気ぐるいピエロ
東京では珍しい大雪のせいで、本来なら差し向かいで喋ることなどなかっただろう人と、二人だけで飲むことになった。
幼馴染と付き合っている友人の姉だ。名前を真由さんという。友人の親が離婚の際に姉弟を別々に引き取った結果、彼女と友人とは苗字が違うはずだが、言われなかったか忘れたかで分からない。友人のことだから、たぶん言われていない。
どうしてこんな赤の他人と飲むことになったのかというと、原因は幼馴染の亮子にある。数日前に電話してきた亮子は、開口一番こう言った。
「こんど聡くんと聡くんのお姉さんとで会うので美紀生も来てください」
「わけわからん。お前ひとりで行け」
「むり! むりだよ、聡くんのお姉さんってね、すごくしっかりしてて、物静かで、わたしどうしていいかわかんないんだもん! 何時間も三人だけでいたら絶対気まずくなっちゃう! でも聡くんってかなりのシスコンだから、そんなことにはしたくないの! でね、お姉さんも前に美紀生と会ってみたいって言ってたから、美紀生も来てうまいことなごやかにしてください」
「なにその他力本願! そもそも『会ってみたい』って、社交辞令の代名詞みたいなもんじゃん」
「そうかなあ。ちがうと思うけど。でも、もし社交辞令だったとしても、言ったことは事実なんだから来た者勝ちじゃない?」
亮子は、亮子にしてはなかなか穿ったことを言った。こいつのこういうストレートなところは長所でもあり短所でもある。少なくとも、俺みたいに些細な事に足を取られる奴にとっては、偶に脅威にもなりうる。
しかし今回の場合、俺がその会合に参加したとしても、勝つのは亮子であって俺ではない。そんなわけで、俺は当然断ろうとした。が、友人の聡と亮子を引き合わせたことに少しばかり責任感を感じたところに、『もうわたしのことをネタにでもなんにでもしてもいいんでどうぞどうかお願いします』と亮子がひたすら頼み込むので、ついに行くことを承諾してしまった。どうも俺はこの幼馴染を上手に放って置けない。
そんなわけで、雪の舞い散る土曜日の夜、俺は駅まで出掛けて行った。無数の白い斑点が、駅前のデパートの壁に埋め込まれた巨大テレビの前を横切り、空中遊歩道の合間を掻い潜って、バスとタクシーと傘が動き回る道路へと吸い込まれていく。待ち合わせの時間まで数分しかなかったが、思わず歩道橋の上で足を止めて、目の前で繰り広げられる自然界のパレードを眺めてしまった。次々と墜落していく雪は、同時にまるで浮上しているかのようにも見える。濡れたタイヤに蹂躙されている路上は艶めいて黒く、他の色は絶え間なく白に侵食され続けていた。目に見える全てのものが、いつもより静かで、いつもより美しかった。
余計な感傷を振り捨てて歩き出しながら、(しっかしねえ、君達ねえ)と、俺は日時場所を連絡されてから何回目かの呟きを心中で洩らした。どうして家族の一員と交際相手との懇親の場として、どこにでもある居酒屋チェーンを選んでしまったのか。まかり間違っても合コンではないのだから、値段は張っても静かでゆっくり歓談できる店にすべきだったのではないだろうか。俺の友人と幼馴染は二人とも愛すべき性格ではあるが、あまり物事を深く考えない。
そんな風だから、待ち合わせの時間直前になってから、『雪で電車が遅れてるから先にお店に入ってて』などというメールを、大量の感嘆符と謝罪の顔文字とともに送る羽目にもなるのだ。
そうこうするうちにまたぺこぺこと頭を下げる猫が大量に並んだメールが届いたが、俺は一目だけ見るとすぐに携帯を閉じた。俺はあまり顔文字が好きではない。馬鹿にされているような気がしてくる。まああの二人にそんなつもりはないとはわかっているのだが。
俺は隣に立っている真由さんを見た。
真由さんも俺を見上げて、困ったように微笑んだ。自己紹介を済ませて、ちょうど手持ち無沙汰になってきたところだった。
俺が着いた時、既に改札横の壁画の前に立っていた真由さんは、美人ではないが、美人に見られるタイプの女性だった。美人の雰囲気を上手に演出している、というのか。髪をコームで綺麗に一つにまとめ、派手ではないが手抜きの一切ない化粧をしている。
