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説教

台詞と地の文の間などに適宜空行を追加しております。

元の原稿の体裁で読みたい方は、作者個人サイトにおいでください。

 

 

 

「有馬さん、だっけ? ほらほら、グラス出して!」


 居酒屋の喧騒を背景に、満面の笑みでビール瓶を構えるこの男は、確か三年生だと言っていた。現代日本においてはよほどの特例でもない限り成人済みで、分別ある一人前の大人のはずである。

 食事の邪魔にならないように、と、セミロングの髪を後ろで束ねていた志紀は、怪訝そうな表情で動きを止めた。


「え、でも、あの、私、未成年だから……」

「それで?」


 一向に悪びれる様子もない男の態度に、志紀の眉間に皺が寄った。

 

 

 

    * * *

 

 

 

 桜咲く、春。

 必死のラストスパートが実を結び、有馬志紀はめでたく第一志望の国立大に合格した。

 模試では最後までA判定を出すことができなかっただけに、合格発表で自分の番号を見つけた時、志紀はもう少しで声を上げて泣いてしまうところだった。

 勿論、来たるべき大学生活への期待と希望も、彼女を大いに高揚させた。だが、それより何より、志紀は嬉しかったのだ。受験勉強の邪魔になるから、と買うのを我慢していた本も読めるし、映画も見に行ける。友達と気兼ねなく遊びに行くことだってできる。そして……


 ――これで「先生」と大手を振ってお付き合いができるんだ。


 貼り出された受験番号をもう一度確認してから、志紀はそっと深呼吸をした。目尻に浮かんだ涙を指の先で拭いながら。


 


 


 


 校区一番の公立進学校という名に恥じず、知っているだけで八人の同級生が志紀と同じ大学に合格していた。一緒のサークルに入ろうよ、と志紀に声をかけてきてくれたのもそんな一人で、高一の時に仲の良かった、文学部に進学した子だった。

 そんなわけで、四月は中旬、志紀は友人の掛川水鳥(ミドリ)とテニスサークルの部室をノックした。


 


 学内にテニスサークルは三つあるらしかったが、説明してくれた先輩によれば「ウチが一番活動内容が充実してるよ」とのことだった。

 その内容をよくよく聞けば、コンパ、バーベキュー、カラオケ大会、ボーリング大会、等々、テニスとは全然関係のない行事ばかり。思えば、その時点から、良からぬ予感がしていたかもしれない。予定表を手にニコニコとサークルの説明を続ける女の先輩はともかく、やたら馴れ馴れしく話しかけてくる男連中の態度は、世界史で習った「囲い込み」という単語を思い出させてくれた。領地囲い込み、エンクロージャー、産業革命、ヨーマン、……必死に詰め込んだこれらの知識も、化学を専攻した志紀にはもう必要ない。あとは教養という名の引き出しに大切に仕舞い込んでおくだけだ。


 などと志紀が全然関係のないことをつらつらと考えているうちに、何故か夕飯を皆で一緒に食べよう、という話に場がまとまってしまっていた。気が進まないながらもせっかくの好意を無碍にすることもできず、やはり微妙に躊躇いがちな様子のミドリとともに、こうやって夕刻の繁華街へと彼らとともに繰り出す羽目になってしまったのだ。


 


「いや、だから、私、未成年なので……」


 少し大袈裟に眉間に皺を刻んでも、目の前の男は一向に怯む様子もない。


「大丈夫だって、こっそり飲めばわかんないから」


 助けを求めて辺りに視線を巡らせば、頼りにしていた女の先輩二人も、ミドリも、見事なまでに男子サークル員の壁にそれぞれ隔離されている。二対一という男女の人数比あってこそのエンクロージャーだ。牧草地の羊と戯れている場合ではなかったんだ、と、志紀は激しく後悔していた。


「え、でも、学生課からのプリントに『退学となる可能性も』ってあったし……」

「そんなの、退学になった奴なんて見たことも聞いたこともないよー?」


 前例がないのなら余計に、自分がその第一号になるのは絶対に嫌だ。志紀は固く口元を引き結んだ。


「せっかく皆楽しくしようって思ってるのに、そんなお堅いこと言ってたら雰囲気が悪くなるよー」

「……でも……」

「せっかく大学生になったんだから、自由を味わわなきゃ」


 のらりくらりと言葉を返してくるこの男に、どうやって反論しよう。悩む志紀の脳裏に、不機嫌そうなあの声が甦った。


 


 


