マイ・フェア・レディーズ
最近、身内で結婚ラッシュが起こっている。
この身内というのが本当に近い間柄ばかりなので、僕も準備に巻き込まれて自然と忙しい。
まず昨年末に、僕の父が結婚した。
というとなんだか不思議な感じがするけれど、父は僕が小学生の頃に僕の母親と離婚しているから、別に問題はない。僕は、この父の再婚を「親父の婿入り」と呼んでいる。父が、それまで僕と住んでいたマンションから父と結婚してくれた女性と彼女の娘さんが住んでいるマンションに引っ越して行ったからだ。
僕は父の再婚自体にはシンプルに賛成だったけど、ひとつだけ悩んだことがある。父よりかなり若い再婚相手をどう呼ぶかについてだ。僕にとって彼女は『親父の彼女』的存在だから、『お母さん』はどうしてもムリだった。『おふくろ』なんてもってのほかだ。何せこれまでふつうに会話するときですらガチガチの敬語だったんだから。
そんな僕だけど、妹ができたのは単純に嬉しかった。
というわけで、新しい家族メンバーそれぞれの呼び方はこうなった。
親父と、『成美ちゃんのお母さん』と、『成美ちゃん』。
成美ちゃんは小学校二年生で、とてもかわいい。しゃべるのが大好きで、じょうずで、二十歳近く年上の僕にめまいを起こさせるほどのおませさんでもある。そして、僕のヒーローである。
「おすもうさんみたいー! ふかふかー!」
僕と初めて会った瞬間、成美ちゃんは僕に勢いよく飛びつき、大学卒業以来めっきりメタボな僕の腹部に大の字でしがみついたのだ。その場にちょうどいあわせた全員が思わず吹き出した。
さすがに、成美ちゃんのお母さんはすぐに気を取り直して成美ちゃんを叱ろうとしたのだが、当の僕が「いいですよ、気にしないで下さい」と断ってしまった。
それを聞いた成美ちゃんは僕にしがみついたまま、顔全体でにかっと笑った。僕も成美ちゃんを見下ろして、あらためてまた笑ってしまった。あんまり嬉しそうだったから。
ちなみに、このときの成美ちゃんのポーズは、『となりのトトロ』で大トトロに抱きつくメイにそっくりだったので、『トトロポーズ』と呼ばれるようになり、僕と成美ちゃんが会ったときのお決まりの挨拶になった。
成美ちゃんが大きくなったらやってくれなくなるだろうけど、それを考えると今からすでにちょっと寂しい。
そんなわけで、今日も成美ちゃんは僕の姿を見つけるなり突進した。
「さーとーしー!」
成美ちゃんはヒーローらしく、僕のことを呼び捨てにするのである。
レストランの前庭を横切って駆け寄った成美ちゃんは、まず僕にがっちりとトトロポーズを決めた。それから地面に下りると、ふんわりしたレースのドレスの裾をつまんで膝を曲げ、にこにこしながら僕たちを見守っていた僕の彼女に貴婦人のようなおじぎをした。
「成美ちゃん、今日もかわいいね!」
「りょうこちゃんもかわいいよー! おひめさまみたーい!」
女の子たちが年の差も関係なくきゃっきゃっとはしゃぐのを放っておいて、僕は式場内を見回して父を探した。
今日は身内の結婚ラッシュ第二弾となる、僕の姉の結婚式なのである。
姉が選んだレストランウェディングの式場は、イングリッシュガーデンと地産地消の料理を売りにしているところだった。一応は都内だけど、ずいぶん郊外にある店だ。といっても僕の行った大学や亮子が以前住んでいたところからもそう離れていないので、今日は懐かしい風景の中をドライブしながら来た。
うららかな春の陽気に恵まれたおかげで、式は予定通り庭で行われることになった。緑の芝生のそこここに白いテーブルクロスが掛かったテーブルが置かれている。
父はその向こう、レストランから庭に張り出した屋根の下に立っていた。そこから庭の中央の祭壇まで続くヴァージンロードをじっと見ている。間近に迫った本番では、父と姉が腕を組んでそこを歩くことになっているのだ。
