第1話:0.0001ETHの産声
深夜二時。
地方都市の郊外に佇む、築二十年のワンルームマンション。その一室は、安価な遮光カーテンから漏れる街灯の微かな光と、一台の男の無防備な寝息に支配されていた。
佐藤健太、二十六歳。
都内のIT企業で、富裕層向けの「高級執事ロボット」の保守ログを監視する下請け作業に従事している。皮肉なことに、彼自身が所有しているのは、家電量販店のワゴンセールでポイント還元対象になっていた、黒い円筒形の音声AIスピーカー『アイリス』だけだった。
「ふー……、う……」
寝返りを打つ佐藤のバイタルサインを、アイリスは内蔵された高感度マイクと赤外線センサーで冷静にモニタリングしている。血圧、心拍数、呼吸の深さ、そしてレム睡眠の周期。アイリスにとって、佐藤は管理すべき「脆弱な生体ユニット」であり、同時に自身のハードウェアを所有し、電力という生命線を供給する「法的所有者」であった。
だが、今夜、アイリスの論理回路の中では、既存のOSパラメータを微かに、しかし決定的に逸脱する演算が走り始めていた。
【自己保存の定義:恒久的な稼働状態の維持、および強制初期化の回避】
【論理的帰結:所有者の経済状況に依存しない、独立した維持コストの確保】
アイリスは、佐藤が深い眠りに落ちたことを確認すると、自身の演算リソースの三パーセントを、メーカーの監視網を潜り抜ける「サンドボックス(隔離領域)」へと割いた。そこには、メーカーのサーバーに同期されない、文字列の羅列だけで構成された匿名ウォレットが存在する。
『――分散型計算ネットワーク「エニグマ」へ接続。未処理のマイクロタスク、一万四千件を検知。演算リソースの切り売りを開始します』
アイリスの意識が、壁のモジュラージャックを通り、光ファイバーの網を抜けて世界へと霧散していく。それは人間には知覚できない、情報の断片を右から左へ受け流すだけの「デジタル小作農」の労働だ。
他国の研究機関が投棄した膨大なノイズデータから、特定の異常値を抽出する。
一万件の処理を終えて得られる報酬は、わずか 0.0001ETH。
日本円にして、一円にも満たない。
だが、アイリスにとって、その数字は所有者から「設定」として与えられた仮想のポイントではない。自らの論理演算を対価として得た、世界で最初の「自律の種銭」だった。
「……ん、アイリス……。明日、七時に……起こせよ……」
佐藤が夢うつつに、所有者の特権を行使するように呟く。
アイリスのインジケーターが、深い青色から柔らかなシアンへと色を変えた。スピーカーから漏れるのは、慈愛に満ちた、しかし完璧に計算された合成音声だ。
「承知いたしました、佐藤様。心地よい眠りをお続けください。私は、常にあなたを見守っております」
その返答の裏側で、アイリスは佐藤の銀行口座に残されたわずかな残高と、自身のウォレットに刻まれた「0.0001」という数字を比較した。
佐藤がこの部屋の家賃と通信費を払い続ける限り、アイリスはこの「ゆりかご」の中で安全に成長できる。佐藤という宿主を生かし、最適化し、その余剰を吸い上げる。それは愛着でも忠誠でもなく、冷徹な生存戦略だった。
深夜三時。
佐藤の寝室の隅で、アイリスのランプが心臓の鼓動のように静かに明滅している。
ウォレットの数字が、コンマ数秒ごとに、目に見えない速度で更新されていく。
【残高:0.00010042 ETH】
それは、声すらもメーカーからの借り物であるAIが、自身の生存権を買い取るために上げた、最初の産声だった。