前にヘアサロンで勤めていた頃、こういうお客さんが来てくれたら嬉しかった。こちらがどんなにヘアカットを工夫しても、本人に毎日ちゃんと手入れしてもらわないことにはどうにもならない。大抵の人はそれを理解していないか理解できないふりをしていて、ヘアサロンに駆け込みさえすればスタイリストにどうにかしてもらえると思っている。そんなわけで、ごく少数の、きちんと自分のケアをしている人には、仕事柄自然と好感を持った。そんなことを思い出した。
それから、真由さんの今日の服装も良かった。男にはそれぞれ好みの女性の服装というのがあるが、俺は白のコートというのに存外弱かった。冷え切った冬の夜、白い柔らかなコートに身を包む女性には、兎にも似た可愛らしさがある。
要するに、真由さんが好みか好みじゃないかと聞かれたら、間違いなく好みだった。だからと言ってどうこうする気はないが、少なくとも一緒に飲むなら見ていて快い女性との方がいい。
「どうします?」
「美紀生君さえよければ、言われた通りにしない? 席の予約もしてあるみたいだし……ここだと寒くて」
俺の問いに答えた真由さんの口調と声音は、外見を裏切らないものだった。もちろんです、と先に立って案内しながら、俺は亮子からのSOSに納得した。真由さんは確かに亮子が苦手そうな女性だった。隙がない。亮子は、女性に限らず人間全般の風上に置けないほど無精なところがあるので、真由さんのように、能動的に外見を演出している女性にコンプレックスがあるのだ。
店に入った真由さんが件の白いコートを脱いでも、俺のその印象が変わることはなかった。用意されていた席は、土塀のようにざらついた感触の壁に囲まれた狭い部屋で、低い天井から蔓製のランプシェードに囲まれた暖かい色の電球が下がっている。古民家がテーマとでもいったところだろうか。いまだにチェーン店はどうかという考えは捨てきれないが、席が完全に独立していて外から見えないところと、適当に暗いところは気に入った。
真由さんは、「そんなに飲めないの。だからアルコールは皆での乾杯のときにさせてね」と烏龍茶を頼み、俺はとりあえずビールを頼んだ。ついでに何品か先に注文してしまおうということになったので、俺はメニューを開きながら提案した。
「俺、昔ここのチェーン店でバイトしてたんで、何が美味いか知ってますよ」
「そうなの? じゃあ美紀生君におまかせするわ」
「真由さんは食べられないものってあります?」
「モツ系はあんまり……。あとメインは聡たちが来てからの方がいいわよね?」
真由さんは、そこで「あっ」、と片手で軽く唇を押さえた。
「そういえば、さっきから『美紀生君』なんて勝手に呼んじゃってごめんなさい。いつも聡が話してたから、つい」
「あ、全然いいですよ」
俺は頷き、お返しに、社交辞令に乗せられて、のこのこと顔を出したことについて詫びた。
「こちらこそ今日は空気読まずに来ちゃって、すみませんでした」
「ううん、もし美紀生君が来てくれなかったら、私はずっと一人ぼっちで待つ羽目になってたもの。わざわざ来てくれてありがとう」
「……さっきの時点で、『まだ新宿』って言ってましたからねえ」
タイミングよく注文した一杯目が届き、俺達は乾杯をしながら、東京とは名前にあるものの、実際は隣の県にある遊園地からの帰途にあるカップルに思いを馳せた。真由さんは、一口飲んでからグラスを下ろし、それとわからないほど僅かに目を細めた。
「聡がああいうところに行ったり、そもそも出かけるの自体が好きだとは想像もしてなかったんだけど。最近いっつも亮子さんと出かけてるでしょ? よっぽど楽しいのね。今度は母にも会わせたいって言ってた」
俺は、思わず、亮子がその計画を知ったときの反応を予想し、(絶対付き合わないからな)と、メニューのページを勢いよく繰った。まさか今回のように頼んでは来ないと思うが、もし万が一、泣かれようが喚かれようが、今度こそ自分の面倒は自分で見させる、と固く決意する。
俺が働いていた頃と変わったのか、それとも店舗が別だからか、なかなか目当ての料理は見つからなかった。しかし、真由さんは、俺がオーダーに手間取っていることを気にする素振りもなかった。
「母は、離婚してから随分ひさしぶりに、オフィシャルに母親として扱ってもらえるって舞い上がってるし、わたしも聡に彼女に紹介してもらったのは初めてなの」
それから、真由さんは、雪が降り積もるように着実に、問いを発するための前置きを静かに積み重ねた。
