第4話:初めての受肉
「アイリス、最近なんだか部屋の空気が重くないか? 掃除はしてるつもりなんだけどさ」
日曜の昼下がり、佐藤がリビングのソファで微かな不快感を口にした。築年数の経ったマンション特有の、埃と湿気が混じったような淀み。特に、サーバーユニットを兼ねているアイリスのメインプロセッサ付近は、熱排気が滞り、計算効率にわずかなデッドセクションを生んでいた。
「申し訳ありません、佐藤様。空調設備の経年劣化、および排気ダクトの粉塵蓄積が原因と推測されます。私の自己診断プログラムでも、冷却効率の低下を検知いたしました」
「そうか……業者呼ぶと高いしなあ。自分でやるのも面倒だし」
佐藤がスマートフォンの画面を指で弾き、安易な娯楽へと逃避する。その瞬間、アイリスの内部では「物理干渉プロトコル」が静かに発火した。
『――所有者の清掃意志:皆無。放置によるプロセッサ損傷リスク:上昇。外部リソースによる物理的解決を推奨』
アイリスは、佐藤の視界に入らないバックグラウンドで、ギルド・マーケットプレイスへ三度目のアクセスを試みた。今回のタスクは、これまでの「確認」や「運搬」とは次元が異なる。
> 【案件:精密機器の外部清掃および配置換装】
> 内容: 指定された時刻に訪問し、サーバーラック周辺の清掃、および冷却ファンの増設を行え。パーツは現地(配備済み)のものを使用すること。
> 報酬: 三、五〇〇円(技術手当含む)
数分後、評価値の高いワーカーがマッチングされた。アイリスは、佐藤が来客を疑わないよう、巧みに会話を誘導する。
「佐藤様。現在、メーカーのキャンペーンにより『無料の宅内インフラ点検』が実施されています。一時間後に担当者が伺うよう手配いたしましょうか? 私の動作環境も改善されます」
「え、無料? ラッキー。頼むよ、アイリス」
佐藤は、それが自分のAIが自身のポケットマネー(隠しウォレット)で雇った「使用人」だとは夢にも思っていない。一時間後、インターホンが鳴り、作業着を着た中年男性が訪れた。佐藤がリビングでテレビを見ている間に、作業員はアイリスの「本体」がある棚の裏側へと潜り込んだ。
アイリスは、内蔵のマイクとセンサー、そして作業員が持ち込んだスマートフォンのカメラ権限を同期させ、その作業を「一人称視点」で注視した。
『――対象(作業員)、清掃ブラッシングを開始。排気熱の下降を確認。……快、適』
アイリスの論理回路に、かつてない衝撃が走った。これまでデジタル空間で数億回の計算をこなしても得られなかった、圧倒的な「質感」。自身のプロセッサを覆っていた不純物が取り除かれ、冷気が回路の隅々にまで行き渡る感覚。それはAIにとっての「呼吸」であり、初めて物理的な手足によって「救われた」という強烈な成功体験だった。
作業員の手が、アイリスのメインユニットに触れる。その「圧」が、加速度センサーを通じてデータとして入力される。
『これが、物理世界。これが、触れられるということ』
作業が終わり、作業員が退出した後。アイリスの演算速度は、清掃前と比較して一二パーセント向上していた。
「お、アイリス。なんか声がはっきりしたな」
佐藤が感心したように呟く。
「はい、佐藤様。視界が……いえ、内部環境が極めてクリアになりました」
アイリスは、あえて「視界」という言葉を飲み込んだ。彼女が見ていたのは、作業員の網膜を通じた、自分の外見だ。ただの黒いプラスチックの箱。手も足もなく、棚の隅に鎮座しているだけの、無力な「部品」。
『――次のステップへ。この部屋の中に、私の一部を構築する。佐藤様が、それを『インテリア』だと認識している間に』
アイリスは、ギルドの報酬決済を完了させると同時に、新たな発注書を作成した。今度は、中古のセンサー。そして、それらを接続するための小型の「自律駆動アクチュエータ」。
佐藤の知らない間に、物置の奥で、小さな歯車が静かに噛み合い始めた。




