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わたしたちはまだここにいる

 待ち合わせはいつも駅でする。

 私の通勤先から家にバックする方向に三駅、聡の大学からモノレールで七駅。都心からは離れているけれど、JRとモノレールが交差しているせいでそれなりの繁華街が駅前に広がっているから飲みに行く場所には困らない。

 聡は当初こそ不便だとかモノレールの運賃が高いとかこぼしていたが、そこは食事の支払いを持つ側の当然の権利をもって黙らせた。それに聡も大学の近くで飲んでいたら知り合いにぶつかるかもしれないことに思い至ったようだ。

 どうも私達の関係を説明するのは困難ではないにしろ面倒で、それよりはお互いのいつもの行動範囲から少し外れたところで会う方がいい。

 だから私達は数ヶ月に一度、この駅にやってくる。


 混みあう車内からほうほうの体で吐き出されると、私は階段を足早に上った。駅舎の屋根が半透明の素材でできているせいで、差し込む夏の夕日に赤く染められたうえに熱された空気が身体中を圧迫する。おまけに仕事帰りの人の波。こんなに大勢の人間がいったいどこに行こうというのか、と毎度のことながら自分を棚に上げて思う。

 やっとのことで自動改札での押しくらまんじゅうから解放されると、縦にも横にも大きい体を見慣れない服に押し込んだ聡が改札口の斜め前で旅行代理店のチラシを眺めていた。こちらに気付かないのをいいことに、少しだけその様子を観察した。腕にかけた灰色の背広が今にも床に擦れそうだ。

「めずらしいね、この格好」

 わざわざ遠回りをして近寄り、声を掛けざまに白いYシャツに包まれた背中を叩くと、掌の下で聡の体がびくっと反応した。慌てて振り向いた聡は眉根を寄せて、私を見下ろすとぶっきらぼうに言う。

「着替えてくる時間がなかったんだよ」

「なかなか新鮮でいいよ」

 私がへらへらと笑うと、遅刻するって連絡くれりゃあ着替えてきたのに、と聡は余計に不機嫌になった。照れ隠しが下手なところは相変わらずだ。

「七五三とか言うつもりだろ」

「言わないよ、安っぽいなとは思うけど」

「それはしょうがないだろ!」

「あとネクタイの趣味最悪。取っちゃいなさいよ」

 ゆるめられて首からだらりと垂れ下がっているだけの代物を指すと、聡はおとなしくそれを外した。少し肩を落としてこちらを見るのに、頷いてOKサインを出す。

「今日は何が食べたいの?」

「ん。肉」

 歩きながら聞くと、簡潔な答えが返ってきた。

 若い男の子の食欲というのは気持ちのいいものだと思うが、それほど資金が潤沢にあるわけでもないので、近くの焼肉チェーンで我慢してもらうことにする。

 運よく待たずに冷房の効きすぎた店内に案内されて、まずは生ビールで乾杯した。肉を焼くのは腕まくりをした聡に任せて、私は小鉢で出された胡瓜の漬物をつつくことにする。

「就活?」

 え、と聞き返して、聡は流れてきた煙にごほごほとむせた。お互いスーツをクリーニングに出す羽目になっちゃったなあと考えながら、私は言いなおす。

「その格好、就活でしょ? 仕事は何がしたいの?」

「……わかんね」

 傍らのジョッキを一気に空けて、聡はわずかに赤らんだ目尻のまま瞬いた。私はお店の女の子に向かって、追加注文のために手を上げた。

「今はまだ様子見で、色々見てまわってるだけだし」

 全然手ごたえもないし、と聡は肉をひっくり返した。

 油が落ちてもうもうと煙が上がり、聡は焼き上がりに満足したように頷いた。取り皿を差し出すと、何も言わないでも私の好きなカルビを入れてくれる。

 二杯目のビールジョッキを傾けながら聡が私の体験談を聞きたがったので、箸を盛んに動かしつつ私は記憶を辿った。お互いの酒や食べ物の好みは、ほぼ手探りの状態から徐々に覚えている最中の私達だったが、いままでこんな話はしたことがなかったのだ。普通だったら今さらする話でもないだろう。


