55 一年
――――1年。
一般的な理系大学生は、この期間内に卒論を完成させる。
人生初の本格的な研究――それは、人間としてひと皮もふた皮も剥ける絶好の機会。人生における、大いなる成長の舞台と言えよう。
しかしながら、卒論に取り組んだ学生の、ほぼ全員が思うことがある。
――「もっと、時間が欲しい」……と。
習熟した者ならば、1年間の綿密な青写真を用意し、計画通りに就職活動と両立させながら実験を成功させ、卒論を完成、就職して行くことだろう。だが、そうトントン拍子に上手く行く者などごくごく少数。大抵の者は、必ずどこかで予期せぬ事態が待ち受けており、独りでてんやわんやになるのだ。
時間など気にせず、悠々自適にできたなら――と、卒研生なら誰しも考える。
それは卒研生だけではなく、殆どの研究者も思っていることだ。
研究者はそれに加えて、科研費の申請、共同研究企業からのプレッシャー、学会発表など、様々な煩わしい諸々がつきまとう。
他のことは何も気にせず、ただひたすら研究に集中できたなら――とは、研究者の理想である。
時間制限も、煩わしい諸々もない、誰もが憧れる理想の研究生活。
そんな生活は、異世界であっても、夢物語なのかもしれない。
「――おらァッ!!」
雄叫びと共に、システィは鉄の棒を振り下ろした。
その先には、10センチ四方ほどの小さな一枚の板。
板の下の岩に鉄の棒が当たり、ガキンッと大きな音が響いた。
「手応えあり、だぜ」
システィはそう言いながら鉄の棒を持ち上げ、地面にぼとりと放り投げると、岩の上を覗き込む。
板は、見るも無残に砕け散っていた。
「…………失敗ね」
横で一部始終を観察していたリーシェが、そう呟いて腕を組んだ。
「ダイヤモンドは硬いけれど、脆すぎるわ……」
腕を解き、また腕を組みと、思考の海に潜るリーシェ。
ダイヤモンド――。
ここ数日で、リーシェが目をつけた物質である。
絶対的な防御魔術について研究しているリーシェは、ソラから科学を学んでいる中で、ダイヤモンドの硬度に着目した。
魔術で硬度の高いダイヤモンド板を生成することで、あらゆる物理攻撃を防げる盾になるのではないか――そう発想し、強度テストを試みたのだ。
「まあ、元気出せよ。そんなもん、魔術で作れる時点ですげぇぞ」
ダイヤモンド板がバラバラになり、落ち込んでいるリーシェを気遣って、システィがそう慰める。
「……このダイヤモンド板一枚で、私の魔力の殆どを使ったわ。今日はもう何もできないのよ」
「…………マジか。そりゃあ、お気の毒」
「はぁ……あなたも、毎回付き合わせて悪いわね」
「いや、あたしも研究は上手くいってないしな。気持ちは分かるぜ」
リーシェはこの1年で、ダイヤモンド板だけではなく、鉄板や、アルミニウム板など、様々な板の強度テストを行い、そのことごとくを失敗している。鉄板はある程度有効だということが分かったが、“絶対”防御と言うには程遠いものであった。
防御板を生成して攻撃を防ぐという考えを改めた方が良いかもしれない――その気付きと、最後の砦であったダイヤモンド。いよいよ、リーシェは新たな発想を得なければならなくなってしまった。
「そう言えば……あなた、その後の進捗はどうなっているの?」
話題を変えるようにリーシェがそう聞くと、システィは眉をぴくりと動かして、こう返した。
「聞きたいか?」
「…………一応、聞いておくわ」
「100メートルを5秒で走れるようになったぜ」
「……いえ、そういうことではなく」
「……ああ。身体強化のやり方は、やっぱり全然分からん。こりゃもう、感覚としか言えねぇ」
「そう。兄さんががっかりするわね……」
システィの研究――身体強化魔術。システィはその基礎を、既に実現させていた。
筋力を魔力によって直接的に強化するところから始め、現在では魔力による運動機能の補助的な作用を見出すなど、より具体的に用いるに至っている。