『気が進まないならば、どうして誘いに乗ったんだ』

「いや、何というか、その、断れるような雰囲気じゃなくて……」


 晩御飯を食べて帰ります、と母親ともう一人にメールをした五分後、鳴り響いたケータイを手に、志紀は大慌てで部室棟を出た。液晶画面に表示された相手のフルネームを、はにかみながらしばし見つめ、そっと通話ボタンを押す。


『なんだ、この〈晩御飯を食べて帰る羽目になりました〉の、〈羽目〉とは』


 対して電話の相手は、挨拶もそこそこに咎めるような口調で、志紀にそう問いかけてきたのだった……。


 


『雰囲気など関係ないだろう? 断りたければ断ればいいだけのことだ』

「でも、先生……」


 多賀根(たがね)(ろう)は、志紀の卒業した高校の化学教師である。この大学の卒業生でもあり、そして――


『デモもストもない』

「何ですか、それ」


 ――そして志紀の、恋人でもあった。

 この関係に二人が落ち着くまでには、とても他人に口外できないような紆余曲折があった。教師と教え子という問題のある枠組みを脱して僅か半月という現時点において、二人が付き合っているという事実は本人達以外はまだ誰も知らない。


『義務でも仕事でもないものに、苦痛を覚えてまで従事することはないだろう?』

「いや、そんな、従事って……、それに苦痛とかそこまでは……」


 自分やミドリが「男」だったなら、サークルの先輩諸氏はあそこまで積極的に食事に誘ってはこなかっただろう。それぐらいは志紀にも容易く想像がついた。特にミドリは高校の時から可愛いと評判だった上に、卒業後に茶色に染めたシャギーのセミディヘアがまるで雑誌のモデルみたいで、彼女に対する先輩方の囲い込み運動もそれはそれは見事なまでの熱の入りようだった。女先輩達の言葉添えがなかったら、二人は断固として誘いを断っていただろう。

 それゆえ、いざ食事会に参加するとなって朗に対して抱いたある種の後ろめたさが、無意識のうちにメールの文面に表れてしまったのかもしれない。色んな意味で迂闊だった自分を呪い、志紀は大きく溜め息をついた。

 と同時に、電話口からも大きな吐息が漏れた。


『……まぁ、付き合いというものは、どんなコミュニティにも必要だからな』


 心の中で大きく頷きながら、志紀は黙って次の言葉を待つ。


『どうせ、居酒屋かそれに類するものに行くんだろうが……、いいかね、志紀』


 低い声が、まるで参考書か何かを読み上げているかのように、志紀の耳元へと流れ込んできた。


『酒は飲むな。絶対にだ。ちょっとぐらいと言われても、違法行為だ。そもそも未成年のアルコールの摂取が禁じられているのには理由がある。そのことを良く考えるんだ』


 ここは試験に出るぞ、と続きそうな勢いで「先生」の講義は続く。志紀はつい条件反射のように姿勢を正した。


『未成年が飲酒した場合に法律で罰せられるのは、勧めた奴と提供した店だ。君にその責任が負えるかね? それに、最近、大学生の飲酒に関わる不祥事があちこちで問題になっている。飲酒をしたという事実だけでも、退学になってもおかしくない。

 羽目を外したがる馬鹿はいつの時代にも一定の率で存在するが、今言ったようなことを承知した上でそれでも酒を勧めてくる大馬鹿は、流石にうちの大学にはあまりいないだろう。毅然と言い返すこと。解ったね』


 


 


 志紀の目の前では、依然として、先輩が拝むようなジェスチャーとともにビール瓶を構えている。


「ちょっとだけだから、ね、ちょっとだけ。雰囲気雰囲気」


 ――先生、大馬鹿がいました……。


 志紀は思わず視線だけで天を仰いだ。深く息を吐いてから、彼女にしては珍しく、露骨な苦笑を(おもて)に浮かべる。


「それなら、注ぐだけ注いでおいてもらえますか」

「おっけー! そうこなくっちゃ!」


 


 


 


 で、結局、志紀は最後までビールに手をつけなかった。両脇の男に何度か口をつけるよう勧められたが、曖昧な笑顔と強固な意志で彼女はその場を乗りきった。

 飲酒を勧められた以外は、特に不快な出来事は無かった。腐っても鯛と言うべきか、彼らは基本的に「優等生」であり、醜態を衆目に晒さないだけの「矜持」を持っていた。特に話題が学問に関わることになると、それまでの軽薄な雰囲気はどこへやら、興味深い話がぽつぽつと辺りを飛び交ったりもした。(もっと)も、すぐに話題は「カレシいるのー?」「どんなタイプが好みー?」などといった下世話な方向に戻ってしまうのだが。


