夜になるまで待って
ひさしぶりに定時に仕事が終わったので、うかれて電車の中から『今から帰る』メールをしたら、『三つ葉買ってきて』と即座に返ってきた。
何も言わなければ、おつかいなんて頼まれなかっただろうについていない。
だいたい三つ葉なんて入っていても入ってなくても食事の量に差はないし、わたしにとってはどうでもいいんだけど、美紀生はそういうところにこだわる。味がぜんぜん違うんだそうだ。
メールに気づかなかったふりをすることもちょっと考えたけれど、それで美紀生の機嫌を損ねるのもばからしいので買って帰ることにした。
でもアパートの近所のスーパーに寄るとちょっと遠回りになる。その分歩くのがもう面倒で、改札を出るなり駅構内のデパートに直行した。
デパートの地下に入っている食料品店は、高級住宅地の名前がついているだけあって、すべてのものがちょっとお高い。だけどめずらしいものを色々と売っているから、買うのは三つ葉だけのつもりだったのに、店を出てきた時にはついついチリの赤ワインとフランスのチーズとスペインのチョコレートまで袋に入っていた。
ああなんて意志薄弱なわたし。こういうことをするからダイエットは成功しないし貯金が溜まらないのだわ、と自分を軽く責めながらちょうど来たバスに乗った。
しかも終点近くのわたしのアパート最寄りのバス停に着くまでにほとんどの人が降りたのをいいことに、買ったばかりのチョコレートの包装紙をバリバリとむいてしまった。
ほんとうはぜんぶ食べてしまいたいくらいだったけど、はしっこをほんの少しだけかじるだけでがまんする。
流れてきたアナウンスにあわてて残りをつっこんでバスを降りると、街灯の下で美紀生がぽつんと立っていた。
「なにしてるの」
わたしが聞くと、「待ってた」と美紀生はわたしの手から荷物を取った。
「ちょっとこのまま散歩に行こう」
「いやだよう!」
わたしは空腹のあまり痛くなってきた胃を抱えて抗議した。
わざわざ歩きたくなかったから駅ビルに行ったというのに、これではまったく余計なお金を払った意味がない。
「おなかすいてるんだもん! 今夜のごはんはなんですか!」
「湯豆腐。じゃあさ、いったん家に帰って、あったかい飯食ってぽかぽかしてからまた外に出んの?」
チョコレートのカロリーをどう消費すんのダイエッター亮子、と美紀生はすごく嫌らしい顔をしながらスーパーの袋をのぞきこんだ。
何日か前の、今年に入ってからもう数十回目の今度こそ痩せる宣言なんて忘れていてほしかった。わたしは美紀生のむだに良い記憶力を呪った。
だいたい、わたしがダイエットをしなきゃいけないはめになったのは、美紀生が原因でもある。
わたしは基本的に食べ物にそんなに興味がない人間で、おいしい店を探して食べ歩きをしたり、あえて新しい料理に挑戦したりはしない。でも家でおいしいものが待っていたらそれはまた別の話で、ついついおかわりなんかもしてしまったりする。
そんなわけで、わたしの体重は食い道楽でしかも食べさせたがりの美紀生のせいで確実にふえたのだった。
「おっ、このワインこの前飲んでおいしかったやつじゃん」
美紀生は、わたしがついてこないとは思いもせずに、帰り道とは逆の方向へさっさと歩き始めた。
ガサガサと音を立てながらビニール袋の中を手探りして、「このチーズもおいしいよな」と勝手に上機嫌になっている。このパンプス歩きにくいんですけど。わたしは聞いてももらえないため息をついて、小走りで美紀生のとなりに並んだ。
こうしてわたしは夜の散歩に連れ出されたのだった。
ここから都心に出るにはバスと電車で一時間以上かかる。駅前は夜遅くまでにぎやかだけど、一番近いコンビニまで十五分、というわたしのアパートのあたりの夜は暗くて静かだ。そんな住宅街の中を美紀生はたまにこうやってわたしと散歩したがる。
だいたいいつも三十分くらい。特に行く場所もルートも決めないで、ただよってくる匂いからその家の夕ごはんを当てたりしながら、わたしたちはぶらぶらと歩く。二人の間には、ずっときちょうめんに腕一本分くらいのすきまを挟んでいる。手をつないだりは、絶対にしない。
わたしと美紀生は一緒に暮らしている。そしてお互いのことを親の次くらいによく知っている。けれど単なる幼なじみだ。二階からお互いの家が見えるくらい近所で生まれて、保育園から高校まで同じだった。
