時と君の間に
とある国立大学のとある工学部の研究室、楽得樂教授の文字からラクラク研究室と周りから呼ばれている。
しかし、名前ほどその研究室は楽ではない。
数ある研究室の中では、一日ゲームをして終える研究室、ほとんど来なくても受け継いだ研究に毛ほどの結果を上乗せして卒論を提出して済ませる、なんて研究室も多い。
ラク研ではコアタイム制度はない、が平均八時間は滞在している。日付をまたぐ日も多々ある。他の研究室へ逃げ出す学生は過去にも多くいたらしい。一緒に配属された同期の学生の一人はもう姿を見せていない。
なぜそんな研究室を選んだのか。多い質問だが、明確な答えはない。正直、僕それほど勉強が好きなわけではないし、研究がしたいわけでもない、そんな意識の低い学生のうちの一人だ。
それでも、あぶれてこの研究室に入れられたわけではない。一応、自分の意思でここに来たのだ。
では、その理由は?
研究室紹介の先輩が可愛かった。それだけだ。
夜九時、この時間になると十四人いる研究室のメンバーも、僕含めたった三人になっていた。自分と外国人研究者のエリック、そしてドクター一年の四十万晃アキラさん、彼女が研究室紹介をしていた先輩である。
こんな時間まで残っているのも彼女が理由だ。
しかし彼女は今日、ほとんど実験室にこもりきりで研究室の方には余り顔を見せない。残念だ。
会えないのなら、もう帰ろうかと思っていたとき、扉が勢いよく開いた。
「どうしたんです、アキラさん」
血相を変えたアキラさんを見て思わず尋ねた。
「キララちょっとこい」
勢いよく手招きをするので、思わず早足で駆けつける。
さて、席ほどアキラさんが発した『キララ』 、残念ながら自分の名前である。雲母光、これがフルネームだ。
からかわれた、嫌というほど馬鹿にされた。
しかし両親を恨むことは出来ない。これが名前なら遠慮せずに恨んだだろう。きっとぐれたに違いない。しかし、名字だ。代々受け継がれてきた名字。こればっかりは仕方ないだろう。
高校生辺りから『雲母』を普通に『うんも』と偽って自己紹介をする術を身に付けたが、やはりすぐばれるものだ。
名前で呼んでくれ、と頼んでみようか……、いやしかし気恥ずかしい。それが最近の悩みだ。
ちなみにアキラさんの場合、研究室に『牛島さん』という先輩もいて、紛らわしいから名前で呼べ、と最初に言われた。
さらに、牛島さんは、牛島夕紀であり、『ゆうき』は男っぽいから嫌ということだ。
以上、研究室の名前事情。
「どうしたんです?」
アキラさんの後に続きワンフロア上にある実験室に移動した。
研究室と同じ程のその部屋は、ほとんどアキラさんの実験器具で埋め尽くされている。気を付けて歩かなければ、無造作に積まれた機械が崩れ落ちて来る。
「これを見てくれ」
そう言ってアキラさんは機械を指差したが、その機械がどこからどこまでその機械なのか分からないぐらい、周りの様々なものと繋がっていた。
結局どこまでが『これ』かはわからないが、取りあえず目の前の機械を見上げた。
「これは?」
「ふむ、難しい話は置いておいて、これはレーダーだ」
レーダー――Radio Detecting and Rangingの頭文字をとったもの。日常的にも出てくる言葉なのでなんとなくのイメージはつかめる。
「はい、それは以前にもききました」
「しかし、セッティングをある条件にしたら、電波を出さなくなった。そして電波よりはるかに波長の短い紫外線を一瞬出したかと思うとすぐに消えた。いや、観測できない何かを出しているんだ」
「観測できない何か?」
観測できないのに何故そんなことが分かるのだろうか。
浮かんだ疑問を口にする前にアキラさんは答えてくれた。
「そう、エネルギーの行き場所が他にないんだ。この機械は結構な電力を食う、その分のエネルギーが何かに変換されて放出されてるんだよ」
「何か恐ろしいですね。放射線とかじゃないですよね」
「違う違う、それはとっくに調べた」
アキラさんは嬉々とした様子でそう言った。
よほど嬉しい発見をしたのか頬は紅潮し、口元は犬歯をのぞかせて笑っている。目元にできた隈がかき消されるぐらいの笑顔だった。
「その様子じゃ、その何かが分かったんですか?」