しかし恐ろしいことに、システィはその全てを感覚のみでやってのけているのだ。よって、肝心の魔術は、現時点で扱える者はシスティただ一人。そして、その機構は全く明らかでない。
これがどういうことか――つまるところ、研究という観点から見て、一歩も進んでいないのと同義なのである。
「カンファレンスでもろくな発表ができねぇよ。なんか……感覚を言葉にできないってーの? やっぱり、あたしの知識不足のせいでうまく説明できん」
「でも……明確な形がある分、私よりはマシよ」
「かもなァ」
傷を舐め合う二人。
――残念ながら、1年という長い長い時間で、彼女たちは大した研究成果をあげることができていなかった。
ただ。研究成果の一点においてはそう認めざるを得ないが、それを補う程の成長があったことも明記しておかねばならないだろう。
先ずはリーシェ。彼女は、ソラから科学をこれでもかと吸収し、理科の知識は地球における高校生程度にまで至った。未だ理解の難しい分野はあれども、科学の基礎は備わったと言ってもよいだろう。また、長きに渡り悪戦苦闘していたアブレシブジェット魔術は、研磨剤としてダイヤモンドの粉末を混ぜ込むという手法で解決に向かった。科学の知識を得たことによって、研磨剤の物質の具体的なイメージをし易くなったのが突破口であったようだ。だが、ダイヤモンドの粉末を生成する際に魔力を消費し過ぎるのが難点であり、改良の余地はまだあると本人は云う。
次に、システィ。彼女は先述の通り、身体強化魔術を見事に体現した。どの様にして扱っているのかは本人でさえ謎なのだが、身体強化魔術の存在は、100メートルを5秒で走れるなどという超人的な運動能力を見れば、紛れもない事実だと一目瞭然である。またそれは脚力だけでなく、リンゴを軽々と握り潰したり、大きな岩を持ち上げたりと、とどまるところを知らない。
加えて、ネガロにも触れておこう。彼女は、1年の殆どを予言魔術の解読に費やした。ソラとの約束であるタイムリミットまでは、あと8ヶ月も残されていないのだが――その進捗はあまり良いものではなかった。
巻物に記されている呪文のような記号の羅列は、言わば『プログラミング言語』。コンピュータプログラムの概念さえない世界の住人が、プログラミング言語を何の情報も無く訳せと言われたら、一体どれだけの月日がかかるのか。
困難を極める中、ネガロは何とかして法則性を見つけ出そうと足掻いた。始点や終点、各部位ごとの意味合いなど、パズルのピースを一つ一つ調べて配置するように、じっくりと時間をかけて解読していった。
――1年の時間をかけて、これと言って解読できたことはない。しかし、着実に、ゆっくりではあるが、解読への道を歩んでいた。
全くもって、前途多難なネガロであった。
「――となりまして、ダイヤモンドは盾には適さないと分かりました」
二階カンファレンスルームにて、5人が円卓を囲み、毎週恒例の研究会が行われていた。
経過の発表をするリーシェは、一人離れた席に座っている。
システィは腕を組んで熱心に、ネガロは顎に手をやり興味深げに、ソラはメモをとりながら聞いており、ミトはソラの膝の上に鎮座ましましていた。数カ月前からソラの膝の上がミトの定位置と化しており、度々リーシェが引き剥がそうとするも「ここは譲らない」とばかりに頑として動かずにいる。すっかり、ソラに懐いてしまったようだ。
「はい、兄さん」
ソラが挙手したので、リーシェはそう言って、メモを用意した。ソラが挙手する場合は、質問よりアドバイスの方が多いのだ。
「ダイヤモンドを研磨剤として使う場合なんだけど、これは鉄と反応し易いから気をつけて。鉄を切断したい時は、立方晶窒化ホウ素みたいな研磨剤がいいと思う」
「なるほど、分かりました。ええと、りっぽうしょー……」
「立方晶窒化ホウ素、だよ。後で構造を教えるね」
「ありがとうございます」
ふわりとお辞儀をするリーシェ。暫し待ち、他に質問等がないか確認した後、「以上です」と言って発表を終えた。