 


 当初の予定通り、二時間で宴は終わりを向かえ、一同はようやく重い腰を上げた。

 熱気の籠もった店内に長くいたせいだろうか、少し上気した頬で志紀も皆について店を出た。まだ冷たさの残る春の夜風が、熱を持った身体を心地よく包み込む。ぼんやりと上を見上げれば、煌々とした街の灯りの向こうに、朧月が浮かんでいた。


「二次会行こうよ、有馬ちゃん!」


 馴れ馴れしい声とともにがしっと肩を掴まれ、志紀は文字通り飛び上がった。


「食事のあとは、デザートだ! よな!」

「美味しいケーキと飲み物の店、教えてあげるよ!」


 居酒屋で志紀の両側に座っていた二人が、それぞれ彼女の手を引き、背中を押す。志紀の抗議の言葉もなんのその、ずんずんと歓楽街を進んでいく。

 大馬鹿に常識や礼儀を期待するだけ無駄だと悟った志紀は、思いっきり両手を振りまわした。


「もう帰ります!」

「なんで? お友達もあとから来るよー」

「先に行ってて、席とっておこうよー」


 暖簾に腕押し、糠に釘。またも二人は志紀の手をとった。


「ほら、あそこ。あの店、美味しいんだよー」


 指差された方角を見れば、濃紺に金色の星屑が散った小洒落た看板があった。流れるような筆記体の店名の下には、薄い灰色の「BAR」の文字。


「……バー?」

「まあ、一応そうなんだけどさ、ケーキも置いてあるんだよー。むっちゃ美味しいって評判なんだよ」


 冗談じゃない、と心の中で毒づきながら、志紀は再度男の手を振り払った。


「……遅くなるんで、帰ります」


 勢い良く踵を返した拍子に、眩暈が志紀を襲った。

 一瞬視界が揺らぎ、不自然な浮遊感が志紀を包み込む。必死で足を踏ん張り、ふらつく身体をなんとか立て直したところで、強い力が志紀の腕を引いた。

 あ、と思った次の瞬間には、志紀は先輩の一人にすっぽりと肩を抱かれていた。そしてそのまま、店の入り口と思しき地下への階段へと引きずられていく。


「そこで何をしている」


 あからさまに怒気をはらんだ声が投げつけられ、男達はぎくりとしてその足を止めた。


 


 緩んだ腕を乱暴に肩から振り落とし、志紀は振り返った。


「先生!」

「先生?」


 三人分の視線を真っ向から受け止めながら、多賀根朗はゆっくりとこちらに近づいてくる。暗色のロングコートが風をはらむさまは、どこかに大きな鎌を隠し持っているのでは、と疑いたくなるほどだ。


「所属は? 何学部の何回生だ?」


 眼鏡のレンズが、往来に溢れる店店の電飾を映し込んで光る。


「新入生を連れていくには、不適当な場所だろう。どういうことか説明をしてもらおうか」

「先生?」


 口を閉じることも忘れて立ち尽くしていた男二人は、もう一度同じ言葉を繰り返し、それからお互い顔を見合わせると声を揃えて「失礼します!」と脱兎のごとく逃げ去っていった。


 


 


 