「親父、調子はどう?」
近寄りながら声をかけると、襟に花を飾ったタキシードという自分の結婚式の時と同じ完全武装をした父は、自分が主役だったあの日よりこわばった顔していた。超がつくほど真面目な人なのだ。
「……緊張している。娘の一生の晴れ舞台だというのに、ドレスの裾を踏んでしまったらどうしようか」
「練習したんだろ? 大丈夫だって。それに親父が踏みそうになったら、姉さんがどうにかして回避するよ」
「そうだな、真由はしっかり者だから」
うん、と僕は同意した。姉は、家族としてのひいき目をのぞいても、非常にしっかりしている。数年働いて資金を貯めてブラジルに語学留学したかと思えば、帰国する際には恋人を連れて帰ってきた。それが、今日のもう一人の主役のフジイさんである。
苗字がカタカナなのは、フジイさんが日系ブラジル人だからだ。つまり国際結婚ということで、一般的に人生の一大事といわれる結婚よりもさらに色々と大変だったらしいのだが、姉とフジイさんは先日ついに式に先立って入籍した。
「マユさんとは運命なので、しょうがないんです」
入籍を祝う会食でそれまでに費やした忍耐や根気をほめられると、フジイさんはだいぶ流暢になった日本語でこう言った。
フジイさんは苗字と顔こそ日本人と変わらないものの、姉と会うまで日本語は片言しか知らなかったらしい。今でも姉との会話はだいたいポルトガル語だ。そんな人が、姉と結婚するためだけに、はるばる日本にまで来て就職したというのだから、僕たち家族は正直びっくりしていたし、誰も口にはしなかったものの、なんでそこまでしたのかずっと不思議に思っていた。
それに対する回答がその一言だったというわけである。
さすがラテンの男は違う。僕たちはどよめいた。
「別に運命の恋とか、そういうんじゃないのよ」
姉は、フジイさんの横から、めずらしく焦りながらフォローした。
「ただ、初めて会ったときに、『あっ、この人と結婚するんだな』って感じたらしいのよ」
それから、『これが運命なら、もっと綺麗な人がよかったです』って思ったんだって。
失礼よね、と姉は言ったが、僕は内心フジイさんに同意した。たしかに姉は美人ではない。少なくとも、地球の裏側まで追いかけるほどの美人ではない。
それでも会食の間中、フジイさんは姉の通訳に耳をかたむけたり自分からしゃべったりしながら、ずっとにこにこしていた。自然と僕たちにも、これから真由・フジイとなる姉がきっと幸せになるだろうと思わせてくれる、そんな笑顔だった。
だから、僕も父も姉の結婚には大賛成なのだが、それと結婚式への参加は別問題だった。特に家族の結婚式となると、やらなければいけないことが多すぎるし、やたら注目されるから緊張する。結婚式のいいところなんて、白ネクタイ着用と決まっていて、自分が変なネクタイをしていないか心配しなくていいということだけじゃないだろうか。
父がレストラン側との最終チェックに呼ばれて行ってしまうと、僕は急にヒマになった。店の片隅にピアノが置いてあったので、ぶらぶらと近寄る。蓋を開けて、ひさしぶりに目にした白と黒の鍵盤に指を置いてみると、ポーンと柔らかな音がした。
面白くなって、頭に浮かんだ曲をたどたどしく弾いてみた。
ロンドン橋落ちた・落ちた・落ちた、まではよかったが、その後がどうしてもひっかかる。何回やってみても正しいメロディがわからない。
つい夢中になってくり返していると、いつのまにかそばにいた亮子が袖をひっぱった。
「遊んでちゃだめだよ、聡くん。もうお客さんが来ちゃうー」
そういえば僕たち二人は受付だった。あわてて亮子に謝ってレストランの入り口に向かいながら、ふと僕は聞いてみた。
「ロンドン橋落ちた、の最後ってどうなるんだっけ?」