「うん、お疲れ様。来週は……僕か。何か準備しとかないと」
そう言って、ミトを膝から下ろすソラ。それを見て、システィは椅子から立ち上がった。ソラが膝からミトを下ろすことは、最近ではカンファレンス終了の合図となりつつある。
そんな解散ムードの中、ネガロが「ちょっといいか?」と皆を呼び止めた。
「どうしました?」
「みんな忘れているだろうが……昨日で、君たちがここに来て一周年だ。夜に宴会など開こうと思うが、どうだろう?」
ネガロの言に、ソラは「あっ、そう言えば」とリアクション。リーシェとシスティは「言われてみれば確かに」といった顔をしている。
「宴会ですか、良いですね! 覚えていていただいて、ありがとうございます。そしたら僕は、早速宴会の買い出しに行って来ます!」
ソラは宴会と聞き、嬉々として買い出しに出かけた。
「ソラ君は行動が早いと言うか、忙しないと言うか……」
若干呆れ気味に呟くネガロ。だが、その顔には笑みが浮かんでいた。内心、宴会が楽しみなようだ。研究研究の毎日であったので、こういったイベントはいやがうえにも気分が高揚する。リーシェもシスティも、ミトでさえ、いつもよりほんの少しだけ浮かれている様子である。
そんなこんなで、夜の宴会を楽しみに、各自研究に戻って行った。
「――御免!」
夕刻。
研究施設に、玄関の扉をゴンゴンと叩く音と、男の声が響いた。
「ルッコ教授はおられるか!」
ネガロを訪ねて来た様子である。
駆けつけたネガロが扉を開けると、そこには1人の紳士風の男と、2人の騎士風の男が立っていた。
「何の用だ?」
ネガロが訝しげにそう尋ねると、髭を蓄えた紳士風の男が、口を開いた。
「我々はエクン王国より遣わされた者である。ここいらの近隣から苦情が来ていてな。何かの鉄器をぶつけ合ったような大きな音や、砂埃や、振動が、ここのところ毎日らしいではないか。一体何をしているのか、説明してもらってもよろしいだろうか」
エクン王国の者だと言うその男。確かに、後ろに従えている騎士2人の装備には、エクン王国騎士団のエンブエレムが刻まれている。
「……なるほど、そういうことか。分かった、中へ入れ」
ネガロは追い返しては逆効果だと思い、一階の共有スペースへとその3人を案内した。
男は共有スペースの椅子に腰掛けると、騎士たちはその後ろに並び立った。その様子を見て、この男は結構な身分かもしれないと推測するネガロ。紅茶を2人分用意して机に置き、男の対面の椅子に座ると、弁明を始めた。
「騒音や砂埃や振動についてだが……研究上仕方のないことと理解してもらうよりない。魔術の発展のため、ひいてはこの国の発展のため、必要なことなのだ。場合によっては、金銭での解決も辞さない」
それは弁明と言うよりは、開き直りであった。
ネガロの言い分を聞いて、男はこう返した。
「ふむ……では、どの様な研究をなされているか、確認してもよろしいか?」
「それは、どういった……?」
「なに、施設を見て回らせてもらえればいい」
「ううむ……」
男の要求に、ネガロは即答しかねた。何故なら、この施設にはネガロの研究資料だけでなく、ソラたちの研究資料も存在するからだ。
そして、何より――ミトの存在を知られたくなかった。
ネガロはミトに「来客の際は身を隠せ」と言い聞かせてあるが、この広い研究施設の、それこそ三階にでも居た場合には、ミトが来客に気がついていない可能性もある。
どうすべきか――ネガロは悩んだ。
「何か、秘匿したいことでもあるのかね? 王国に対して不利益なことをしているわけでもあるまい?」
男が急かす。この男は、端っからネガロが謀反を企てているのではないかと疑って、視察に来たのだ。何故ならば、今まで攻撃的な魔術の研究は特に行っていなかったネガロが、国に何の報告もなしにドンパチ賑やかにやり出したからである。特にここ1ヶ月程はリーシェとシスティの研究も激化しており、際立って賑やかだったため、いよいよ視察が来てしまった。