美紀生は小さいころからシャープな印象のきれいな顔をしていて、わたしはどっちかというと丸顔で地味顔。最近は髪がきれいだとほめられることもあるけれど、これは実は元ヘアスタイリストの美紀生によるトリートメントのおかげだ。
中高と陸上部でクラスの中心でよくもてていた美紀生と、美術部でクラスの端っこで気の合った同性の友人数人とばかり話していたわたし。近所に住んでいるという接点がなければ会話することすらなかったと思うけど、わたしたちはまあまあうまくやってきた。というより、美紀生がわたしの面倒を見ていた。
わたしは昔から、ついうっかり、ということばかりで、ひどいときには週に三回、美紀生に家に忘れたお弁当を届けてもらったことがある。
まったく美紀生というのはあの頃から何をやらせても器用な男で、勉強やスポーツ以外もよくできて、絵を描かせれば美術部のわたしより上手だった。
わたしの母はそんな美紀生が大好きで、何かあればすぐ頼りにしていたので、美紀生がそんな貧乏くじをひくことになったのだった。
でも、今は、逆だ。
わたしは美紀生のお母さんから頼まれて美紀生と同居している。
わたしは隣を歩く背の高いシルエットを見上げた。
単なる茶髪というのはもったいないくらい微妙な色合いにきれいに染めた髪を肩のあたりでゆるく結んで、ただ人気のない住宅街を歩くだけなのになんだかびらびらした布がたくさん縫いつけられたジャケットを着ている。左手首にはいつも革のブレスレット。その下には薄くなってきた傷痕がある。
去年の春、美紀生は手首を切った。
だれもが驚いた。もちろんわたしも。
そのころ美紀生は雑誌に何回も載ったヘアサロンで働き始めて二年くらいで、美紀生のことを指名してくれるお客さんもちょっとずつ増えてきていて、お店のひととの関係も悪くなくて、付き合っている相手はいなかったけれど一緒に遊んだりする友達はたくさんいて、それでおしゃれな格好をしてよく遊びに行っていて、だれが見ても毎日充実しているみたいだった。そして、その日もいつもの時間に仕事に行って、しゃべったり笑ったりしながらお客さんの髪を切って、お店が終わった後の飲み会をそつなく断って、そしてまっすぐ家に帰ってお風呂場で手首を切った。ざっくり。
それで、初めてにしては結構うまく自殺を成功させそうになって、という言い方も変だけど、とにかく美紀生は病院に運ばれてから何日か入院することになった。その間も、その後も、美紀生は自殺しようとした原因を言わなかったし、だれにも心当たりはなかった。
とにかく美紀生は退院した後は実家に帰っていたのだけど、しばらくすると一人暮らしに戻りたいと言いだした。なにをしていても親にずっと見守られている状況だったらしいから、それはそうだろう。で、もちろん美紀生のご両親は反対した。それもそうだろう。
大切な一人息子との激論の末に、美紀生のお母さんはわたしに連絡をとった。ちょっと考えてみると、わたしはそこで怒ってもよかったような気がする。なんてことを頼むんだ、って。
でも、待ち合わせのホテルの喫茶店で先に座っていた美紀生のお母さんを見たとたん、わたしはショックを受けてしまってそれどころじゃなかった。
小さいころ、授業参観なんかがあると美紀生がうらやましかった。だって後ろに並んだお母さん達の中で、美紀生のお母さんはいつも一番素敵な服を着ていて綺麗でやさしそうで、わたしの憧れだった。
それなのに、ひさしぶりに会った美紀生のお母さんは、顔に骨の形がくっきり浮き出るほどげっそり痩せてしまっていて、しかもすごく老けていた。
そんなになってしまったお母さんにすがりつかれるように頼まれて、ついわたしは「美紀生がそれでいいならいいですよ」なんて口走ってしまったのだ。
美紀生にしても、いい年して親にそんなことを頼まれるなんて嫌だっただろうと思う。しかもわたしたちは幼なじみだけれど、逆に言えばそれだけでしかなくて、親友とかじゃ絶対にない。お互い就職してからは連絡だってあんまり取ってなかった。
でも、指輪が指先までずり落ちるくらいゆるゆるになってしまった美紀生のお母さんが選んだのはわたしで、あのとき美紀生には二つの選択肢しかなかった。お母さんか、わたしか。
だから、美紀生も、「迷惑かけてごめんな、よろしく」なんて笑って、わたしに頭を下げた。