にっと口元を吊り上げ、いい笑みを浮かべたアキラさんは腰の高さにあった機械に腰をかけた。
「これを発見したのは一月ぐらい前だったかな、そして、なんだなんだと調べるうち、何かを放出しているという仮定を出したのが二週間ぐらい前。そしてその『何か』に乗せてデータを送ろうと試みた」
「データ?」
「そのときパソコンに入ってたあらゆるデータさ、タグを付けてもし誰かの手に渡ったら勝手にネットにアップされるようにしておいた」
それはウィルスというものです。
それは黙認して話を促した。
「じゃあ、ネットに何かのデータが?」
「いや、もっとすごい所さ」
そう言って傍らに置いてあったラップトップを起動させた。
アキラさんはブラウザを起動させページを表示させた。テクノロジー関係の記事のようだ。内容はある教授の研究の成果が製品化されたとのこと。
「これが、どうしたんです?」
「ほい」
アキラさんは次にタブレットを手渡してきた。まったく忙しい人だ。
タブレットには論文が表示されていた。その論文の著者は先ほどの記事の教授だった。
「その教授の論文ですね」
「そう、その製品の音となった論文だ。そして――」アキラさんはラップトップのブラウザを閉じワードを立ち上げた。「これが今私が書いてる論文だ」
並んだ二つの論文を見比べる。
タイトルはほぼ同じ、アブストラクトをざっと眺めただけだが、内容もほぼ同じのようだ。
「これは……」
「そう、ほぼ同じだ」
「先を越されたってことですか?」
「違う。同じような論文がないかは常々チェックしている」
「じゃあ……」
どういうことなんだ。アキラさんの論文が盗まれた? しかし、まだ書いている途中だということだが。
「個の機械でデータを送ったといっただろう? そのデータの中にこの書きかけの論文も含まれていた」
「……つまり?」
「その論文の発表された日付を見てみなさい」
そう言ってタブレットを指差す。
あの教授の論文の発表された日付は三年前になっている。
しかし、未だに要領を得ない。
困っている僕にアキラさんは優しく答えを教えてくれた。
「この機械は、過去にデータを送れるのだよ」
アキラさんは声高らかにそう言った。
「アキラさん……、今日は帰ってゆっくり休んだ方が……」
過去にデータを送ったといわれても信じられるわけがない。どう考えてもアキラさんが同じような論文を書いてしまったと考えるほうが自然だろう。
僕の言葉を聴くとアキラさんは急に不機嫌な表情をした。が、気を取り直して言葉を続けた。
「まあ、確かに信じられないのも無理もない。そして、これは証明もできないのだからな。しかし! しかし、今は取りあえず信じて聴いてくれ」
「アキラさん、目の下の隈ひどいですよ。ちゃんと寝てますか?」
「ええい!」
強烈なでこぴんを食らわされた。
「すいません、聴きます」
ここは刺激せずに従った方がいいだろう。
「私は断じて狂ってなんかいないし、私があの教授の論文をまねしたわけでもない。あの教授のことは研究分野が似ているから前々から知っていたし。論文もチェックしていた」
「そう言われましても」
それを証明できなければいくらアキラさんの言葉でも、おいそれと信じることはできない。
「残念ながら、これは証明できない。なにせ過去を書き換えたんだからな」
僕はただ唖然とするしかなかった。
「私が論文のデータを送り、どう言った形ではわからないが、あの教授がデータを受け取った。その時点から現在に至る過去が変えられたんだよ。教授がデータを受け取らなかった世界から、受け取った世界へ」
「つまり、二週間ほど前にアキラさんがデータを送った瞬間に世界は変わったと? 何も気づきませんでしたけど」
「そうだ。ただ、世界がシフトしたのに気づいたのは今日だ」
ふむ、荒唐無稽としかいいようがない。
アキラさんのその熱い口ぶりから、本気で世界が変わったと信じているようだ。あの利発で冷静なアキラさんらしくない。
「じゃあ、元の世界はどうなったんですか? 二つ存在することに? それとも消滅?」
「さあね、でもそんなことはどうでもいいんだ。世界がいくつあろうと私達は認識できないのだから。世界とは認識だ。私にとっての世界とは、私が見て感じることのできる全てで、君の場合もそう。ただ私の世界と君の世界は違うんだよ。今この瞬間だって」