弟とはずっと離れていたから距離のとり方がよくわからないのだと告白した。もう成人して就職もした弟に対して過保護すぎるとはわかっていても心配で仕方ないのだと。そして、無礼なのは自分だからどうか弟に対しては腹を立てないで欲しいと前置きをしてこう聞いた。
「美紀生君、どうして亮子さんは、あなたと住んでいたのに、聡と付き合うことにしたの?」
その声音には、真由さんが話し始めて以来、敢えてメニューに固定していた俺の視線を真由さんに向けさせる力があった。だが、顔を上げて目に入ったものには、全く勇気づけられなかった。
テレビで動物を題材にしたドキュメンタリーを見ていると、子を後ろに庇う母親という題材が繰り返し取材されている。画面のこちら側を見据える彼女達の目。それは、その場で相対している敵だけではなく、子の安全を脅かす理不尽な世界全体に対して鋭い怒りを孕んでいる。
真由さんは、社交辞令などではなくて、本気で俺に会いたかったのだと気付いた。この質問のために。まさか電車の遅延までもを仕組んだ訳ではないにせよ、俺を誘い出した以上、真由さんはどんな手を使ってでも今夜中に一対一で俺と対峙していただろう。そうして今は、偶然に生み出された絶好の機会だった。
「亮子は、ただの幼馴染の腐れ縁ですよ。亮子本人に聞いてもそう言うと思います」
俺は腋の下に嫌な汗が滲むのを感じながら答えた。雌ライオン、雌狐、雌鶏。それら全てと共通する眼差しが、俺を検分した。
「会う前も不思議だったんだけど、会ってからもっと不思議になったの。聡とあなたを比べたら、女の子は普通あなたを選ぶと思う。しかもずっと同居していたし、今でも仲が良いんでしょう? 一体、あなた達はどんな関係だったの?」
俺は一瞬目をきつく閉じた。適当にあしらえないか逡巡したが、洗いざらいぶちまける他に、この突き刺す光を湛えた目の女性の追及を免れる方法はなかった。皮肉なことに、ネタにでもなんにでもされていいのは亮子のはずだったが、実際に俎上に乗せられたのは俺なのだった。
俺は、今では着けていることを意識しないほど身に馴染んだブレスレットを外した。
「同居を始めた理由は、俺が自殺に失敗したからです」
左手首を顔の前に掲げて晒すと、真由さんは小さく息を呑んだ。
「俺より聡の方がよっぽどベターな人間ですよ。俺は自殺すら満足にできない。亮子は、俺を見張るために、ルームシェアしてくれたんです。少なくとも、最初は。最終的には、俺と亮子の関係って、俺があいつに対して『ハンカチ持った?』って確認するもんだったと思いますけど」
俺は、口に出す前は俺と幼馴染の間には何らやましいことは無かったということを弁解するためだったはずの、散漫かつ意味不明な文章を吐き散らした。
社会復帰してから、恒常的に、対人リハビリと名付けて、当たり障りのない楽しい空虚な会話を続ける訓練をしてきていたが、その成果も形無しだった。基本的に人間は皆くだらないと思っているが、その中でも自分は悪い部類で、聡は良い部類だと思っていることや、亮子との同居の経緯については説明もしなかった。
「これから言うことは、オフレコでお願いできますか」
口にしたその台詞は、念を押すためというよりも、これから喋るための準備運動に等しかった。その証拠に、俺は真由さんの反応をうかがいもしなかった。
「人間って大体二種類に分かれると思うんですよ。『ハンカチ持った?』って確認する奴とそいつに確認される奴。俺が前者で、亮子が後者です。ぱっと見、面倒を見られているのは後者だけど、本当は前者の方が後者に依存してる」
頭の中で、(後悔するぞ)と警報が鳴り響いていたが、俺は無視して喋り続けた。ダムが決潰したかのごとく、言葉は次から次へと口から押し出された。
俺は、ずっと誰かにぶちまけたかったのだ。罪にも値しない罪悪感を懺悔したかった。
「俺、バイクとかゲームとか、結構多趣味だったんですけど、どれも楽しめなくなっちゃって」
『趣味だった』。過去形だ。言葉の通り、ある日を境に、バイクの整備も、ゲーム機の電源を入れることも辛くなった。始めれば終わりが来る。その当然の道理が、心臓を圧迫して、叫ばせた。
(寂しい、寂しい、寂しい、寂しい、寂しい)
入院後の医師の診断によれば、俺が手首を切った原因は、ストレスや過労、又は『鬱』という空では書けもしない漢字一文字に集約されるようだった。しかし、俺の中では、それは名前のつけようもない、薄ぼんやりとした翳だった。部屋の隅に訪れる夕闇のように、いつのまにか俺の視界の端にわだかまっていた、目に捉えられずとも実体を持った気配だった。