なんだかなあ。そんなわけでわたしたちは同居することになったのだった。
わたしはそれまでワンルームに住んでいたので、美紀生と一緒に住むことになると、まず引越しが必要だった。
その引越し先をどこにするかとか、家賃はどれくらいまで払えるかとか、ユニットバスじゃないと嫌だとか、美紀生と決めなくちゃいけないことがたくさんあって、とにかく最初は大変だった。別に同じ部屋じゃなくていいんじゃないかとも思ったし、同居自体をキャンセルしたくなったことも途中であったけど、わたしはがまんした。美紀生のお母さんのこともあったし、二人で家賃を出し合うほうがいい部屋を借りられるとかそういった打算もあって。
なんだかんだあったけれど、いざはじめてみると美紀生との暮らしは悪くなかった。
もちろん最初は自分以外の人間の気配がするというのだけでストレスだった。でも、しばらくすると、わたしは平日の日中は仕事でいないし、逆に美紀生は土日にバイトを入れていることが多いし、寝室は別にしているしで、実際一緒にいることがほとんどなかったせいもあって、慣れてしまった。しかも料理に突然こりはじめた美紀生がわたしの分までごはんを用意してくれるようになったのが、とてもありがたかった。家に帰ったらあったかいごはんがあるってすばらしい。
というわけで、わたしたちがちゃんと会話をするのは、おたがいの時間が合ったごはんのときと、今日みたいな夜の散歩のときだけだ。
だから、わたしには美紀生が元気になっているのかわからない。
ほんとうのことを言ってしまうと、前とちがうような気がするのと、まったく変わっていない気がするのがちょうど半々だ。
そう考えると、物心ついたころからの付き合いだというのにふがいないと思う。だけど実の親にさえわからないのにわたしがわかるはずがない。
だけど、とりあえず一緒に暮らしてからのほうがよくわかったことがある。美紀生は、うるさい。
「今日は、お前に聞きたいことがあります」
公園の横を通り過ぎながら、美紀生は突然あらたまって言った。
わたしは思わず身構えた。だって、どうしてお風呂に入った後で排水口にたまった髪の毛をひろわないのか、とか、どうして買ってきた牛乳を玄関に出しっぱなしにしておいたのか、とか、そういうことを神経質に聞いてくるときと同じ声だった。
美紀生は、そんな口調で話し始めたわりにちょっと迷って、あのさあ、と頼りない前置きをしてから聞いてきた。
「お前ってまだ処女なの?」
わたしはとりあえず美紀生を殴った。力いっぱい。
もう一発くらいやって、それからヒールで踏んでも当然だと思ったけれど、一発目で軟弱な美紀生が体を二つ折りにしたのでやめた。
「なんなの!? ばか!」
「りょ、亮子、ちょっと声小さく」
「だれのせい!?」
とは言ったものの、わたしは叫ぶのをやめて深呼吸した。なんで美紀生にばれたのか考えてみようとしたけれど、あまりに突然すぎて考えがまとまらない。まあ同居しているんだから当然なのかもしれない。ただふつうはそういうことを聞かないだけで。
指を鳴らすわたしの横で、美紀生は横腹をさすりながらぼやいた。
「グーかよ……、せめて平手にしてほしかった……」
「やっぱもう一発いっとく? それとも警察呼ぶ!?」
「すんませんでした!」
美紀生は公園の中に入ってベンチに座ると、ちょいちょいと指先の動きでわたしを呼んだ。ちゃんと側に行ってやるわたしって、ずいぶんおひとよしだと思う。
「二十四で処女ってちょっとおかしくない? 大丈夫?」
「なんでわたしがそうだっていう前提で話しするわけ!?」
「だって、違うの?」
「うるさいな!」
わたしはいらいらしながら、どすんと美紀生の横に腰かけた。
しまったこれではイエスと言ったのと変わらない。でも、美紀生はわたしを笑う様子もなく、ほんとうに不思議だという様子で聞いてきた。
「なんで?」
「なんでとか、べつにないよ……」
「ほんとに? どっか悪いとかじゃなくって?」
「ちがう」
「性欲ないとか?」
セイヨク。なんてことを聞くんだとわたしはげっそりしたが、もうあきらめて正直に答えた。ここまで直球でこられると、嘘をつくのもめんどくさい。
「あるよ。たぶん、ふつうに」
「じゃあどうして?」
「……どうして、って言われても……」