「はあ……」
いまいち飲み込めない僕にアキラさんはさらに、
「今、ここに君のクローンを作ったとしよう。クローンといっても中身も記憶も全て同じだ。全く同じ君が二人いようと、同じ場所に存在することは出来ない。見る景色が違えば感じる何かも違う。君が二人存在した時点で、それは同じではなく違う君なんだよ。もう一人の君の見ているものや、考えていることなんて当然分からない。認識は一つなんだよ」
「それじゃあ、おかしくないですか? アキラさんは二つの世界を認識したことになるんじゃ……」
「あくまで、今現在、認識できる世界はひとつということだ。今は、君も私も同じ座標の世界を認識しているが、教授がデータを受け取ったのが三年前だとすると、君の認識――記憶は教授がデータを受け取った世界の記憶がるが、私は送ってない世界の三年間の記憶があるのだよ」
「はあ……、じゃあ何か食い違いいがあるかもしれないってことですか? そもそもなんでアキラさんだけ?」
「その食い違いこそ、あの論文だよ。あの論文は私が書いたと、認識している。が、世界の認識は教授が書いたことになっている。……世界が変わったというより、私だけがシフトしてきたという方が正しいかな。後の問いだが、そこまではわからない。この論文の存在が私しか知らなかったかもしれない。または、この機械が放出する何かに影響されてか……」
普段なら聡明なアキラさんに向かって反論することなどできないが、今日、この場では言わせてもらおう。
「アキラさん、この装置でデータを送った時に、意識が途切れたりするなんてことはありました?」
「いや、なかったと思う」
「それは。おかしいんじゃないですか? この書き換えられた世界と、元の世界はほとんど同じといえど違うものでしょう? それなら書き換えられた時、アキラさんがこの世界を認識した時に、アキラさんがこの世界でも同じ場所にいるのはおかしくないですか? アキラさんが物理的に移動してきたってことなら別ですけど」
「ふむ……、物理的な移動はない、と思うな。私が二人存在してしまうことになる。だとしたら、私の行動を変えるほどの影響がなかったということかな」
「バタフライエフェクトって知ってます?」
「蝶の羽ばたきが巡り巡って竜巻になるっていうカオス理論でしょ」
「そう、その例は大げさですけど、送ったデータはアキラさんのものだし、受け取った教授もアキラさんの知っている人物。そしてアキラさんはその教授の論文なんかチェックしてるって言いましたよね。だとしたら、この世界のアキラさんはその論文のことを知っていたことになり、十分な影響を受けることになるんじゃないですか?」
「なるほど……」
アキラさんは顎に手を当てて考え込んでいる。
もしかしてアキラさんは僕を試している、というより僕で遊んでいるのだろうか。
こんな、思考実験じみたことを考えだし、僕とのディベートを楽しんでいる……。
いや、違うな。あの喜びや怒りは本物だった。
徐にアキラさんは指を弾いた。
「答えは出ました?」
「いや、答えなどないのだよ。今、此処にあるものが全てだ。過去は証明できない」
それは卑怯ですよ。
「それが、答えですか……」
「だから、答えなどないんだよ。シフトした三年前から今に至る私の行動を証明するものなど何処にもない」
「僕は覚えていますよ。アキラさんに出会ってからのこの世界を」
「だが証明はできない。過去、記憶なんてものは証明できないんだ。世界が五分前に存在したとしても何も不思議はないんだよ」
「ラッセル……」
世界五分前仮説。確かにそうだが、屁理屈と言えば屁理屈だ。
「シフトした世界で大事なのは、それまでの自分じゃない。今、確かに此処にいる自分だけだ」
「アキラさんの言いたいことは分かりました。まあ、理解もできます。しかし、納得は出来ませんね。信じるに値する何かが足りないですよ」
「まあ、そうだろう。私だって信じない」
アキラさんはしれっとそんな事を言う。いままでの論争はなんだったのか。
「そう、言葉をいくらこねくり回したところで、所詮言葉でしかない。大切なのは実感だよ」
「……というと?」
「キララもシフトを実感してみればいい」
家路に着き、