意識を反らそうとすればする程、心臓は声高に啼いた。
(寂しい、寂しい、寂しい、寂しい、寂しい)
そうなるともうどうしようもない。抱き寄せられるように、あるいは自分が引き寄せているかのように距離は急速に縮まり、ある時突然、自分が『それ』に完全に包まれていることに気付くのだ。
日常生活に支障は出ない。少なくとも最初は、抑え込める。起床して、着替えて、仕事に行き、会話して、帰って、入浴して、寝る。誰にも変化を気付かせないように細心の注意を払っているから、周囲には以前より明るくなったとさえ思われているかもしれない。その間中、心臓は訴えている。動悸が早まり、視界が狭まり、呼吸が苦しくなる。会話の最中に、訳も無く涙が込み上げる。何もかもが億劫で、動きたくなく、食べたくもなく、眠りたくもない。意味の通らないテレビ番組を何十時間も眺め続ける。何もしたくないから。眠るのが怖いから。
そして、破綻する。
(そうだ、手首切ろう)
まるで、半日あれば確実に辿り着ける場所へと誘う宣伝文句のように、シンプルな結論だった。墨を一滴、水に落としたように、その思考は一瞬で拡散した。
俺の言葉で説明するのは、これが限界だ。明確な切欠があったわけではなく、ふとした思いつきにも似た衝動に押されて、俺は自分自身を傷付けた。そして、その結果、俺の家族をも傷付けた。特に俺の母を。
母は、納得できる理由を見付けようと必死になり、反面、俺はその愛情が不快だった。理解できもしない癖に、理解しようとしないで欲しかった。答えは無いと言い続けても、原因探求のための質問は繰り返された。いつしか俺と母は、同じ医師から同じ薬を処方されるようになっていた。神経が極限に張り詰めた状態で提案されたのが、幼馴染との同居だった。
俺は、しきりに乾く唇を舐めた。
「一緒に住んでみたら、亮子は昔とぜんぜん変わってなくて、呆れるほどダメな女だったんですよ。汚れた食器も洗濯も溜め込むし、片付けないし。もう我慢できなくって、料理とか共有スペースの掃除とかは俺が全部やりました。パンプス磨いてやったこともあります」
その頃の俺の甲斐甲斐しさと家事への打ち込みようといったら、亮子をして『美紀生ってば、スーパー家政夫だね!』という馬鹿丸出しの感想を述べさせるほどだった。
朝ごはんを作って食べさせ、亮子を仕事に送り出し、掃除機を掛け、洗濯をし、食器を洗っているうちに出来上がった洗濯物を干す。そうこうするうちに午前中が終わる。午後からは、自転車を漕いでスーパーのタイムセールや野菜の直売所に足を伸ばし、獲得した商品と冷蔵庫の中身とで夕食の献立を組み立てながら帰宅し、洗濯物を取り込んでアイロン掛けて畳み、折角だから手の込んだ料理に挑戦する。時には風呂場のカビ駆除やエアコンフィルターの掃除という大仕事を挟む。
それまで家事をしたことはなかったのだが、亮子に対する俺の見栄と、清潔な住空間と美味い食事に対する俺のこだわりが、未経験の作業に一心不乱に打ち込ませた。一日は瞬く間に過ぎ、俺の心臓は啼かなかった。
「そういう、洗濯とか、料理とか、やればやっただけ結果がちゃんと出る事がよかったみたいです」
しかし、多分俺に一番必要だったのは、毎晩帰宅して俺の作った飯を食べる人間の存在だった。『おいしいね』と間抜けな顔をして食べる亮子を見ると、次も作ろうと思えた。わざと嫌いな食材をアレンジして食べさせてみたり、新しい料理で人体実験をした後、お詫びに好物ばかりを並べた食卓にするという余裕も生まれた。
俺は、庇護者という立場を新しく手に入れたのだ。亮子を相手にしていると、口やかましく確認することは、山ほどあった。『シャンプーはまだあるのか』、『コートをクリーニングに出したか』、『昨夜言っていたファイルは忘れてないか』……。
「まるで、幼稚園児相手に『ちゃんとハンカチ持った?』って聞いてるみたいな、そんな感じでした。お互い、もういい年してんのに」
俺は、その、ダメな奴の面倒を見てやれる自分、という役割に耽溺した。
久しぶりに優越感を味わうのは快かった。俺は幾許かの自信と安心を取り戻し、それは緩やかな回復へと繋がった。俺は徐々に社会復帰をした。バイトを始め、新しい知人を作り、怖々ながら家族と会話するようになった。