「……分かった。私が案内しよう」
「是非、頼もう」
ネガロは諦めて、一階から案内を始めた。
――自分の研究室に招き入れ、これは呪文で、これをこうするとこうなってと渋々解説する。予言魔術の巻物について言及された際には、呪文化して失敗した下級魔術だと誤魔化し、それ以上追求されることもなかった。眼鏡が上手いことにネガロのポーカーフェイスを補助していた。
二階の実験ホールを案内している際、抜刀術の練習をするシスティと対面してしまった。ネガロはシスティを助手の一人だと紹介したが、システィのあまりに鬼気迫る眼光に、視察の男は怪しんだに違いない。
三階、リーシェは自室に居た。彼女も助手だと紹介するネガロ。何の感情もこもっていない目でお辞儀するリーシェ。やはり視察の男は怪しんでいる様子だ。
そして最後に、ソラの自室。そこには――ミトが居た。
隠れたつもりだったのか、はたまた気がつかなかったのか、ミトはそこで数学の研究をしていた。
「これは、子供か? 何故子供がここにいる? それに、何という格好だ……」
ネガロはそう問われて、困ってしまった。
妹の存在は、今まで王国には隠して来た。予期できる厄介事を避けるためである。
「この子は……そう、街で拾ったんだ。肌に火傷をしていて、それで、可哀想だから服を着せて隠してやった。今はここにおいているが、いつか孤児院に連れて行く」
「なるほど……ん?」
ネガロの苦し紛れの言い訳を聞きながら、視察の男はミトの手の先、紙に書きなぐられているアラビア数字の羅列を覗き見た。
そこには、夥しい量の数式が書き込まれていた。
「これは、何を書いている?」
男は、気になってそう問いかける。
「この子は異国の出身で……私にも分からん言語だ」
「……そうか」
最もらしい嘘、納得しない男。だが、この場はなんとか切り抜けられたようだ。
視察の男は部屋を出ると、階段を降り玄関へと向かった。
「また、明日の朝に伺う」
玄関に到着すると、そうとだけ言い残し、去って行く。
「…………承知した」
ネガロはその背中に返事をし、肩を落とすと、扉を閉めた。
「僕のいない間にそんなことが……」
夜、宴もたけなわといった時に、ネガロが全員に視察の一件を語った。
ソラはそう言うと、暫し思考し、口を開いた。
「……多分、かなり怪しまれてますよね、僕たち。視察という名の監視が暫く続きそうですね……申し訳ないです」
自分のせいでネガロに迷惑をかけてしまったことを情けなく思うソラ。
「いや、君が謝ることじゃない。私の方こそ、窮屈な場所しか提供してやれず、すまない」
ネガロも、ミトの正体を隠していることなど、少なからず責任を感じていた。
「そんな、謝らないでください……暫くほとぼりが冷めるのを待ちましょう」
「ああ、そうだな。悪いが、明日から視察が来る間は、いつものような研究は控えてくれ」
「はい。二人も、分かった?」
ソラの問いかけに、「はい」「おう」と頷く二人。
話もよいところで、皆は宴を再開し、賑やかな宴会へと戻っていった。
ただ一人を除いて。
「――御免。視察の者だ」
翌朝、朝食を終えたあたりにはもう視察団がやって来た。
昨日と同じ紳士風の男が一人に、騎士が二人である。
「本日は、ルッコ教授には普段通りの研究をして頂く。我々は適宜質問するので、答えて頂きたい……ああ、それと。申し遅れたが、私の名前はトーマスと言う」
「……分かった」
ネガロが出迎えるや否や、トーマスと名乗る男はそう言って、ずかずかと上がり込んだ。
相手は国の人間、追い返すわけにもいかないので、ネガロはぐっと堪えて向かい入れる形をとった。
「あれは何をしているのか」
トーマスが指差す先には、リーシェとソラの姿があった。二人は、どうやら科学の授業中のようである。
「彼の知識は豊富だから、彼女に教えているんだ」
「何を教えているのか」
「……科学という学問だ」
「…………ふぅむ」