 力が抜けそうになる膝を全力で叱咤しながら、志紀は朗の傍へと駆け寄った。鼻の奥がツンとするのをなんとかこらえて、普段どおりの声を絞り出す。


「先生、どうしてここに……」

「八時に終わる予定だと言っていただろう? たまたま時間が合ったから、寄ってみた」


 ぶっきらぼうに言い放つ声音は、冷たい刃のようだった。だが、チタンフレームの奥の瞳が微かに緩んだのを見て、志紀の胸が一気に熱くなる。

 涙が、溢れる、と思った瞬間、斜めがけにした鞄から陽気な電子音が響いてきた。慌てて引っ張り出したケータイを見るなり、志紀の頭から血の気が引く。


「あ、わっ、そうだ、ミドリ!」


 ケータイを開くや否や、友の大声がスピーカーからほとばしった。


『志紀! 今どこ!? 大丈夫? 誰といるの? 変なことされてない!?』

「私は大丈夫だよ。さっきの居酒屋からJRの駅のほうに曲がってちょっと行ったところ。ミドリこそ、今どこにいるの?」


 朗の視線を気にしつつも、志紀は殊更に平常心を意識する。


『佐藤さん、やっぱり志紀があとから来るって嘘だったんですよー。……もしもし、志紀? えとね、私がいるのはね、丁度志紀とは反対方向の、地下鉄の駅の傍だよー』


 佐藤、というのは、女の先輩の名前だった。


『もう、鈴木ってヤツがしつこいのなんのって。佐藤さんに助けてもらったの。もしや志紀も別口につきまとわれてるんじゃないかって思って……』

「あ、うん、まあ、しつこかったけど、なんとか逃げられたよ」

『良かったー。志紀、もう帰るでしょ? 一緒に帰る? そっちに迎えに行こうか?』


 志紀は思わず朗のほうを振り返ってから、見えるはずもない通話相手に必死に手を振ってみせた。


「あ、いいよ、いいよ。駅、すぐ近くだし。それに、ミドリは地下鉄でしょ」

『一人で大丈夫?』

「大丈夫大丈夫! 駅、すぐそこだし! また明日学校で会お」

『そっか。じゃあねー』


 


 


 家まで送ろう、とだけ吐き出して、朗は志紀に背を向けた。

 志紀は、まだ少しふらつく身体に鞭打って、ダークブラウンの背中を追う。他人にぶつからないよう人波を読みながら、時に小走りになって。

 ひとけの途絶えた繁華街の外れ、大きな立体駐車場の入口で、ようやく志紀は朗に追いつくことができた。


「……ありがとうございました」


 改めての志紀の言葉に、朗はちらりと背後を見返り、それから無言で階段に通じる扉を開いた。


「断っているのに、しつこく食い下がられて……。助かりました」


 何の装飾も無いコンクリートの階段が、まるで廃墟のように佇んでいる。踊り場を照らす頼りなげな蛍光灯の光が、微かに微かに震えていた。

 朗は、黙ってゆっくりと階段をのぼり始める。志紀はそっと口元を引き結び、急ぎ足でそのあとを追った。


「あの……、先生……?」


 やはり朗は何も喋らない。

 二階を通過したところで、志紀が足を止めた。その数段上で、朗もその場に立ち止まる。


「先生、何か言いたいことがあるんだったら、言ってください」


 しばしの沈黙ののち、朗が動いた。ゆらりと志紀に向き直り、こつり、こつり、と靴音を響かせながら段を降りてくる。


「今更言っても詮ないことだ、と思って黙っていたんだがな……」


 心底呆れかえった、と言わんばかりの表情で、朗は志紀のすぐ目の前に立った。


「……私が間に合ったから良かったが、何てざまだ」


 やっぱり怒っていたんだ。志紀は知らず唇を噛んだ。


「抵抗らしい抵抗もせずに。無防備すぎる」

「で、でも……」

「でも、何だ? 大人しく肩を抱かれておきながら、何が『断った』だ?」


 静かに、囁くように、問い詰める、声。志紀の胸の奥底をも震わせるその声が、彼女の平衡感覚を狂わせる。再び襲いかかる眩暈に足を掬われ、志紀は背後の壁にぶつかるようにして背もたれた。

 そうだ、さっきだって眩暈さえしなければ、あんなに簡単に大馬鹿に捕まったりなんかしなかった。悔しさと、背中の痛みとで、滲みそうになる涙を堪えて志紀は歯軋りをした。それまでだって、二対一という不利な状況の中で、彼らを振りきろうとなんとか頑張っていたのに……。

 怪訝そうに眉を寄せていた朗が、ふ、と目を細めた。

 次の瞬間、志紀の視界に影が落ちる。


 


 口づけは、瞬く間に深くなった。

 コンクリートの壁に押しつけられた背中が、痛い。指の食い込む肩が、燃えるようだ。志紀は何が起こっているのか解らないまま、ただひたすら柔らかな感触に翻弄されるばかり。