わたしは考えた。わたしだってこれまでに何回かデートをしたことだってあるし、キスだってしたことはある。でもそこまでだ。それ以上の関係になったことはない。
美紀生はその理由を聞いてるわけだけど、またなんでそんなことを聞かれたり答えなくちゃいけないんだろうか。だいたい、美紀生はどうして牛乳をしまいわすれたかとか、いっつも「どうして」ばかりを聞くけど、特に理由があってそうするわけじゃないことぐらいわからないものだろうか。いや牛乳とわたしのセックスを同レベルにするつもりはないけど。もう答えんのやめようかな。
「だって、お前ってそこまでかわいくないわけじゃない? っていうか人並み程度の顔はしてるし、性格だって悪くない? ……と思うし、なんか理由でもあんのかな、って」
疑問形をありがとう、美紀生。
わたしはもう怒りを通りこして、この無神経な男がかわいそうになった。もうちょっとスマートな人づきあいをする人間だったと思ってたんだけど。
これは、とりあえず何か答えないと、ずっとつきまとわれる。さっきも言ったように、美紀生は、うるさいから。この場合のうるさいっていうのは、細かくって神経質でしつこいっていう意味だ。
「なんでかなあ」
わたしは小声で言った。
わたしとセックスをしたいというひとはこれまで数人いたのだけれど、なんとなくめんどくさくて先延ばしにしている間に全員いなくなってしまった。そして、わたしの方としてもいなくなられて追いかけるほど好きなひとがいなかったので、そのままにしてしまったのだ。とすると、これまでに好きなひとがいなかったというのが、「どうして」の理由なんだろうか。そう、実はわたしは恋をしたことがないんだと思う。カッコいいなとか、いいひとだなって思うことはあるけれど、友達が言う胸がきゅんとするとか、ときめくとか、そういう楽しそうな状態になったことがない。すくなくとも人間相手にはない。かわいい猫とか雑貨とか見るとすぐテンションあがるけど。心臓どきどきするけど。もしもあれがときめきなのだとしたら、人間以外と恋に落ちるのはかんたんだ。
といっても別にわたしは、初めてのセックスとは恋に落ちた相手とじゃないとやだ、とか夢見がちなことを思っているわけじゃない。だから、これまでのひとだって、もう一押しか二押しくらいしてくれれば、やったんじゃないかと思うんだけど。恋愛としての好きはなくても、お付き合いをするくらいは好意をもっていたわけだし……。
ぐだぐだ考えてはみたものの、結局「めんどくさかった」という理由しか思いうかべられない気がして、わたしはなんだかもう色々なことにがっかりした。思わず空を見上げてしまうくらい。
今夜は風も雲もなくて、星がいつもよりたくさん見える。その中でもひときわ明るい星が気になって見ていると、つられて顔を上げた美紀生も同じことを考えたらしい。
「あそこの一番明るい星ってなんだっけ?」
「……金星かな? 金色だし」
「でもさ、金星って『宵の明星』とかっていうじゃん。だから見えるのは夕方で、この時間にはもう見えないもんだと思ってたんだけど」
「そうなの? じゃあ、すごくえらいひとの星ってことで」
「は? どゆこと?」
「ちいさい頃にね、死んだら星になるって言われなかった? だから、あれはものすごくえらいひとの星」
「なんだそれ。……まあいっか。俺が死んでもあんな明るい星にはならないと思う」
美紀生は突然どきっとするようなことを言った。
自殺未遂とかしておいて、そういうことを言うのはやめてほしい。わたしにはうまくごまかせないし、そういうことを聞く心の準備だってない。人騒がせな。
なんとかうまいことを言おうとしたけど、ひねり出せたのは「そもそも星になんてならないと思う!」という、どうしようもない一言だった。だってほんとに星になるわけないし。
そっかなー、と美紀生はいやになるくらい明るい声で言った。陰がまったくなくて、聞いているとどこか痛くなるような声。
「じゃあ、俺は意地でも星になるわ。で、星になったら亮子のことを見守ってやろう」
「なにそれいらない」
「瞬殺かよ!」
なにがおかしいのかわからないけど、美紀生は心からおかしそうに笑った。それから、散歩に誘うときよりも、もっと軽い調子で聞いてきた。
「じゃあ俺としてみる? セックス」
なにがどうなって「じゃあ」なのかわからない。