『じゃあ、データで送れて、何か世界を変えそうなものよろしく』
とのアキラさんの指令に頭を悩ますこと五分。部屋の片隅に立てかけてあるアコースティックギターに目が行った。
「これで、いいか」
と、適当な結論を出し、パラレルワールド? のことなど頭の隅へと追いやった。
そして翌日、夜。
みんなが帰宅した後に実験は開始された。
「それで、何を送るの? まあ、なんとなく察しは着くけど」
僕はアコースティックギターを携えていた。
「御察しの通りです」
僕は趣味でギターを弾いている。昔はバンドを組んでいたが、今は一人でまったり弾き語りをしたり、気まぐれで曲を作ってみたりしている。
そこで、アキラさんに言われたデータだが、最近作った曲を送ることにした。
人前で披露したことはないし、ネットにも上げていない。僕の頭にしかない唯一のものだ。
「オリジナル曲?」
「ええ」
「以前、バンドでやってた曲ではないだろうね?」
「いえ、それじゃ知ってる人が少しはいますからね。最近作ったものですよ」
「よろしい。それにしても、君の歌が世界を変えるか」
にやにやと笑いながらアキラさんはからかうように言った。
「別にそんなつもりじゃありませんよ」
軽くいなしてギターのチューニングを始めた。
アキラさんも何処からかマイクを持ちだしてきて例の機械に取り付けていた。準備は物の数分で終わり、あとは歌うだけである。
「本番の前に、一曲歌ってもらおうか」
「……録音するんですか?」
アキラさんの手には録音モードになったスマートフォンが握られていた。
「もしかしたら、歌い始めたその瞬間に世界がシフトするかもしれないでしょ。だから予め聴いておかないと。録音は念のため」
「まあ、いいですけど。……では」
そして僕は歌い始めた。
ブルース風で、ゆったりした曲調。
歌うこと約三分、アキラさんは微動だにせずスマートフォンを僕の方に差し出していた。
歌い終わり、『これで終わりです』と視線でアキラさんに訴える。
「うん、おつかれ。それにしても、哲学的というか、よくわからない歌だね」
「愛や希望を歌うよりはいいでしょう?」
「うん、もっともだ」
アキラさんは、愛だ、恋だの希望だの、そういったことを歌う曲が嫌いだ。音楽だけでなく映画、小説もしかりだ。しかし、彼女いわく、決して恋愛要素が嫌いというわけではなく、それに焦点を当てることで、本来持つ美しさを消し去ってしまっているらしい。
まあ、なんとなく理解できる。
「さ、次は本番だよ」
スマートフォンはポケットにしまわれ、次はマイクを向けられた。
「では……」
大きく息を吸って、もう一度歌う。
この歌が時空を超えて過去のだれかへ届く? 未だにそんなことは到底信じられないが、できることなら届いて欲しい。そうすれば僕の頭の中で眠っていたこの曲も浮かばれることだろう。
歌い終え、ギターを脇に置いた。
「おつかれさま」
アキラさんは上機嫌でねぎらいの言葉をかけてくれた。
「いえ、御清聴ありがとうございます」
こうして、僕とアキラさんの共同実験はものの十数分で終了した
それから、二週間世界は何も変わらず静かに、確かに流れて行った。
実験が終わって数日は、今か今かと世界が変わるのを待ちわびていたアキラさん、今や半ば諦めてしまったのか、ぶすっとした表情でいることが多い。
今日もアキラさんはつまらなそうにパソコンの前に座っていた。
「あれ、キララ何してんの?」
研究室に僕が入るなりアキラさんは顔を上げてそう言った。
「いえ、ちょっと」
アキラさんがそういうのも、今日は土曜日だからだ。時刻はお昼過ぎ。
「暇な奴だな」
「アキラさんはお忙しいですか?」
「うーん、忙しいわけでもないけど、暇でもない」
僕は意を決して言った。
「それなら、一緒に出かけませんか? ちょうどイベントもやってますし」
「イベント?」
「学園祭ですよ」
この研究室がある工学部と、それ以外の学部ではキャンパスが別々になっている。学園祭は毎年そのもう一つのキャンパスで行われる。
「ああ、そんな時期か……、うーん、でもパス。人ごみは嫌い」
それぐらいじゃ、僕は諦めない。
「俺も人ごみはあまり得意じゃないですけど、いいじゃないですか、たまには賑やかな雰囲気も味わいましょうよ」
「うーん……」
