告白Tシャツ
僕は就職したてのフレッシュマン。
でもフレッシュでいることが出来たのは3ヶ月程度で、夏も終わりを告げようというこの頃は社会の厳しさを痛感しつつ、酷暑の入り交じった荒波に揉まれながらも必死に食らいついている。
この通勤電車もその荒波の一部だろう。
「次はミナミカタヤマグチ〜」
車内アナウンスがオアシスの始まりを告げる。
この駅から毎日乗って来るあの人。
長い黒髪を束ね、背筋が跳ね上がるように伸び、この暑さに表情ひとつ変えず、必ず同じ扉から搭乗する。
視覚から癒しを得られる、この人と同乗している区間を僕は“オアシス”と呼んでいた。
僕がこの人の存在に気付いたのは、2ヶ月程前のことだ。
僕の目に初めて飛び込んで来た彼女は神々しい程美しい刺激を放ち、僕の脳に仄かに香るシグナルを送る。
この刺激からの香りのシグナルは暫く続き、ある時期から特別なシグナルへと変化していった。
僕が乗る駅は『シンカタヤマシンデン』で、彼女の利用している『ミナミカタヤマグチ』のひと駅手前。
だから、僕と彼女は割と近い位置にポジショニングする。
しかしさほどギュウギュウ詰めではないこの路線は彼女と僕が密着するような都心の夢は見れない。
しかしある日、夢は叶った。
地元中学の行事だったのだろう。ワイワイガヤガヤと多くの中学生が乗り込んで来た。
僕の第一印象は「うわっ」だった。
「一般の方もみえるから、静かに乗車しなさい」
引率の先生の声が聞こえるが、先生がどこにいるのかすら分かりにくい。それほど生徒が多いのだ。
何班かに分けての乗車らしく、一度に無理矢理詰め込まないところは多少考えてはいるのだが、やはりラッシュ時は避けて欲しいと社内の80%以上が同時に同じことを考えたに違いない。
ちなみにこの中学は僕の中学時代に部活動で絶対に勝てない凄い速い奴のいた、悪い思い出しかない学校だ。要するに嫌いな学校だ。
それにしても、ギュウギュウ詰めにならないはずの路線がこの日は乗車率が飛躍的に上昇し鮨詰め状態。
満員電車を初体験する中学生の青い声が社内に響く。こんな状態で通勤するとは思ってもみなかった。
背中には柔道部のような脂身いっぱいのイガグリくんが、左右にはモテそうなサッカー部員か野球部員がいた。暑苦しい。
そして目の前には……
束ねた黒髪が僕の鼻をかすめる。
お察しの通り、シャンプーの香りが鼻の中を駆け巡る。
夏の暑さは肌を多いに露出させ、僕の腕には柔らかな肩が密着する。
僕が学生時代に短距離で鍛えた大腿四頭筋には、気持ちの良いおしりが付かず離れずいい具合に触れている。
特殊な電気信号が走るのを感じた。
普段は視覚から刺激を受けていただけだったのが、急にあらゆる感覚の刺激を受けたことにより僕の脳は新しく活性した。
この日から、“オアシス”は心休まるどころか更に刺激を感じて過ごすことになった。
彼女が乗り込む前から鼓動は激しくなり、乗り込んだ瞬間に車内の温度は僕の体温により上昇した。
目が合うことを恐れ、彼女の顔は暫く見ていない。
兎に角、彼女は必ず同じ電車の同じ扉から搭乗し、僕もそれに合わせるように毎日同じ電車の同じ扉で待つ。
そして毎日、心を激しく震わせ、胸を締め付けて心地良い痛みを楽しんだ。
こんな状態が幾日か続いたが、これでは流石に身がもたないと思い、告白とやらをしてみてはどうかと脳内自分会議で決定した。
さて、この告白というモノだがどうしたものか。僕は実は告白と言うものをしたことがない。
高校時代に運良く陸上部の後輩からそれとなく言われ2年程付き合ったことがあるが、それ以外には男女交際に関わる経験が一切ないのだ。
更に電車の中という難度の高いシチュエーションが僕を苦悩の男とさせる。
順を追って考えることにした。
まず、車内か車外か。
