プロローグ 布団の中で
プロローグはかなりネガティブな展開になっています。飛ばしても多分…大丈夫だと思います。
「今日も…眠れなかった…」
小さな部屋の、畳に敷かれた布団の中で、オレは小声で呟いた。
独り暮らしの安いアパートの部屋で返事をする者はいない。聞こえるのは強い雨の音だけだ。
いつからだっただろうか。こんな雨が降り続くようになったのは。
いつからだっただろうか。オレが眠れなくなったのは。
いつからだっただろうか。オレが独りになったのは。
そんなことばかりを布団の中で永遠と考えていた。
理由は分かっているつもりだ。なんとなく、分かっているつもりなのだけれど、オレの目はパッチリと開き、常に語りかけてくる己の問いかけに答えずにはいられない。
だが、そんな最悪の時間も、もうすぐ終わる。
5秒前…4、3、2…。
ジリリリリリリリリリリーーーーー!!
「1秒…早かったか…」
布団の中から右手を伸ばし、やけにうるさい目覚まし時計を止めた。
只今、午前4時20分。本日は大雨なり。
ちなみにラジオ体操をしたいがためにセットしていた訳ではない。コンビニのバイトが5時からのシフトが入っているのだ。
起き上がり洗面所に向かい顔を洗った。まったくさっぱりしない。なんとなく気分が悪い。
薄汚れた鏡を見ると、ボサボサの髪、大きなクマ、アゴに大量の髭が生えた不審者的なおっさんが写っていた。
「誰だ…コレ…」
洗面台で髪の毛を洗い、髭を剃るとそこそこマシになる。だがこのクマだけは取れなさそうだ。
そのあと冷蔵庫を開け、昨日の残り物のレトルトのカレーを取り出したが、食欲がない…だが食わないと5時間のシフトは乗り切れない。温めずに味合わずに、急いで口にかき込んだ。
目覚まし時計に目をやると、4時37分。微妙な時間だが、行くとするか…。
戸締りをして外へ出ると、雨がアスファルトに当り、激しい音を立てていた。手のひらを屋根の外に出してみると、目で分かるくらいの大きな雨粒が手のひらを叩きつけた。とても痛い雨だ。
ふーっとため息ついたが、遅れる訳にはいかない。
カッパを着て、バイクに乗り、そこから10分間、強い雨に打たれ続けた。
仕事場であるコンビニに着いて自動ドアから入ると、聞き過ぎて嫌いになった、コンビニ独特の音楽が流れた。スタッフが着替えたり出勤登録をする事務所に入ると、オーナーがいびきをかいて寝ていた。起こさないように着替え、出勤登録をして、雑務に入る。朝の仕事は全てオレがやるのだ。
5時を過ぎると、少しずつ作業服をきた客が入ってくるようになる。
「いらっしゃいませ」
正直、微塵も来て欲しくはないが、あいさつしないと怒られる。その後もレジに周ったり、品物を並べたりと、忙しい。そして寝てなかった分、きつい。
「あとタバコ20番ね…ってかさ君、その顔やめてくんねえかな?腹立つから」
「…申し訳ありません」
深々と頭を下げる。オレがどんな顔をしていたのかは分からないが、この客はいつもそう言う。前に言っていたが、このクマと不摂生な濁った目と長い髪とが気に入らないらしい。だったら来るな。
しばらくしてオーナーが起きてきた。寝起きで気分が悪いらしく、今日も顔色の悪さをなんとかしろ、やる気が感じられない、朝から君の顔を見ていると気分が悪くなる、髪を切れ…等様々な愚痴を零されたがこれも仕事だと思って頭を下げるしかない。
「あの…すいませんオーナー。オレ…ボクのシフト、前みたいに増やしてもらえませんか?」
新人のバイトが入ってからというもの、オレは人の入らない朝のシフトしかやらせてもらえなくなった。オーナーに嫌われてるのは自覚しているが、独り暮らしを続けるためには頼み込むしかない。
「はあ?ダメダメ!君、接客態度悪いしこの前もクレーム来たんだよ!?朝しかやらせらんないよ」
「そこを…なんとか…」
「なら他のバイトも探して雇って貰えばいいじゃないか。雇ってやってんだから文句言うなよまったく…おれに言われても困るねぇ」
そこまで言うとさっさと事務所に戻ってしまった。