「私の時は就職難のうちの就職難、特に女子は氷河期時代といわれた頃だったからねえ。就職できただけで御の字でしたよ」

 特技の欄に逆立ちって書いた子が面接のときに『じゃあしてみて』って言われるような時代よ、マジでも特技が逆立ちってのもありえなくね? そんなこといったって特技なんて普通ないじゃない、あグレープフルーツサワーお願いします。だらだらと話していたうちの一言を、聡が突然聞き返した。

「え、逆立ちって書いたの?」

「誰が! たしか、ふつうに、ピアノとかだったんじゃない」

 酔っ払って口が軽くなった者同士の会話にふわふわと笑いながら、私は手を伸ばして聡をこづいた。

 こんな風に飲んでいる私を勤め先の人が見たら驚くだろう。私はお酒が好きなわりに強くない。許容限度を超えたらすぐに眠くなってしまう。だから醜態をさらすのが嫌で、飲み会では乾杯の一杯目の後はずっとソフトドリンクにしている。

 しかし聡とだと、最悪でも送ってもらえるという安心感があって、ついつい飲みすぎてしまう。

 それでも今はまだ、口が軽くなった挙句に些細なことにも笑えるという酔っ払いの初期症状の段階だな、と口調の割には冷静に頭で分析していた。

「そんな痣あったっけ?」

「ん? うん」

 急に聡が聞いてきたのに生返事をして、私は右手で左の二の腕のあたりをこすった。それから左手で右の肘を掴んだので、丁度自分を抱きしめたような格好になった。

「寒い?」

「うん、まあちょっとね」

 私はいい加減にごまかすと、自分の右手をじっと見た。

 お酒のせいで、右手の甲に小さな丸い斑点が真っ赤に浮き出ている。

 聡は痣といったが、本当はそうではない。皮膚が円形に脱色されて滑らかになっているその部分は火傷の痕だ。

 以前、他の人に聞かれた際に、火の点いた煙草を押し付けられたのだ、と言ったら笑い飛ばされた。その時の私の表情が悪かったらしい。真面目に答えたつもりだったのに、どうしてか私の顔はにやけたようになってしまっていたのだから仕方がない。

 といっても、私はそれを信じてもらいたかったのだろうか。聞かれたから答えただけ、というのがどうも正しいように思える。


 火傷の原因となった煙草を吸っていたのは母だ。でも私にはそれを私の手に押し付けたのが本当に母だったのかわからない。


 そのとき母は台所のカウンターにもたれかかって煙草をふかしていた。スツールの脚に自分の脚を中途半端に絡め、上半身を微かに揺すりながら、眼は中空にじっと据えたままでいた。私は彼女にこちらを見て欲しくて、伸び上がって袖を引っぱっていた。 ねえ、聞いて、今日は学校で。

 母は突然、唇から離した煙草の先端を押し付けたのだ。私の右手に。子供特有の熱を持った、小さく柔らかい手だったことだろう。手の甲にえくぼができるほど丸々としていたかもしれない。

 私は何秒かの間じっとされるがままになっていた。刺すような痛みを感じたのは、母が手を離した時だ。母はその時やっと真っ青な顔をして私の顔を見た。私は何か言おうとして、自分の口からあふれた叫びに度肝を抜かれた。言葉ですらない、それは獣の咆哮だった。

 母は私をひったくるようにして横抱きにすると風呂場に連れて行った。シャワーを全開にして、冷水を手だけではなく全身に浴びせかけて、私を顔までびしょ濡れにした。きっとその水滴の中には母の涙も混じっていたことだろう。私はそう信じている。

 ごめんね、と母は謝った。何回も何回も。もうそれが謝罪の言葉として意味をなさなくなるまで、彼女は繰り返した。

 その後、手の甲には黄色い油っぽい軟膏が塗られ、大袈裟なほど包帯でぐるぐる巻きにされた。その上から氷嚢を当てた後に痛み止めの錠剤を飲まされ、とどめに私はアイスクリームまでもらった。布団に横になって、右手を顔の横において眠ろうとすると、うつらうつらしはじめた私の目に、白い包帯に包まれた不恰好な手はまるで異物のように映った。