「実験に協力したじゃないですか」
「うむう……」
「ちょうど昼食の時間ですし」
「ああわかった。行くよ、ちょっと待ってて」
僕の迫力に負けたのか、ようやく折れてくれた。
もう一つのキャンパスは少し離れた所にあり、自転車で約十五分だ。
その道中、アキラさんと仲良くサイクリングを期待していたが。僕の乗る折り畳み自転車に比べて、アキラさんはロードバイク。その性能差も考えずアキラさんは自分のペースで漕ぐものだから着いていくのがやっとだった。
結局、目的地には五分で着き、会話する余裕などなかった。
既に溢れかえっている駐輪場に自転車を止める。
行きの荒い僕に比べてアキラさんは涼しげだ。バイト台を貯めて同じロードバイクを買おうと決意した。
「うわあ……」
大学の敷地内に足を踏み入れてすぐにアキラさんは顔をしかめた。
僕でも、うんざりするほどの人の多さだった。
「取りあえず何か食べましょうか」
既にぐったりしているアキラさんは首だけで頷いた。
焼きそば、唐揚げなどといった学園祭定番の食べ物をいくつか買ったあと、人ごみに酔ったアキラさんを想って人気のない場所に移動して昼食にした。
今にも帰りたそうなアキラさんと少しでも一緒に居るべく、何か面白い催しはないかとプログラムを見つめた。
様々なサークル、部活の展示物。演劇、バンド演奏。アキラさんの興味を引きそうなものはこれと言ってなかった。
「さて、帰ろうか」
食料を食いつくしたアキラさんはそう言って立ち上がった。
「ええ、もうちょっと――」その時、目に飛び込んできたのは野外ステージのイベント「ほら、今人気の歌手が来てるみたいですよ。せめてこれだけ見て帰りましょうよ」
「ええ……」
明らかに嫌そうな顔。これ以上人ごみには混ざりたくないようだ。
「遠目からでいいですから」
それでも、その場を動かないアキラさんの手を取って強引に野外ステージの方へ歩き出す。我ながら大胆な行動に出たものだ。
野外ステージは予想通り、人であふれていた。とても近づけたものではない。
僕等は人だかりの最後尾に陣取りイベントが始まるのを待った。
「で、誰が出るんだ?」
アキラさんの問いにすかさずプログラムを確認する。
「えーと、今話題、今年二十歳のシンガーソングライター、美川カナデ。とのことです」
「ふーん、知らないなあ。キララは知ってるのか?」
「いえ、俺も初めてききました」
「まあ、たかだか学園祭だからな。そんなに有名ではないんだろう」
アキラさんのその言葉に僕は異論を唱える。
「いえ、毎回アーティストやバンドを呼んでるんですけど、毎年結構有名どころが来てますよ」
「今年はお金がなかったのかな」
「そんなことはないと思うんですけど」
そんな事を離している間に、ステージに例の美川カナデが現れ、大きな歓声と拍手が上がった。それは凄まじいほどで、とても無名なアーティストを前にする反応ではなかった。
簡単な自己紹介を終え、ギターを手にとり彼女は歌い出す。
曲中もその盛り上がりは凄いもので、オーディエンスは手を振り上げ、テンポに合わせて飛び跳ねている。
それは僕等がいる最後尾の方まで伝播し、のっていないのは僕とアキラさんだけではないか、というぐらいだ。
しかしアキラさんは周りに流され飛び跳ねることはなく、冷静にステージを見つめていた。
数曲歌い終え、MCを挟み、また数曲。
そして、
『次で最後の曲です』
彼女がそういうと、周りからはこの世の終わりかというような、残念がる声。
『今日はありがとうございました。それでは最後に私のデビュー曲、ブルー、聴いてください』
そして、最後の曲が始まる。
しんみりとしたイントロから曲は始まった。オーディエンスはそれに合わせ体を横に揺らす。
しかし、アキラさんは微動だにしない。
そんなアキラさんも、彼女が歌い始めるとじっとしてはいられなかった。
「なっ!」
アキラさんは驚きの表情を浮かべ絶句した。
僕も驚きで、金縛りにあったように体が硬直した。
それは、僕が創ったあの曲だった。
僕等は人気のないサークル棟へ移動し、緊急会議を開いていた。
「さて、世界がシフトした感想はどうだ?」
アキラさんは椅子に座って、にやにやと意地の悪い笑みを浮かべ、床に結わる僕を見下ろしている。