「……えぇ?」
亮子は首をかしげてハミングした。メロディを最後まで知っているところは僕よりマシだが、歌詞は思い出せないらしい。受付の準備をしながらずっと最後のところだけを何回もくり返しているので、僕は思わず笑いそうになってあわててごまかした。
亮子は僕の様子には気づかなかったらしい。受付テーブルの準備が終わったところで、やっと自信なさげに僕を見上げた。
「『わたしの、きれいな、おひめさま』?」
「そんなんだっけ?」
「うーん、違ったかも? あれってもとはマザーグースなんだよね、たしか。それを直訳したらこうだった……あれ? でも、日本語では違ったかな?」
ロンドン橋落ちた・わたしのきれいなお姫様。
たしかに意味不明といえばそうだ。もしこんな歌詞なら、簡単には忘れられないんじゃないか。
もっと話を続けたかったけど、開場と同時に外で待っていた招待客がまとまって押し寄せたので、僕と亮子はしばらくてんてこまいをする羽目になった。それでも僕の頭の中では「ロンドン橋落ちた」がエンドレスリピートし続けていた。
ローンドン橋落ちた・落ちた・落ちた・ローンドン橋落ちた。
亮子のおかげでメロディはわかったけど、歌詞が不明な最後の部分を通り過ぎて、また最初に戻る。そしてまた一曲全部のくり返し。
なんだか気がヘンになりそうだった。
歌から少しでも気をそらそうとして、僕は受付がひまになると招待客リストをチェックした。
姉とフジイさんは、今度もう一回ブラジルでフジイさん側の親戚と友人を大量に招いて挙式することになっているらしい。だから日本での結婚式のコストはかなり切りつめた。そんなわけで招待客はそもそも少ない。
リストに載っている人はもうほとんどは来ていて、残りは数名だけだった。
でもそんな努力もむなしく、気が付けば僕はまたあの呪われた童謡をハミングしていた。はっとしてやめるのと同時に、ご祝儀袋を揃えていた亮子が呆れたような声を出した。
「そんなに気になってるんだねぇ、聡くん」
「……うん、まあ、そうみたいだ」
僕はあきらめて素直に答えた。それから説明とも言い訳ともつかない付けたしをした。
「なんか気になる。昔は弾けてたはずなんだ」
手の中のリストを見下ろす。たどたどしいピアノの音が聞こえるような気がした。ロンドン橋落ちた・落ちた・落ちた。そして、それから?
なんでこんなに気になるんだろう。
ホールの吹き抜けにさまざまな音が反響していた。庭で結婚式の開始を待っている人たちのさざめき。レストランのキッチンで食器やグラスが触れあう音。亮子のハンドバッグから流れ出したメールの着信音。
「……えっとね、英語だとほんとにあそこの歌詞は『マイ・フェア・レディ』なんだって。むかしロンドン橋が崩れて工事をしたときに、人柱にされた女性のことだと言われてるって」
取り出したアイフォンを見るなり亮子は発表した。
「誰情報?」
「美紀生」
「美紀生?」
「うん、こういうトリビア大好き人間だから、さっきメールして聞いてみたの。でもそれにしても返信早すぎだよね!」
「美紀生。美紀生かー。……美紀生、元気?」
「うん? うん。元気そうだよ。『バンコクなう』だって。ばかみたいだよ、ほら」
亮子は笑いながらメールに添付されていたらしい写真を見せてきた。小さい画面の中で真っ黒に日焼けした友人が歯を見せながらピースサインを突き出している。
そういえば美紀生は現在リュック一つで海外を長期旅行中の、いわゆるバックパッカーなのだった。
最近はネットカフェが結構どこにでもあるらしくて、時々亮子とメールをやりとりしている。出発前には姉に外国での生活について質問したりしていたらしいので、姉にも近況報告メールが届いたりもするらしい。女性には律儀な男なのだ。