これは考えるまでもない、外だ。間違いない。
ではどこで。
彼女が降りる駅、これはどこか分からない。僕が降りるよりも先だ。どこまで行けばいいのか分からないから、これはない。
乗って来る駅は分かる。だったら僕がここで待つしかない。間違いない。
次はなんと言うか。
彼女も僕の顔くらいは憶えていてくれているだろう。毎日同じ電車に乗っているんだ。
いや、待てよ。僕は毎日同じ電車の全ての顔を知っているのか、否、憶えていない。
ならば、まずは自己紹介からせねばなるまい。間違いない。
しかし、ホームについてから電車に乗るまでの短い間にどれだけの言葉を伝えられるだろうか。
出来る限り簡潔に、それでいて僕の想いを伝えられる言葉、それを考える、いや編み出さなくてはならない。間違いない。
よし、思い立ったが吉日だ。明日の朝に決行しよう。
そうなれば今日は定時で帰宅し、告白文を編み出すことに集中しよう。
一世一代の大仕事、簡潔に思いを告げる言葉を編み出し明日を迎えることとした。
翌日、僕は1時間早く起きた。いや正確には殆ど寝ていない為、1時間早くに行動を始めた。
そして毎日ミナミカタヤマグチ駅を7時45分に発つ電車に乗る為に、ホームにやってくるあの人に向けたメッセージを携えて、僕はミナミカタヤマグチ駅のホームで彼女を待った。
いつもはネクタイ姿の僕だから気付いてくれるだろう、このTシャツに書いたメッセージを。
時間短縮の為に、口から発する言葉とTシャツに書かれたメッセージを読ませる作戦だ。
緊張して言葉を上手く発せられないかも知れない為、言葉は至極短くした。
「僕は毎日同じ電車に乗っている者です」これだけ。あとはTシャツに予め込めて来た。
彼女が来た。
彼女が僕に気付いた、反応からするに僕の顔は憶えているようだ。
「何故、今日はホームにいるのだろう?」そんなことを考えているに違いない。
「私に会いに?」などと思ってもらえれば話が早いのだが。
少し頬を赤くしているように思える、Tシャツの字が見えたのだろうか。やはりあの日のことを彼女も気にしていたに違いない。
既に彼女は僕の目的に気付いている可能性が高いだろう、緊張が高まってきた。
彼女が僕の元に辿り着くのが早いか、というタイミングで僕は予定通りの自己紹介をした。
「僕は毎日同じ電車に乗っている者です」言えた!
ミスなく言えたことに僕はガッツ石松のあのポーズを取りそうになったがまだ何も成しえていない、気持ちを切替えてTシャツの文字が読みやすい様に体を向ける。
体を向ける、体を向ける、体を向ける……
おかしい、彼女は立ち止まらない。僕は180°回ってしまった。
毎日同じ扉から搭乗する、これは間違いないことだ。場所を間違えたか? いや僕だって毎日見ている、ここから乗っているはずだ。
何故だ、何故彼女は僕のいる毎日乗る扉の位置を素通りしたのだ?
考えたくはない、考えたくはないが
「ふ、フラレたのか……」
何故だろうか、彼女は僕のことをまだ何も知らない。まずは少しくらい僕のことを知ってくれてからでもいいではないか。
既にお付き合いしている人が? それにしてもシカトはないのではないか、勇気を振り絞って告白しているのだから。
次の日、もう彼女はその電車には乗って来なかった。次の日も次の日も…… 僕の夏の恋は終わったようだ。無惨にも告白Tシャツだけを残して。
あの夜、「あなたのお尻に触れた日から、僕は破裂寸前です」と何度も失敗してやっと書いたTシャツを残して……
彼がTシャツで告白することが「痛い」と気付いたのはこの1週間後の事だった。
Tシャツの文面がマズいということは一生気付く事がなかったという。
1週間後、別の告白方法にて彼らは正式にお付き合いを始めることになった。
告白文は変わっていなかった。