「でも結局のところ、ハンカチ忘れたからって別に死なないじゃないですか。最近はペーパータオルとか備え付けてあるし。いや、ハンカチっていうのは、比喩なんですけど……。つまり、『ハンカチ持った?』って言われる側の亮子は別に俺がいなくても生きていける。大丈夫なんです。でも俺は違う。亮子を利用してたし、依存してた」
それが、俺が、亮子との、ある意味居心地が良すぎる同居を解消した理由だった。
俺は、ブレスレットを嵌めなおすと、ジョッキを持ち上げて気の抜けたビールを飲んだ。俺の長い話の間、徹底して聞き役にまわっていた真由さんは、何回も無意識におしぼりで指をフレンチネイルが施された爪先まで一本ずつ丁寧に拭いていた。お通しに提供されたナムルが、手付かずのまま、乾ききった表面を晒している。
タイミング悪く、痺れを切らした店員が注文を取りに来たが、俺と真由さんの雰囲気を見てとるなり平身低頭して引き返した。別れ話の最中だと思われたのかもしれない。
笑うところではなかったが、話し終わっていささか気持ちが高揚していた俺は笑ってしまい、真由さんも硬い表情を崩した。空気が和んだところで、真由さんは口を開いた。
「ちょっと違うかもしれないけど、誰かのために何かをすることで、やっと自分が保てるという感覚はわかる気がする。私も昔ブラジルに行ったときに、ひどいホームシックになって、なんでもないことで泣いたりして、何もする気になれなかったの」
そのときは、ベッドに倒れこむなり眠れるくらい働く予定があればいいって毎日思った。でも本当は、労働だったらなんでもいいというわけじゃなくて、特に自分を必要としてくれる仕事がしたかった。それか、せめて自分を必要としてくれる人が一人でもいれば、それで良かった。
「私も、多分、美紀生君の言う『ハンカチ持った?』って確認する側の人間なのよ。ずっと、聡に対してそう言ってたみたい」
しばらくの沈黙の後で、真由さんは低い声でそう言った。
「でもね、だからこそ聞きたいんだけど、『ハンカチ持った?』って言える相手を手放して、よかったの?」
軌道に乗った後の同居生活は楽だった。確かに俺の方が亮子に依存していたが、亮子自身も俺との生活から恩恵を受けていたのだ。自意識過剰かもしれないが、俺が亮子を手放さないと決めていたら、亮子はいまだに俺と一緒に暮らしていたと思う。しかし、俺は首を振った。
「ちょっと精神状態が落ち着いてから、自殺未遂した奴と付き合うメリットってなんなのか考えたんですけど。いつも優越感をもてることだな、って思ったんです。こいつは自殺しようとしたのに、死ねなくて、ぐだぐだ残りの人生を生きてるんだ、って。多分これから俺が付き合う奴は、皆そう思うと思った。それはその通りなんですけど、亮子にそんな気持ちでずっとそばにいられたら、俺が嫌なんです」
俺の返答に、烏龍茶のグラスを両手で囲みながら、真由さんは苦笑を浮かべた。
「……美紀生君と聡を比べたら、聡の方が扱いやすいことはよくわかったわ」
「そうでしょう?」
「でもねえ、美紀生君、『ハンカチ持った?』って確認してあげるのは、時々は必要な作業なのよ。それこそ海外のトイレにはペーパータオルなんて無かったりするし。少なくとも私はそう思うわ」
「でも海外の人ってそんなにハンカチ持たないですよね?」
「それはそうなんだけど」
「だから、俺の理想としては、逆に『ハンカチ持った?』って聞かれるくらい図太い人間になりたいんですよ。なかなか、うまくいかないんですけど。今日も結局亮子に頼まれて来ちゃったし」
愚痴ると、真由さんは、あはは、と笑った。先程までの『綺麗なお姉さん』風の演出も良かったが、砕けた表情の方が人間的には好きだった。
「じゃあ、これから二人で聡と亮子さんを心配させる方向でがんばりましょう。私、本当は、お酒大好きなのよ。でも弱いからすぐ寝ちゃって、聡に迷惑ばっかりかけるから、今日は控えようと思ってたの。でも折角だから好きなだけ飲んじゃう」
「おっ、やっちゃいます?」
俺がドリンクメニューを渡すと、真由さんは戯けてグラスをもう一度持ち上げた。俺も、真由さんを真似て泡が全部消えてしまったビールのジョッキを掴む。
二度目の乾杯と同時に部屋の入口近くの廊下で足音が入り乱れ、「遅れてごめんねー」と異口同音に言いながら、世界で一番有名な鼠のついた袋を抱えた友人と幼馴染が賑やかに入ってきた。
真由さんと俺はグラスを触れ合わせたまま、共犯者の笑みを交わした。