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さよならの陽炎を、追いかけて  作者: 七瀬 澪
第一章「1秒の対価」

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7. 騒音のオーケストラ

完全な無音。

それがこれほどまでに恐ろしいものだとは、想像もしていなかった。

周囲には何百人もの人間がいて、口々に笑い、叫び、食べ物を頬張っている。

それなのに、僕の世界からはすべての「響き」が剥ぎ取られている。

まるで、深海の底で分厚いガラス越しに、地上の喧騒を眺めているような感覚だ。


「……ねえ、廻? 聞いてる?」


結衣が僕の顔を覗き込み、唇を動かした。

その動きから、かろうじて彼女の言葉を推測する。

『聞いてる?』。

その問いに対し、僕は反射的に笑顔を貼り付け、短く頷いた。


「ああ、もちろん。ごめん、ちょっと屋台の明かりが綺麗で、見惚れてた」


自分の声さえも聞こえない。


喉が振動している感覚だけを頼りに、適切な音量であろうと推測して声を出す。

もし声が大きすぎたり、逆に小さすぎて不気味に聞こえていたらどうしよう。そんな不安が背中を冷たく撫でる。

幸い、結衣は疑う様子もなく、「もう、廻ったら!」と楽しそうに笑って、僕の腕を揺らした。


僕たちは、境内へと続く屋台の列を歩いた。


結衣は次から次へと屋台を指差し、何かを熱心に語っている。


彼女の唇の形を必死に読み取り、視線の先にあるものを確認し、そこから会話の文脈を組み立てる。


それは、極限の集中力を要するパズルだった。


『わあ、あれ見て!』

(指差した先は金魚すくい)


『上手な子がいるよ』

(僕もそちらを見て、感心したように頷く)


『廻もやってみる?』

(首を横に振り、「いや、お前の浴衣を汚しちゃ悪いし」とそれらしい理由を添える)


正解。


結衣は満足げに微笑み、また次の屋台へと足を向ける。


だが、僕の精神は一歩歩くごとに摩耗していった。


色彩は戻っているはずなのに、僕の脳はそれを処理する余裕を失い、視界はいつの間にか結衣の唇と指先だけを捉える「極端な望遠レンズ」のようになっていた。


周囲の景色は、意味をなさない光の汚れへと退化していく。


僕は、彼女の隣にいる。


けれど、彼女と「時間を共有している」という感覚が、砂時計の砂のように指の隙間から零れ落ちていく。


奏の言った通りだ。


今の僕は、結衣という名の「外側」だけを連れて、僕自身の頭の中に作られた「理想の劇場」を歩いているだけではないのか。


「あ、あった! りんご飴!」


結衣が弾んだ足取りで、一軒の屋台の前に立ち止まった。


真っ赤な蜜を纏った林檎が、裸電球の光を浴びて宝石のように輝いている。


結衣は小銭入れから百円玉をいくつか取り出し、店主に渡した。

店主の口が動き、結衣がそれに応える。


何か冗談でも言ったのか、結衣は肩をすくめて笑い、大きな林檎飴を受け取った。


「はい、廻の分!」


彼女が僕の口元に、林檎飴を差し出してきた。


僕は一瞬躊躇したが、彼女の期待に応えるために、その赤い塊を一口齧った。


パキッ、という音がしたはずだった。


だが、僕に伝わってきたのは、硬い飴の層が砕ける「感触」と、冷たく固まった砂糖の「質感」だけ。

味はしない。

舌の上にあるのは、ただの無機質な重みだ。


昨日感じたあの、感覚の欠落が再発している。五感のパーツが、一つずつ死んでいく。


「おいしい?」


結衣が目を輝かせて聞いてくる。


僕は、記憶にある「林檎飴の味」を必死に脳内ライブラリから引き出し、それを表情へと変換した。


「ああ。すごく甘い。……夏休みの味がするな」


「大げさだなぁ。でも、本当においしいね」


彼女が自分の林檎飴を幸せそうに頬張る。


その姿を見ているときだった。


僕の右目の奥で、かつてないほどの激しい「鳴動」が起きた。


それは痛みというよりも、溜まりに溜まったダムの水が、一気に決壊したかのような圧力だった。


――ズズ……、……ガッ、……ギギギッ!


突如として、僕の脳内に「音」が流れ込んできた。


いや、流れ込んできたのではない。


これまで能力の代償として「消失」し、どこかへ積み上げられていたはずのすべての音が、数万倍の音量に増幅され、バックドラフトとなって聴覚を直撃したのだ。


「――――あ、がぁっ!!」


僕は思わず林檎飴を落とし、両耳を塞いでその場に蹲った。


うるさい。うるさいうるさいうるさい!


お囃子の太鼓が、巨大な鉄槌となって僕の頭蓋骨を叩き割ろうとする。


周囲の何千人という人間の話し声が、何万匹もの羽虫の羽音となって、脳の隙間に土足で踏み込んでくる。


風の音さえもが、高圧洗浄機の噴射音のように鼓膜を引き裂く。


「廻!? 廻、どうしたの!? 大丈夫!?」


結衣の叫び声。


それは、火災報知器が耳元で鳴り続けているような暴力的な音量だった。


彼女の声が、僕を助けようとする手が、今はただの凶器として僕を追い詰める。


「……やめろ、来るな! 音を、音を止めろ……!」


僕は叫んだが、自分の叫び声さえも、大音量の爆発音となって自分を傷つけた。


右目から、熱い液体が溢れ出すのを感じた。


汗ではない。涙でもない。


能力を酷使し、無理やり「なかったこと」にし続けてきた時間の残滓が、物理的な熱となって僕の体から溢れ出しているのだ。


パキン。


音が鳴った。


それは、僕が意図した「やり直し」の音ではなかった。


世界そのものが、無理な負荷に耐えかねて、亀裂を入れた音だ。


「……だから言ったじゃない。拾い物係にも、限界があるって」


狂ったような爆音の嵐の中で、たった一つの声だけが、クリスタルのように澄んだ響きで届いた。


空乃奏だ。


彼女は、混乱に陥った祭りの群衆の真ん中で、ただ一人、静寂を纏って立っていた。


彼女が抱える銀色のノートから、薄暗い煙のようなものが立ち昇っているのが見えた。


「相沢くん。あなたが捨てた『音』が、今、私のところに溢れかえってるわよ。……全部、返してあげましょうか?」


彼女の瞳が、薄く、残酷に細められた。


僕は彼女に手を伸ばそうとしたが、あまりの音の暴力に意識が遠のき、視界が真っ白に塗り潰されていった。


祭りの喧騒が、一瞬だけ、完全な悲鳴へと変わったような気がした。

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