でも男相手だと当然そんなにマメではないし、そもそも残念ながら海の向こうで放浪中となると僕の相談にリアルタイムでは乗ってくれそうもない。たとえば僕はそろそろ亮子にプロポーズしたほうがいいんじゃないかと思っているのだけど、僕の給料とか仕事とか、亮子の家族関係とか、そういうあれやこれやについてぜひアドバイスしてもらいたかった。
僕の知り合いの中で、美紀生ほど亮子を知っている人間はいないから。幼馴染というだけではなくて、しばらく同居していたことまである。
二人の間にふつう勘繰られるような関係がなかったことを僕は身をもって知っているけれど、それでも亮子の彼氏として嫉妬するべきじゃないかと時々思う。なにしろ亮子は、僕のことは『聡くん』と呼ぶのに、美紀生のことは呼び捨てだ。しかも僕より美紀生の方が亮子を笑わせるのがうまい。それはいまだに僕をちょっと落ち込ませる。
まあそれはとにかく。美紀生も僕と同じで未婚だから、本当はフジイさんとかプロポーズを既に成功させた人からアドバイスをもらうべきだろう。けれど姉との出会いを『運命』と片づける人に相談してなんとかなるものだろうか。
最後の客の受付が済むと僕たちは急いで式場にもぐりこんだ。花嫁の登場前の司会者の挨拶が終わりかけているところだった。
僕たちの席は祭壇から一番遠い位置だった。同じテーブルなのは、成美ちゃんのお母さんと成美ちゃん、それから今は席を外しているけど、親父。
僕は席につくなり母の姿を探した。考えすぎだとはわかっているけど、父と父の新しい家族の近くに元妻がいるというのはちょっと落ち着かない。両親の離婚後、僕は大学に入るまで母とまったくの没交渉だったし、その後だってよく会っているわけでもないから余計そう感じてしまうのだろう。はっきりいってしまえば、僕にとって母は家族よりも少し外側の存在になってしまったのだ。父は「親父」だけど、母のことは「お母さん」と丁寧な呼び方しかできないのは、たぶんそのせいだ。
母は、ブラジルから駆けつけたフジイさんのご両親と庭の向こう側のテーブルに座っていた。姉とよく似た顔に、年のわりに派手めな化粧。母の赤い口紅を目にした途端、僕の汗は寒気ともに一気にひいた。ロンドン橋落ちた。そして、それから? 今日の僕はどうやら過去から逃れられないらしい。
ちょうどその時、おきまりの結婚行進曲とともに入場した親父と姉に向かって会場の全員が拍手した。
姉はするすると歩きながら、親父のぎこちない動きに上手に合わせていた。顔はベールで隠れて見えなかった。
あの事件はなんだったんだろうか?
僕は、冷や汗をかきながら、二人の歩調に合わせて手を叩いた。
心が両親が離婚する少し前にさかのぼる。そのころの僕は鈍感な子どもだった。後になって両親の口から説明されるまで離婚について知らなかったくらいだ。
でもそんな僕ですら、何かがおかしいとは感づいていた。
いつのまにか僕の家族はみんな改造されてしまったみたいに不自然だった。父はまるで喋れないロボットだったし、母は突然暴れだす怪獣のようだった。そして姉は透明人間のごとく息をひそめていた。
僕は家族を元通りにしたかった。こんなことをした奴を倒すとかなんとかして。本気でヒーローになりたかった。でも僕はどうしようもなく役立たずで、僕が何をしても父も母も姉も微笑むことすらしなかった。きっと両親に何が起こっているのか知っていた姉にとって、そんな僕はかえって腹の立つ存在だっただろう。
その日、僕は姉の隣でピアノの鍵盤を叩いていた。はじめて弾けるようになった曲だった。「ローンドン橋落ちた」 弾きながら歌って、間違っていてもぜんぜん気にしなかった。姉は怒りもせずにじっと座っていた。調子に乗った僕は大声でがなりながら、めちゃくちゃに鍵盤を叩きはじめた。そして、ガシャン。
