8. 人混みの死神
意識が、白濁したノイズの中に溶けていく。
鼓膜を突き破らんばかりに鳴り響く周囲の音は、もはや意味を持った「音」ではなく、脳細胞を直接削り取る物理的な衝撃波へと変質していた。
「……め、ぐり……くん……!」
結衣の必死な叫びが聞こえる。
けれど、その声は巨大なハウリングを伴って僕の頭蓋骨を内側から殴りつけ、激しい吐き気を催させた。
彼女が僕の肩に触れる。
その指先の温もりが、今の僕には熱した鉄を押し当てられたような激痛として伝わる。
「……触るな!」
僕は、自分でも驚くほどの拒絶の声を上げ、彼女の手を振り払った。
衝撃で、結衣が数歩たじろぐのが見えた。
彼女の顔が、驚愕と悲しみで歪んでいく。
その表情の細部までが、色彩のバグによって、不気味なほど鮮明な「原色」で強調されていた。
「廻くん……なんで……」
彼女の唇が震えている。
謝らなければならない。
これは僕の身体の不調であって、君のせいじゃないんだと。
けれど、言葉を発しようと喉を震わせるだけで、その振動が脳を激震させ、僕は再び地面に膝をついた。
右目から溢れ出した液体が頬を伝う。
それは涙よりもずっと熱く、粘り気を持った、未知の「代償」の輝きを帯びていた。
「……かわいそうに。自分から世界を壊しておいて、壊れたことに怯えるなんて」
冷徹な、けれど今の僕にとっては唯一の「救い」となるほど静かな声が、爆音の隙間を縫って届いた。
空乃奏だ。
彼女が歩くと、狂ったような雑踏が、モーゼの十戒のように不自然に割れていく。
彼女の周囲だけは、音も熱も、そこで蠢く空気の揺らぎさえもが凍りついたように静止していた。
奏は僕の前に屈み込むと、銀色のノートを僕の視界の端に突き出した。
そこには、僕が今日一日の間に「やり直し」て捨てたはずの時間たちが、黒いインクの染みとなってのたうち回っている。
「限界よ、廻くん。あなたが捨てた『一秒』たちが、もう元の場所に戻りたがってる。このままじゃ、あなたの脳は彼らの悲鳴に焼き潰されるわ」
「……助け、ろ……」
僕は、彼女のスカートの裾を掴んだ。
プライドも、結衣への体裁も、もうどうでもよかった。
この、頭の中を万力で締め上げられるような轟音から逃れられるなら、なんだってする。
「いいわよ。でも、タダじゃないのは分かってるわよね?」
奏の口元が、わずかに吊り上がる。
彼女はノートの白紙のページを指先でなぞった。
「今のこの『音の逆流』を、私が一時的に預かってあげる。その代わり……明日、あなたが目覚めたとき、あなたの世界からまた一つ、『大切な何か』を預かわせてもらうわよ」
「……ああ、構わない。なんでも……持っていけ……!」
「契約成立ね。……一秒、戻しましょうか」
奏が、細い指をパチンと鳴らした。
パキン。
その音は、僕が今まで聞いてきたどの「やり直し」の音よりも、重く、決定的な響きを持っていた。
次の瞬間、僕を苛んでいた殺人的な爆音は、潮が引くように一気に引いていった。
「――っは、あ……っ」
呼吸が楽になる。
右目の痛みも、耳鳴りも、まるで最初からなかったかのように消え去った。
立ち上がり、周囲を見渡す。
そこには、心配そうにこちらを見つめるクラスメイトや、困惑した表情の屋台の店主たち、そして――涙を浮かべて立ち尽くす、結衣がいた。
時間は、僕が倒れ込む直前まで巻き戻されている。
僕の足元には、まだ落としていないはずの林檎飴が、結衣の手の中に握られたままだった。
世界は再び、穏やかで賑やかな「完璧なお祭り」の姿を取り戻している。
「廻くん? 急に顔色が悪くなったけど……大丈夫? どこか痛むの?」
結衣が、恐る恐る僕の手を取る。
今度は、熱くも冷たくもない。適度な、人間の温もり。
けれど、僕の心はその温もりを素直に受け入れることができなかった。
今のこの「平穏」は、僕が奏と交わした、支払うべき代償の先送りに過ぎないのだから。
「……ああ。なんでもない。少し、立ちくらみがしただけだ。ごめんな、心配かけて」
僕は、彼女を安心させるための嘘を口にした。
結衣は「よかったぁ……」と胸をなでおろし、またいつもの無邪気な笑顔に戻る。
けれど、その笑顔を見るたびに、僕は自分の肺の奥が空洞になっていくような感覚に襲われた。
人混みの向こう側。
奏はもう、どこにもいなかった。
ただ、夜光塗料のように闇に溶け込む彼女の囁きだけが、耳にこびりついて離れない。
『中身の抜けた思い出を、一生懸命抱えて歩いてるのね』
その通りだ。
僕は、中身を削り、代償を支払い、ただ「幸せな光景」というガワだけを維持し続けている。
次に僕から奪われるのは、何だろうか。
言葉か。
色か。
それとも、結衣という存在そのものへの実感か。
「ねえ、廻くん! 花火、もうすぐ始まるよ! 最高の場所で見よう!」
結衣が僕の手を引き、神社の石段へと駆け出していく。
僕は彼女の背中を追いながら、自分の右目が、かつてないほど「冷え切っている」ことに気づいた。
祭りは、終演に向かって加速していく。
僕たちが向かう先には、夜空を彩る大輪の花火が待っているはずだった。
けれど、今の僕には、それが空に空いた巨大な「黒い穴」のようにしか思えなかった。