 やがて、そっと唇が離された。刺々しい言葉ともに。


「……あれだけ言ったのに、酒を飲んだのか」


 一瞬、何を言われたのか、志紀には理解できなかった。ややあってようやく言葉の意味が頭に染み渡り、目を見開いて拳を握り締める。


「飲んでません!」

「アルコールの味がする」

「ええっ? まさか!」


 静かに自分を見つめる朗の氷のような眼差しに、志紀は思わず唇を噛んだ。


「……本当に、飲んでなんかいません。あんまりしつこいんで、コップにビールを注いではもらったんですけど、最後まで口はつけませんでした」

「じゃあ何を飲んだ? 水分摂取なしで二時間も食事はできまい」


 朗はそっと身を起こし、鷹揚に腕を組んだ。


「さっきの人がジュースを頼んでくれました」

「それは本当にジュースなのか? 酎ハイじゃあないのか?」


 下目に見下ろされて、さしもの志紀もあからさまにムッとした表情を浮かべた。


「何人分かの注文をまとめてメモっているのを横から確認しましたが、間違いなく『ジュース』って書いてありました」


 ふむ、と顎をさすりながら、朗は試問を続ける。


「他には?」

「何も飲んでいません。ジュース、LLサイズか、ってぐらいに量が多かったから」


 そこで、朗の眉間に皺が寄った。


「何のジュースを頼んだんだ?」

「なんでもいいから、とお願いしたら、グレープフルーツジュースになりました」


 その言葉を聞いて、がっくりと朗の肩が落とされた。力無く俯き、右手で額を押さえる。


「……それは、十中八九ジュースなんかじゃないな」

「ええっ?」

「メモで油断させて、好きに注文したんだろうな……。小賢しい真似を」

「ええええっ?」


 素っ頓狂な声を上げる志紀の目の前、朗が深く息を吐いた。


「酒を飲むな、と言ったのは、健康被害や罰則を懸念してのこともあるが、実は一番の理由は別にある」


 もう一度大きな嘆息を漏らしてから、朗は神妙な顔で言葉を継いだ。


「前にニュースにもなっていただろう、女性を酔わせて、集団で、り……その、性的暴行を加えた連中のことが。あれは極端な例だとしても、アルコールで判断力が鈍ったところにつけ込もうと考える奴は少なくない。……男について、下半身は別人格だ、とはよく謂われることだからな」


 と吐き捨てるその刹那、朗の顔が自嘲に歪んだ。

 そして、そっと顔を背ける。志紀から、……志紀の瞳に映るおのれから。


 


 かけるべき言葉を見つけられず、志紀は思わず朗に抱きついていた。スーツの胸元に顔を埋め、震えそうになる声に力を込める。


「ありがとうございます」


 返事の代わりに、朗の喉が大きく上下した。


「何が、だ」


 酷くかすれた声が、志紀の髪を揺らす。


「助けてくれて。気にかけてくれて。お説教してくれて」


 ゆっくりと、力強く、志紀は言葉を絞り出した。最後に少し躊躇ってから顔を上げ、息を吸う。


「……大切に思ってくれて」


 息を呑む気配がしたかと思えば、力強い腕が、あっという間に志紀を包み込んだ。

 頬と頬が、互いの熱を伝え合う。

 熱い吐息に襟元を撫でられ、志紀の身体が小さく跳ねた。それを受けて、くぐもった笑いがキスとともに首筋を這い上がってくる。

 やがて、再び唇が合わせられた。

 朗の手が、志紀の髪を乱す。志紀の手が、朗のコートを握り締める。二人は何度も顔の角度を変えては、お互いを深く貪りあった。


 


 


 


「いいか、今回のように騙まし討ちの可能性は常に存在する。居酒屋などに行ったら、飲み物を口にする前に、まずタンパク質を摂取すること。アルコール分解酵素を作り出すにも、材料が必要だからな」

「え、でも、乾杯の前に何か食べるのって、それちょっと無理があるんじゃ……」

「プロテインの粉末を常備すればいい。それが無理なら、アミノ酸系のサプリメントドリンクだ」

「いや、だから、どのタイミングでどこで……」

「それから、飲み物を飲む時は、舌の奥のほうを意識しろ。奥のほうの味蕾は、苦味に敏感だといわれている。少しでも苦い、味が変だと思ったら、アルコールと思え」

「先生、信号、青になりましたよ」


 前方に並ぶブレーキランプが、静かに闇に溶けていく。ようやく途切れた朗の講義に、志紀は露骨に溜め息をついてみせた。

 だが、車が加速を終えた途端、朗が再び口を開いた。


「……それから、万が一アルコールを……」

「ええ? まだあるんですか?」


 急に沢山言われても憶えきれませんよ、と、ぼやく志紀に、朗が小さく口角を上げる。


「説教されるのが好きなんだろう?」

「そう言う意味じゃ……」


 家に帰りつくまで、まだ二十分はかかるだろう。どうか渋滞に遭いませんように、と志紀は心の中で神に祈った。

 

 

 

    〈 了 〉


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