どんなに頼んでも、人が急に休んだ時しか入れてもらえないのだ。おれに言われても困るって、なら誰に言えばいいんだ…。
「ちょっと、さっきから待ってるんだけど?」
「はい、申し訳…ありません」
そこから5時間。同じような事柄を繰り返し、バイトが終わった。日曜日ということもあり、新人のバイトの子が入ってきた。確か名前は杉原…さん。歳はオレの1個下の女性だ。
「…お、おはようございま…す」
「………」
-無視。今日もいつも通り目も合わせてくれない。別に何をしたわけでもないが、一度も口を利いてはくれない。まあ別にいいのだが。もう一人のバイトのおばさんがレジを変わってくれたので、オレも杉原さんの後に続いて事務所に入り、着替えた。
「………」
「………」
もうオレは慣れたので気まずくもなんともない。だがイライラとした感じがひしひしと伝わるのは嫌だ。なぜクマがあるだけで人はここまで嫌われるのだろうか。
「ではお先に失礼します…」
事件は会議室で起きているんじゃない。事務所で起きてるんだ。
昔、何かの映画でそんな言葉を聞いた気がした。
それはきっと、杉原さんの雨に濡れた靴が、床を濡らしていたから。
それはきっと、オレがその濡れた床を、急いで歩こうとしたから。
それはきっと、杉原さんが雨なのに、スカートを履いていたから。
そのとき、オレが少しでもその可能性を考えておけば-。
オレの靴が床をスルッと滑り、前のめりに転ろび、そして無意識に掴んだ杉原さんのスカートを、オレは脱がしてしまうことなどという大事件は、起こらなかっただろう。
「…あ」
一瞬、永遠とも思える間が出来た。その時のオレは頭の中は真っ白で、なに一つ理解できなかった。
「きゃあああああああああっ!!!」
分からない。
なぜ、杉原さんが叫ぶのか。
なぜ、オーナーとおばさんが事務所のドアを開けて、目を丸くしたのか。
なぜ杉原さんは、泣いておばさんにすがりついたのか。
なぜオレは、オーナーに思いっきり殴られたのか。
なぜ…。
「君はクビだ!如月君!!」
オレはクビに、なったのか…。
なに一つ、本当になに一つ分からないまま、オレは家のカギを開けた。
ぼーっとしながら、古びたちゃぶ台の前に座った。さっきの起きた惨事を何回も何回も繰り返して脳内で再生するうちに、やっとオレが無職になったこと、口の中が血だらけだったことを理解した。
しばらくしておもむろに預金通帳を見てみると、残高は1万21円。手持ちは2万8271円…思ってたよりはあった。
だが明日は家賃3万円を大家さんが取りに来る。今日は給料日だったが、警察を呼ばない代わりに今月の給料を全額を支払わないとオーナーに言われた。銀行振り込みではなく手渡しだったので、リアルにオレの現状の絶望さを感じさせた。
「ふぅ………寝、よう」
やっと出た言葉の通りに布団の中に潜り込んだ。目を瞑ってみるが、心臓がドキドキ、ズキズキして目が覚める。体が寒い…今は6月だけど、雨で体が冷えた。暖房は無い。
「…なんだよこれ」
知らねえよ。他人事だったらそう言い返したかった。
「ざっけんな…」
歯を噛みしめ、ギリギリと締め付けると、口の中の切れたところから変な味のする血がだらだらと出てきた。
「ふざけんなよ…!」
目のあたりが熱くなってきた。溜めこんでたものが、今にも…。
「………ふざっけんなよぉおおっ!!!」
ガンッ!!!
大きく振りかぶった手が目覚まし時計にヒットし、破片が飛び散った。
見なくても、手から熱い液体が滴るのが分かる。
「朝からうっせぇぞオイ!!」
壁をドンと殴った音と、となりから名前も知らないおっさんの怒号が飛んだ。
「す、すいませんっ…すいません…すいませ………んっ」
掛布団を頭から被り、カメのようにうずくまった。
目をぎゅっと瞑り、歯を食いしばり、手を肩に回し、震えながらなんどもなんども謝った
そのあとはずっと、布団の中で声を押し殺し、泣いた。
呼んでくれた方、チラ見してくれた方、二度見してくれた方、ありがとうございました。少しでも彼方くんを含め登場人物のみんなが幸せになるように、頑張っていきたいと思います。