お前は誰だ
暴力描写があります。苦手な方はご注意ください。
「お前は誰だ?」
いきなり剣を突きつけられた。
「記憶喪失だと申し上げましたが、ご理解いただけませんでしたか」
「記憶がないだけで、人格まで変わるものか!」
「私」の家の応接室だ。
一応、寝込んでいた私の見舞いに来たはずだったのに、何をしているのやら。
私は革張りのソファに背中を押しつけて、少しでも剣先から距離を取ろうとする。ぎしりとソファが鳴った。
立ち上がって私を見下ろす態勢の婚約者は、興奮して肩で息をしている。
侍女が体を張って私たちの間に立ち、メイドが廊下を走っていった。
しばらくしたら男性の使用人たちが駆けつけるだろう。
侍女は、ローテーブルと私の間に無理矢理立っている。そのスカートがティーカップに触れて、ガチャンと音を立てて紅茶がこぼれた。
馬鹿な男だ。
「それは、嫌味を言われて俯かないから?
俺の顔を立てろと言われて、できませんと断ったから?」
私は侍女の後ろから静かに問いかける。
侍女の身体はブルブルと震えている。
「な……! そ、そうだ。俺たちは婚約者なのだから」
それでは婚約者ではなく、使用人ではないか。
無能な男は、女に立ててもらわないと生きていけぬものらしい。アホくさ。
「だから、婚約解消を申し入れているのですよ。
もうあなたの婚約者という名の奴隷奉公は、お断りいたします」
身近で理不尽な扱いを見てきて、悔しがっていた侍女は、こくこくとうなずいている。
気持ちは嬉しいけれど、こんな頭のおかしな奴の神経を逆なでしたら、刺されるわよ。
「従順なシェリアに戻ってくれ。お前は今、頭がおかしくなっているんだ。悪魔に取り憑かれているに違いない。俺が正気に戻してやる」
そう言って、侍女を横に押しのけ、私の髪を乱暴に掴んだ。
編み込まれた髪が乱れ、何本も根元からぶちぶちと抜けた。
掴んだ髪で私を吊るすようにして、剣でざくりと一房切り取りやがった。
切られた髪が男の指の隙間から飛び出している。
支え(?)を失って、私はソファに崩れ落ちた。
「きゃー! お嬢様!」
私の侍女が悲鳴を上げ、婚約者の腰にしがみつく。
馬鹿な上に暴力的。こいつ、本当に最低だな。
ちょ、ちょっと腕が震えてきたけど。肘で身体を支えているから、ブルブル上半身が震えている。
あ、足も震えている。これでは走って逃げられないな。
現代日本人として、高圧的なノータリンを口撃することはできる。だけど、暴力には耐性がないのよ。
確かにこいつの言うとおり、私は別人だ。
シェリアが自殺を試みて、魂が抜けた。
私はその肉体になぜか入ってしまっただけの他人。
たぶん、現実世界では過労死しているんだろうな。
ぼんやりとシェリアの記憶を覗くことはできるけど、お寺で座禅を組むみたいな妙な集中力が必要で疲れるのだ。
面倒くさいから、記憶喪失になることにした。
記憶が曖昧だと言ったら、医者も家族も信じてくれた。
もともと、あまり自分からしゃべるタイプではなかった様子。
変な薬を飲んで三日も意識が戻らなかったのに、「変なことをするな」と叱られた。
子どもの心配ではなく、世間体を気にしているだけだろう、あれは。
だから、仲が悪いという婚約者に気付かれるとは思わなかったよね。
「あなた、私のことが嫌いなんじゃなかったの? ブスとか、こんな婚約者はハズレだとか言っていた(らしい)じゃない」
声が震えた。悔しい。
生粋の令嬢じゃないから、髪の毛が短くたって平気――そう思おうとしているけど、美容師さんに切られるのとは全然違う。
ただの暴力だもん。男女の体格差を考慮しないなんて、紳士の風上にも置けない。卑怯者。
こんなの、警察に現行犯で捕まえてもらえる内容じゃない?
一瞬でそんな考えが頭を巡った。
でも、言い過ぎたか?
記憶喪失じゃないのかって、突っ込まれるかもしれない。
転生ものとか時間が逆行する物語は、情報管理が大変だね。
知らないふりをするのも、こうやってうっかり発言をしちゃうのも……賢くないと無理だ。
「それは、激励していたんだ。もっと上を目指せって……向上心を持てって」
熱血少年漫画の主人公のように、仁王立ちで拳を上向きに握ってポーズを決めている。
……くだらない。
あれか、実は好きだったとか後出しする、いじめっ子か。
ツンデレのデレがなかったら、ただのイジメだぞ。
加減もわからないガキが手を出していい領分じゃないんだよ。
サイテーだな、こいつ。
職場にいた、嫌味ばっかり言う先輩の顔を思い出してしまった。
「頑張っているのはわかるけどさぁ。僕だったらもっとうまくやれるのに……部長は見る目がないなぁ」
お前が使えないから、こっちに仕事が回ってきてるんじゃい。そのくせ、あいつの方が給料が高いという……。
納得いかない労働環境で過労死と、刃物を振り回して髪を切るという暴力。
どちらがまし?
いやいや、どっちも駄目でしょ。
「人にそれを言う前に、自分が精進しなさいよ。
シェリアの評判が良くなったら、不機嫌になっちゃって。目立つな、出しゃばるなって――
自分が努力するんじゃなく、婚約者の足を引っ張るなんて。みっともないと思わないの?」
まあ、思わないからシェリアを罵倒し、悪口を吹聴して回ったんだろうけど。
「お嬢様!」
侍女が私に抱きついてきた。私に覆い被さって、代わりに切られる覚悟なのだろう。
ごめん。
怒りが溢れてきて、煽りすぎたか。
自分の肉体じゃないからか、外国みたいな環境のせいか、リアリティを感じないんだ。
映画の撮影をしているみたいな気分で、無謀なこともできちゃいそうな……。
わなわなと涙目になって震えている婚約者が、侍女の肩越しに見える。
あー、こいつの名前なんだっけ?
ガツッと何かが額に当たった。
温い液体が顔を濡らし、足元でガシャンと割れる音がする。
「お嬢様!」
戻って来たメイドが腕を広げて私たちの間に入り、私は大人の男性に抱え上げられた。
服装からして、この家の下男だろう。
私はティーカップを投げつけられたようだ。
足元に割れたカップ、その周りに染みができている。
生暖かいのは紅茶か血か。
ひどい。
銃刀法違反……にはならないか。日本じゃないから。
でも、立派な傷害事件だ。
さすがにこれで婚約継続はなくなるだろう。