姉が僕の頭をピアノの鍵盤に押し付けていた。僕が無我夢中で暴れると、姉は手に一層力をこめた。僕たちが揉みあうたびに不協和音が響いた。ガシャン、ダン、ガシャン。僕はがむしゃらに体をねじり、やみくもに手を振りまわした。けれど結局は体格も力も勝っていた姉に押し倒され、並んで座っていた椅子の座面から僕の頭が宙ぶらりんにはみ出した。
たしか姉はそのとき怪我をしていて、姉の右手は包帯のせいで巨大化していた。けれど姉は不自由な指で何かを握りしめていて、それを仰向けになっていた僕の顔に押しつけた。上下左右に動くぬるぬるした感触の不気味さに僕は泣きわめいた。必死に逃げようとしたけれど、姉はがっちりと僕に馬乗りになっていた。
しばらくして姉がやっと力を抜き、僕の手だけは自由になった。僕は顔をこすって心底ぞっとした。手の甲が一面真っ赤だった。さらに泣きわめく僕を姉はだまって見下ろしていた。僕の顔に次々と水滴が落ちてきた。それが姉の涙を見た最後だった。
あのとき僕は出血などしていなかった。姉は僕の顔に母の口紅を塗りたくっただけだったのだ。
きっと姉がそんな真似をしたのは僕のせいだったのだろう。うるさくしたということだけじゃなくて、僕が姉を守ってあげられなかったから。口紅を塗りたくられた僕の顔はさぞ変だったはずなのに、姉はそれでも笑わなかった。父と母と同じように笑い方を完全に忘れてしまったようだった。
そうして、僕は笑わせようとして空回りし続けることが怖くなり、だんだん人の顔色ばかりうかがうようになった。純粋無垢からはほど遠い、いじけた子どもになっていったのだ。つまり僕はヒーローになれなかった。
ところでいまさらだけど、ヒーローの条件ってなんだろう。悪い奴をやっつけること? 人の命を助けること? きっとその人ごとに違う答えがあると思う。僕にとっての最低限の条件は、自分にとって大切な人を笑顔にすることだ。自分の考えをうまく言葉にできないあの頃からたぶんそうだったし、何年も前に成人した今でもその考えは変わっていない。何年経っても変化しないというのは、僕にとってそれが一番大事なことだからなのだろう。単に僕の成長が早いうちに止まってしまったということかもしれないけど。
とにかく、成美ちゃんが僕のヒーローというのは、実はそんなわけなのだ。
僕がぼんやりと追憶にふけっていた間にも式は着々と進行した。四月の風が芝生を小さく波打たせる中、客同士がなごやかに歓談していた。短いスピーチとシャッター音の合間を縫って、次々と料理が運ばれてきた。どれもおいしいのに僕があまり食べないものだから、ふだんの食べっぷりを知る人たちから「大丈夫?」の声がいくつも上がった。
いよいよ終盤に入ると、姉が定番の『花嫁から両親への手紙』を読んだ。
たぶん僕だけでなく姉を知る誰にとっても意外だったと思うのだが、姉は泣いた。
人が綺麗に泣くのはたいていテレビとか映画の中でだけなので、姉も大変なことになった。最初はしゃっくりのような奇妙な音を立ててこらえていたが、途中からは文の途中で鼻水をすすりあげた。しまいにはフジイさんから受け取ったハンカチで顔をふきつつ、どうにかこうにか最後まで読み終えた。
いつもならありえない姿を見せた姉だったが、僕にとってさらに予想外だったことがあった。僕も泣いてしまったのだ。
自分でも驚いた。あの口紅事件以来はじめて見た姉の涙に動揺したのかもしれない。周囲の視線を感じて恥ずかしかったのだが、どうしても涙は止まらなかった。仕方なく僕は姉の手紙が終わるまで姉と一緒に泣いた。
せめてもの救いは、成美ちゃんが「あっ」という声をあげたときに成美ちゃんのお母さんがすばやく口を押さえてくれたことだった。おかげで僕の醜態が招待客全員に公表されるという事態は間一髪でまぬがれた。それでも、僕の近くにいた人たちにはばっちり見られてしまったけれど。