「……ただ、ただ驚いてますよ」
「これで信じただろう?」
「ええ、疑ってすいませんでした」
「世界はシフトした!」
アキラさんは高らかに宣言した。
アキラさんのこんな大きな声は初めて聞いたかもしれない。
「これも、俺が学園祭に誘ったからですね」
「うっ」
「そうじゃなかったら、気付かないままだったかもしれませんね。アキラさん、あまり音楽聴かないですし」
「……ふん」
あ、機嫌を害してしまった。
慌てて話題をそらした。
「一応、本当にあの曲か確かめてみましょうよ」
「ん、ああ、そうだな」そう言うと、アキラさんは徐にスマホを取り出した。「誰だっけ? さっきの」
「美川カナデ、です」
「ふむ」
アキラさんはすぐさま、例の曲の動画を探しだし再生した。
前奏、や間奏は違うが――というより僕の方の曲は元々そのへんは適当だった、そのメロディ、歌詞は同じものだった。創った僕が言うのだから間違いない。
「同じ、ですね」
「よし、一応もう一回歌ってみろ」
「え? いいですけど」
ちょうどその部屋にはアコースティックギターがあった。なにせ、この部屋は僕が所属していたバンドサークルの部室だからだ。
その曲を歌うのは、あの日、夜の実験室で歌って以来だった。
それでも覚えているもので淀みなく歌うことができた。
歌い終えると同時に、部屋の扉が静に開き、マスクを着け帽子をかぶった怪しい人物が顔を覗かせた。
僕と先輩はいきなりの闖入者に言葉を失った。
「あ、いきなりすいません」
闖入者はそう言った。その声はどこかで、いや、ついさっき聞いた声だった。
「私の曲が聴こえてきたから、つい、嬉しくて……」
彼女――美川カナデはマスクと帽子を取り、恥ずかしそうな顔を見せた。
「君、なんでこんな所に?」
アキラさん自身は知らないにしても、先ほどまで大声援を受けていた有名人に、君呼ばわりはないだろう。しかし、そんな所も素敵だ。
「えーと、出番終わったのでちょっと大学構内を見て回ろうとおもって。でも、そんなに目立てないから、自然とこんな人気のない所に」
「見ての通り、ただの寂れたサークル棟ですよ」
言葉通り、見ていて楽しいものなんて特にあるとは思えない。
「いえいえ、私、大学生活ってのに少し憧れてたんです。だからどんなところでも新鮮です。それに、私の歌を、歌ってくれている人に出会えて嬉しいです」
彼女は僕を見つめてそんな台詞を吐くものだから、気恥ずかしくなって目をそらす。
「曲は、全部君が作ってるの?」
何の脈絡もないアキラさんの質問に、彼女は律儀に答えてくれた。
「はい、作詞作曲は私です。ただ、アレンジとかは別ですけど」
「じゃあ、あの、なんだっけ、最後の曲も?」
「ブルーですか? はい、あれもそうです」
アキラさんの失礼ともいえる問いかけに嫌な顔せず答えてくれる美川カナデ。
「あ、でも」
「ん?」
「いえ、何でもないです」
美川さんが何やら言い淀んでいる。
「いいから、何?」
「……笑わないでくださいね?」
「はいはい」
「信じられないかもしれないけど……」
「いいから」
明らかにいらついているアキラさん。いつの間にか足を組み、腕組みまでしている。なんという横柄な態度だ。
「……あの曲、ブルーはデビュー曲なんですけど。あの曲は、ある日夢で聴こえてきたんです」
「夢?」
「はい、寝ているときに見るあの夢です。これを話すと、イエスタデイかって、からかわれて、あまり信じてもらえないんです」
「ほほう、どんな風な夢を見たの?」
アキラさんの眼光が鋭く光る。
「夢なんで、曖昧なんですけど、確か、夢と言っても映像はなくあの曲だけが聞こえてきました。メロディと歌詞がそのまま聴こえてきました。目が覚めて、忘れないように書きとめようと思ったんですけど、そうするまでもなく、その曲は頭に焼き付いて離れませんでした」
「なるほどねえ」
アキラさんは今や顎に手を当てて何やら考え込んでいる。
「だから、私が作ったとは、あまりいえないかもしれません。せいぜいタイトルぐらいで……」
「その、夢で聴いた曲。歌以外に、何か楽器は聴こえた? 声はどんな声だった?」
更に掘り下げて質問するアキラさんに、美川さんは戸惑いを隠せないでいる。まさか、信じてもらえるなんて思っていなかったのだろう。