ネガロは、カンファレンスでのソラやリーシェの発表の中で科学について触れ、1年間知識を蓄えてきた故に、そこそこの科学知識を有していた。それだから分かることだが、予備知識無しで科学の話を聞いても理解できないだろうとの判断である。
トーマスはソラとリーシェに近づくと、聞き耳を立てる。
「――このアレニウスの定義では、プロトンが水溶液中で生じる物質が酸であり、水酸化物イオンならば塩基なのですね」
「うん。その理解でいいけれど、それぞれアレニウス酸、アレニウス塩基だね。ブレンステッド・ローリーの定義と、ルイスの定義と混ざらないように気をつけて」
「はい。確か、ブレンステッド酸は――」
暫く聞いて、全く理解できなかったようで、内容を探ることを諦めたトーマスは、辟易した顔で二人から遠ざかった。
ソラとリーシェは上手い具合に化学用語を使って、内容を悟られないように、且つ、ちゃんとした授業の復習になるように会話していた。
ほっと胸を撫で下ろすネガロ。しかし、まだまだ気は抜けない。
「あれは何をしている?」
次にトーマスが目をつけたのが、ミトであった。
ミトは、ひたすら紙に数式を書き連ねている。とても遊んでいるようには見えないが、彼女にとってはこれが極上の遊戯であった。
「何だ……?」
トーマスはその数式に目を通すも、全く意味が分からない。それもそのはずで、恐らくここにいる全員、ソラでさえその数式の意味は理解に困るものであった。
ミトはソラから与えられた基礎的な数学の知識をもとに、恐るべき成長を遂げた。
ミレニアム懸賞問題――アメリカの某数学研究所によって2000年に発表され、100万ドルの懸賞金がかけられている七つの大難問。そのうちの一つ、ポアンカレ予想が証明されたことは記憶に新しい。
ミトはたった1年で、ミレニアム懸賞問題に挑むレベルにまでに、数学への理解を深めていた。
全て独学。用いている数字はアラビア数字だが、数学記号はオリジナルのものばかりで、ソラが見ても全く読み取れない数式を描く。故に、今ミトが何をやっているのか、分かるものは誰もいない。
神の特別製と言うべきか。神が、数学に特化した脳をミトに与えたもうたとしか考えられない程の才能であった。
「…………」
――その結果。その才能は、全く無知な人間が見ても異常に思えた。
トーマスはミトの作業を暫し見つめた後、ネガロに向き直った。
「では、ルッコ教授も、いつも通り研究を開始して欲しい。我々は我々で視察を続ける」
つまり、見張られていると視察がやりづらいから、自由に動かせてくれということである。
「……すまんな」
ネガロは煩わしく思いつつも、自分の研究に戻った。
トーマスはネガロを見送ると、ミトに視線をやり、にやりと口の端を歪めた。
「突破口は、ここだな」
その呟きは、誰にも聞かれることはなかった。
翌日。
翌々日。
そのまた翌日も、トーマスは朝から晩まで視察に来た。
「……しつけぇな、あいつ」
夕飯の時間、システィが我慢の限界という風に漏らした。
「ええ。あの態度も気に食わないわ」
リーシェも同様だったらしく、同意する。
トーマスが視察に来る限り、いつも通りの研究はできない。故に、研究の進捗があまり良くないこの二人は、苛立ちが募るばかりであった。
「きっとあと数日もしたら満足するさ。ネガロさんに迷惑かけるわけにもいかないし、ここは我慢しよう」
そう言うソラだが、内心は彼女たちと同様、トーマスを煩わしく思っていた。
「気を使わんでもいい……しかし、ここで逆らえば今後更に研究がやりづらくなるに違いない。ソラの言う通り、ここは辛抱だ」
ネガロも、前々からエクン王国の人間に辟易しており、煩わしい気持ちは皆と同じであった。
「――あっ、ミトちゃん? どうしたの?」
そこで突然、ミトが食卓を離れ、何処かへ行ってしまった。
どうしたのだろう――全員がそう思ったが、その理由が分かる者はいなかった。
「――君、話してしまい給え。君が話さないから、皆が迷惑しておるのだぞ」