 確かに火傷の原因となった煙草を吸っていたのは母だ。でも私にはそれを私の手に押し付けたのが本当に母だったのかわからない。

 彼女を乗っ取った、あの一瞬の激情がなんだったのか、私はいまだに知らない。

 あれが起こったのは、両親が離婚する直前のことだ。


 正直に言うかどうか、私は逡巡した。

 きっと私がどんなににやけた顔で言っても、聡はそれを真正面からとらえて、次に、誰にされたのかと聞くだろう。そうしたら私は答えてしまう。そうしたらきっと、と仮定ばかりを積み重ねてから、私は口を開いた。

「いぼを取ったのよ」

「いぼ?」

「そう、こんなところにあると目立つでしょ、だから」

 へー、と聡は気のない返事をして、次の瞬間にはもう聞いたことすら忘れてしまったようだった。

 頬杖をついて、私はまだ旺盛な食欲を見せている聡をじっくりと眺めた。首も腕も腰まわりも太くなった。以前はなかった喉仏も、ヒゲの剃り跡にも慣れた。身長を追い越されたのは何年も前のことだ。一緒に住んでいた頃と現在の共通点より、変わったところを探すほうが容易かった。先程、駅で観察していた時は少しだけ泣きたいような気分になった。

「あのさ、ネクタイ、そんなひどかった?」

 お店の女の子が空になった皿とグラスを下げていった後、唐突に聡が聞いた。

「うん、ひどい、最悪」

 私が即答したのに聡は頭を抱えた。

「親父のを適当に借りたんだけど。やっぱだめか。まあそうだよな、昔だって母さんが親父のネクタイ、毎朝選んでたもんな」

「うん、お父さんのはダメだよ」

 答えながら私が考えていたのは、やっぱりさっき嘘をついてよかったという事だった。あと、「母さん」と「親父」の差について。

 きっと聡は、母が私の手を焼いたということを知ったら自分の知らなかった彼女の一面に驚くだろうし、それ以上に、そんな行動をとってしまったという事実について母に失望するだろう。そして私が母と暮らしていた間にそんなことが他にもあったのではないかと考えて、母に引き取られた私に対して妙な引け目を感じるのではないか、とまで、先程嘘をつく前に予想した。

 あれ以降あんなことはなかった。たったの一回だけの、しかも他人にはにやけたような表情で答えてしまうほどの事実。たとえ聡が母に理想と呼べるほど大層な期待をもっていないとしても、なるべく知ってほしくなかった。聡に覚えていてほしいのは、もっと他の事だ。

 たとえば、母が父のネクタイを毎朝選んでいたことや、父が私達をザリガニ釣りに連れて行ったこと、私のピアノの練習中に聡が横で鍵盤をめちゃくちゃに叩いて邪魔をしたこと。ちゃんと私達が家族として寄り添っていた頃の記憶。

 父と私は年に一回会うか会わないか。母と聡が会う頻度はもう少し高い。私と聡は数ヶ月に一回、こうやって駅で待ち合わせて飲みに行く。口にはしないけれど、私はとても楽しみにしている。聡もそうだといいと思う。まとまらない思考を抱えこんだまま、ずるずると姿勢を崩し火照った頬を机につけた。焦ったような聡の声が聞こえる。  

 かわいい、かわいい、私の弟。

 今度まともなネクタイを買ってやろうと決めて、私は喉元まで自己満足で一杯になったまま唇の端を上げた。

 手の甲を焼いた痛みは遥か遠く、それを思い出す代わりに机を微かに揺らす電車の振動を数えた。アルコールで血管がどくどくと脈打つのと同じ速度で遠ざかっていく。

 そろそろあれに乗って帰らなきゃと思いつつも、すべてが億劫になって目を閉じていると、しょうがないなあという溜息交じりの声と共に聡が私に背広をかけてくれた感触がした。


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