「ええと……、ギターが響いてたような気がします。声は、覚えてないです」
「最後に、それはいつ?」
「三年前、ぐらいですね」
「ふむ、ありがとう」
事情聴取を終えたアキラさんは満足そうにうなずき、質問の意図がつかめない美川さんは首をかしげた。
美川カナデと別れた僕等は工学部キャンパスに戻っていた。
そして現在、例の装置の前にいる。この巨大な装置を目にするのはあの実験の日以来だ。
アキラさんは上機嫌で装置を撫でまわしている。
「これで証明された!」
そう言って僕の方に向き直り、同意を求める。
「そう、ですね」
目の当たりにしては認めざるを得ない。
美川カナデ。二年前に例の曲、ブルーでデビュー。しかし、あまりメディアに出ることはなく、細々と活動していた。一年ほど前、ラジオをきっかけに口コミで広がり、夏のフェス出演時にメディアに取り上げられ、瞬く間に彼女の名が広まっていった。らしい。その後、何度かテレビ出演も果たしたらしいが、僕は全く知らない。
今日まで彼女の存在は知らなかった。もちろん彼女の曲は一度も聴いたことが無い。しかし、彼女のデビュー曲を歌うことができる。なぜなら、僕が作った曲だから。
「そう、証明された。世界のシフト、そして私が狂ってはいないということが。……ただ――」
アキラさんのテンションが急降下した。
「ただ、なんです?」
「証明できたのは、君に対してだけだ。その他の人には何も証明できるものはない」
「まあ、確かに。狂人が一人増えただけですね」
狂人とは僕の事。
「いや、しかし、しかしだ! 言いかえれば、私と君とキララだけがこの世界の真実を知っているということだ」
「真実?」
「この世界がオリジナルではないということ。皆、作りかえられたということに気付かず、のうのうと過ごしているのだ」
かくいう僕等も実験した日から今日まで気づかずに過ごしていたわけだが。
いや、しかし、それもわからないのだ。世界がいつシフトしたかなんて僕等もわからないのだ。今日、運よく彼女、美川カナデに出逢い、シフトしたことに気付いたが。それまでは全く気付かなかった。なんら変わらない日常だった。
「確かに世界は変わりました。でも具体的に何が変わったんでしょうね」
「具体的にか……、それはわからないな。今日、彼女のもとに集まった人々、本来ならいなかったであろう場所に集った。少なからずあれだけの人の行動を変えたのだ。君の歌は世界を変えたのだよ」
その文字通り僕の歌は世界を変えた。しかし、なんとも恥ずかしい響きだ。
「メディアにも出てるみたいですし、先輩の論文よりは影響ありそうですね」
「何? 私の論文が誰の目にもとまらないくだらないものだって?」
「そんなこといってないですよ、確か製品化されたんですよね」
「……ああ、そうだっけ。そっちの方がすごいね、うん」
以外に負けず嫌いな所があるようだ。
「まだ、これで何かするんですか?」
目の前の巨大な装置に目を移して僕は呟く。
「もちろんだとも、次なる課題は制御だ。送れる時間、また、誰に送るか。それができるようになれば凄いとは思わないか? 気づかれずに世界が征服できそうじゃないか」
「世界征服……」
そう言った先輩の声は本気そのものだった。悪いいたずらを想いつ多様な子供のような笑顔は、僕にとってはとても魅力的だが、僕以外の全人類にとっては悪魔の笑みだろう。
「協力してもらうよ?」
正義か悪か、客観的に見たらアキラさんの行動は明らかに後者だろう。なにせ勝手に世界をいじくっているのだから。人の生死すら関与しているかもしれない。アキラさんも当然気づいていることだろう。
だけど、どうやらアキラさんには教科書通りの倫理観など持ち合わせていないようだ。そこが素敵だ。倫理なんかより僕はアキラさんを優先する。
いつか、正義のヒーローが現れて僕等を殺すだろうか。いいや、そんなものは子供の心の中にしかいないのだから。
「ええ、何処までもお供します」
そう答えるとアキラさんはシニカルな笑みを浮かべる。なんて悪そうで、魅力的な笑顔だ。
ふと、中島みゆきの歌を思い出し、心の中で反芻する。
アキラさんが笑ってくれるなら僕は悪にでもなろう。
最後まで読んでくださった方、
ありがとうございました(-"-)