてあそばれることなんか、ざらだ。
一番大事な芯になるものが彷徨いだしてしまうから、いつでも体が空虚になってしまう。
でも、大丈夫だ。
大根を噛みしめながら、わたしは心の中で頷いた。
繰り返しでもいい。食べて寝て、また明日が来る。仕方がない。でも、それで生きていける。
「おいしいねえ~」
ハイジが嬉しそうに言い、わたしは焼酎のお湯割りのお代わりを作った。
高菜としらすとタマゴは相性が良いですわ。
ああ、パンの耳出す予定だったのに忘れた。