連日訪れるトーマスは、ミトが一人の時を狙って、そう語りかけ続ける。
「君が、普段の研究について話してくれるだけで、皆が解放されるのだ。逆に言えば、君がここにいるから、皆が我慢を強いられている」
トーマスは、言葉巧みにミトを唆した。
「……ふむ。分かった、我々の負けだ。白状しよう。実は我々の目的は、君の正体の調査なのだ。君が我々に付いて来て、その仮面の下の素顔を見せてくれれば、もうここには来ないと約束しよう」
真っ赤な嘘――しかし、ミトの鉛筆を握る左手の動きは、止まった。
「君が付いて来てくれればそれで全て解決だ。何も心配することはない。皆が迷惑することもない。でも、それを拒むのなら……君のせいで皆が迷惑するのだ。明日も、明後日も、明々後日も、我々は永遠に視察を続ける」
この時、トーマスはミトを連れ帰った後のことを考えていた。拷問して情報を吐かせるもよし。人質に取りネガロを脅して喋らせるもよし。捕らぬ狸の皮算用中であった。
トーマスの目的は――功績。謀反を未然に防いだとあれば、その功績を讃えられる。ネガロに謀反の意思がなかったとしても、状況証拠のみで押し切ろうという魂胆だ。加えてトーマスはエクン王国の役人の中でも上の立場であるため、情報操作はお手の物であった。どういう形であれ、ミトという子供の言があれば、正義の名のもとに反逆児共を成敗し、己の功績とできるのだ。
人は動機・機会・正当化の3つが揃ったとき悪事に手を染めるらしいが、本当の悪人というのは機会さえあればいつでもやってやろうと狙っているものである。今回の一件、トーマスの目には、自分の地位を更に上げるためのチャンスとしか映っていなかった。
「付いて来てくれるかい? もう、皆に迷惑はかけたくないだろう?」
そのトーマスの言葉に、ミトは、鉛筆を紙の上に置いた。
「――ミトが消えた!」
ミトの行方不明をいち早く察知したのは、ネガロであった。
「トーマスもだ! 誘拐に違いない!」
床に放置してあった数式の書かれた紙と、鉛筆。ミトは紙と鉛筆を放って何処かへ行くような子ではないので、ネガロはそこで違和感を覚えたのだ。
「僕、探してきます!」
ソラは慌てて施設を飛び出した。
即座に索敵魔術を展開して、辺りを捜索する。
時刻は夕暮れ、あと1時間もすれば日が暮れて、捜索はより困難になるだろう。
「くそっ……!」
察知できず、焦るソラ。人のいない方へと走り出した。誘拐だとすれば、人ごみは避けるだろうとの考えだ。
結果的に、それは正解だった。
「……! あっちか!」
索敵魔術が3人の男と1人の子供の足音を捉えた。
それは、住宅街を過ぎた奥、人気のない林の方であった。
全力疾走するソラ。この世界で暮らして、かれこれ1年と半年以上。只の理系インドア大学生であった頃よりかは、体力もついている。
「――待てッ!!」
姿を捉え、そう叫ぶ。
しかし――トーマスたちの様子が、おかしかった。
ミトから遠ざかり、後ずさるトーマスと、騎士の2人。ミトの顔は見えない。
「な、なんだこいつは……ッ!」
トーマスは慄きながら、そう叫んだ。
「おい、ミトに何をした!」
ソラはトーマスに向かって、そう言い放つ。
「――――ソラっ! みないでっ!」
ミトの叫び。
共に1年過ごして来て、初めて聞く大声に、ソラはその体の動きを止めた。
「う、うひいっ!」
トーマスは情けない声を出し、ミトとソラに背を向けて走り出し、逃げ去った。騎士たちも、トーマスが逃げ出すと同時に、後を追って走り去った。
残されたのは、逃げ去るトーマスを見つめるミトと、ミトの後ろ姿を見つめるソラの2人。
ソラは、地面に、あるものを見つけた。
それは――ミトの仮面であった。
お読みいただき、ありがとうございます。
一瞬で一年が経ちました。
次回は、ミトの秘密についてです。
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