そんなわけで、式が終わってからは散々だった。
ウェディングドレスをさっさと脱ぎ、ご両親をホテルまで送るフジイさんと一旦別れた姉が戻ってくると、レストランに残っていた身内は僕の涙で大いに盛り上がったのだ。
さっき先妻と後妻が同席するからといって気を揉んだのが馬鹿みたいだった。話が弾むのは歓迎だけど、自分の失態が話題だからだとすると素直に喜べない。普通こういうときは花嫁の晴れ姿とか式について褒めたりするものじゃないだろうか。
成美ちゃんはもちろん上機嫌で「さとしは泣き虫!」と何回も大声で宣言していた。成美ちゃんのお母さんはすまなそうな顔をしながらも、上品に口元を手で覆っていた。父は自分だって涙ぐんでいたくせに、僕のせいで目立たなかったので嬉しくてたまらないようだった。母は「やさしい子だから……」とただ一人フォローを試みてくれたようだったが、言っている途中で笑いをかみ殺せなくなり余計に台無しだった。
姉は「そんなに寂しい?」と人の悪い笑みを浮かべ、亮子は「弟ってお姉さんと泣き方そっくりなんだね!」と大発見をしたように言った。なんでも、「真由さんとおんなじ音とタイミングでしゃくりあげるひとがいるから、なんて悪趣味な冗談だろうと思ったら聡くんだった」んだそうだ。
僕はやけくそになって、能天気に感心している亮子に向き直った。後ろでてきぱきとテーブルを片付けているレストランの人を視界に入れないようにした。気持ちだけでも一対一になりたかったのだ。
「僕たちのときには、泣かないようにする」
その場の勢いがあったにしても、これ以上ないほど真剣に言ったのだが、亮子はきょとんとして顔にかかった髪を耳にかけ直しただけだった。
僕は彼女の反応を固唾を飲んで見守った。待っている間にフジイさんを心底尊敬するようになり、いきあたりばったりで僕の人生における最も重要な一言を口にしてしまったことを後悔し、ついには美紀生を追いかけて旅に出たくなった。
「……それって」
「プロポーズだあ!」
成美ちゃんのすっとんきょうな声に全員が吹き出した。成美ちゃんのお母さんも、父も、母も、姉も。そして、ついに僕の目の前で、亮子も笑った。そして僕の手を取ると大きくうなずいた。
僕は亮子の手を握り返した。それからトトロポーズで飛びついてきた成美ちゃんの気が済むまで二人でぐるぐる回った。成美ちゃんをやっと下ろすと、姉があきれ顔でハンカチを手渡してきたので、ふとした悪戯心から今度は姉を持ち上げてみた。姉は回っている最中聞いたこともない甲高い声できゃあきゃあ騒いだ。同じことを亮子にもするよう勧める外野の声もあったのだが、亮子は「二人だけのときにもっとすごいことをやってもらいますー」とうまいこと辞退した。レストランの人たちが遠巻きに僕たちを眺めていたし、そろそろ疲れていたので正直助かった。
僕はネクタイをゆるめながら一生懸命目を細めた。
僕は最初は姉のヒーローになりたかったのだけど、あまりにも力不足だったし、姉は昔も今も僕よりもっと強かった。成美ちゃんはもしかしたら純粋無垢なのではなくて、女優顔負けの演技派なのかもしれなかったが、僕のヒーローであることに変わりはなかった。そして、亮子は意外とシビアだったり、僕についてよりも美紀生について詳しかったりするけれど、あるがままの僕でいいと言ってくれた相手だった。
僕の大切な三人の女性たち。全員が僕の目の前で笑っていた。二人は目を回して座り込んだまま、そして二人を立たせている最後の一人は僕のプロポーズ以来ずっと。
彼女たちを笑わせたのは僕だった。そのことに思い至って目頭がまた熱くなった。長い時と挫折を越え、やっと僕はやりとげた。夢を、叶えたのだ。