わからなかったけど、わたしは真剣に美紀生の提案したことを考えてしまった。そう悪くもないような気がする。
たしかに二十四才にもなってまだ処女とか、わたしだってたまに悩むというかどうしようか考えることがある。二十才になったときだって考えたし、その次の年だって。そして正直、考える回数は年々ふえてきている。というか、わたしが美紀生との同居にOKした理由のひとつはそれだったりする。この年齢で男のひとと同居していたら、ふつうは彼氏と同棲してるんだと思う。だれもわたしが処女だとは思わない。
実は、美紀生にはじめて会ったわたしの友達が「亮ちゃんいいねえ、彼氏かっこよくて」とか言うたびに、わたしは勝手に「えーでも結構めんどくさいよ、神経質で」とか答えていた。自殺未遂までしてるんだよ、というのを、いつも心の中で付け加えながら。
美紀生はほんとうにめんどくさい。
でも、ほんとうに、わたしはいつも美紀生が自慢だった。格好いい美紀生。人気者の美紀生。知り合いに見られるとうれしかった。もっと見てほしかった。そんな美紀生が、お弁当を届けるなんてつまらない用事を地味なわたしのためにするとこととか。わたしと一緒に住んでいるところとか。
つまりわたしは美紀生をそういうふうに利用していて、だから、それがさっき美紀生の質問に答えることにした原因の一つかもしれない。うしろめたくて。
で、美紀生。
美紀生は結構女の子と遊んでいたようだし、それなりにうまいんじゃないだろうか。初めての相手としては悪くなさそう、だけど。だけど。
わたしは心を決めた。
「なにそれいらない」
「気持いいくらいの切り捨てっぷり!」
とたんに美紀生は吹きだした。いくら周りの家が雨戸を閉めているといっても、夜なんだから静かにしたほうがいいと思う。というか、さっき静かにしろとか自分で言ったくせに。
わたしは立ち上がってスカートを払うと、しかたなくもう一言つけ足した。
「とっても魅力的なお誘いなんだけど」
「思ってもねえ癖に」
「そんなことないけど」
わたしはさっさと歩き出した。今度は美紀生がついてくる番だ。
枯れ葉の匂いがする秋の夜の空気に、パンプスのコツコツという音と、スニーカーのパタパタという音、それからビニール袋がガサガサという音がまじる。
美紀生はわたしに追いつくと、あのさ、とまた話しかけてきた。
「なに?」
これでなにかつまらないことを言い出したらもう一発なぐってやろうと思いながら、わたしは美紀生をにらみつけた。おなかがすきすぎてイライラする。ここまで付きあってやった自分をほめてやりたい。
「俺の友達で亮子に会ってみたいっていう奴がいるんだけど、会ってみない?」
わたしは、美紀生とは逆の方向に顔を向けた。ここの家にはよく吠える犬がいたんだけど、いつのまにかいなくなった。引っ越したのか、犬が死んだのか、どっちだろう。どっちにしろ、いなくなってくれてせいせいする。わたしはさきほど言おうかと思った言葉を頭の中だけでくりかえした。
ねえ美紀生、わたしは美紀生が大事だから断るんだよ。
言わなくても知っておいてほしいと思ったけれど、美紀生は気づきもしないかもしれない。でも、やっぱりわたしが口にしたのは、ぜんぜん違うことだった。
「どんなひと?」
「いい奴だけど、服の趣味っていうか、ネクタイの趣味が最悪。NHKのアナウンサーぐらいひどい」
「それは……どうかな……」
わたしは、悩んでいるかのように言ってはみたけど、ちゃんとどこかで知っていた。
これからアパートに帰って、やっとお待ちかねの夕ごはんを二人で食べる。湯豆腐をつつきながら、わたしはもっとそのひとについて質問して、美紀生はそれに答える。それで、わたしはたぶん美紀生にそのひとを紹介してもらう。もしかしたら付き合うかもしれないし、付き合わないかもしれない。でもとにかく、そうしてわたしたちは今のことを上手に最初からなかったことにする。わたしはもう美紀生を利用しない。
ねえ、そして美紀生もそうだね。
となりで美紀生のスニーカーがたてるやわらかな音を聞きながら、夜でよかった、とわたしは思った。ほかに人通りもないし、ぽつぽつとある街灯と家の明かりだけじゃまだ暗い。だれにも、わたしの表情を見られずにすむ。
これが、わたしと美紀生の共同生活の終わりのはじまりだった。
わたしにも、自分がどんな顔をしているかわからなかった。




