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さよならの陽炎を、追いかけて  作者: 七瀬 澪
第一章「1秒の対価」

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6. モノクロームの浴衣

夏休みが始まった。


昨日までの、学校という名の檻に閉じ込められていた喧騒が、遠い過去の出来事のように霧散している。


朝、目を覚ましたとき、僕は自分の右目に奇跡のような万能感を感じていた。


終業式の日に感じた、世界が砕け散るような激痛も、色彩が剥がれ落ちていく恐怖も、一晩の深い眠りとともに完全に浄化されていた。


カーテンの隙間から差し込む朝日は、痛いほどの純度で網膜を焼き、枕元に置いた飲みかけのイチゴオレのパックは、瑞々しいピンク色のままそこにある。


右目に指を触れてみる。


熱はない。ただ、深海のように静かで、澄み渡った力が瞳の奥に蓄えられているのが分かった。


「……なんだ。やっぱり、寝れば治るんじゃないか」


僕は鏡の前で、自分自身の瞳をじっと見つめた。


空乃奏が言っていた「自分を殺し尽くす」だの「剥製の幸福」だのという言葉は、きっと彼女特有の、孤独ゆえの歪んだ比喩に過ぎなかったのだ。


酷使すれば疲れる。

疲れたら眠る。

スマホのバッテリーと同じ、単純なエネルギーの循環。

充電さえ完了すれば、僕はまた「完璧な世界」を維持するための権利を行使できる。


僕は、再び手に入れた全能感に酔いしれ、無意識のうちに口角を上げた。


だが、夕暮れ時。

駅前の時計台に降り立った瞬間、その自信の足元から、正体不明の冷気が這い上がってきた。


「……あ」


視界が、一瞬だけ明滅した。


お祭りに向かう人々の波。

色とりどりの浴衣。

それらが、古い蛍光灯が切れる直前のような速度で不規則に瞬く。

彩度が狂ったように跳ね上がり、網膜に色が焼き付いたかと思えば、次の瞬間には鉛のような灰色にすべてが沈み込む。


完治したはずではなかったのか。


焦って右目を強くこするが、痛みは一向に来ない。


ただ、脳のピントがどうしても合わないような、自分の体が数センチほど宙に浮いているような、暴力的なまでの現実感の欠如が僕を襲う。


「……廻! ごめん、待った?」


人混みを縫うようにして、聞き慣れた声が届く。


その声を捉えた瞬間、僕の視界は磁石に吸い寄せられる鉄粉のように、結衣という一点にピントを合わせた。 不思議なことに、彼女を視界の中心に据えている間だけは、世界の明滅が収まるのだ。


結衣は、深い紺色の浴衣を着ていた。


昨日、僕が何度も時間を「やり直し」て、彼女が最も満足し、最も美しく見えた「正解」の色。


その紺色は、沈みゆく夕日の最後の残光を吸い込んで、しっとりと濡れたような艶を放っている。


髪をアップにし、うなじを見せた彼女の姿は、いつもの幼馴染という枠を超えて、僕の知らない「一人の女性」としての存在感を放っていた。


金魚を模した小ぶりなかんざしが、彼女の呼吸に合わせて、生きているかのように微かに揺れる。


「……どうかな。廻が昨日選んでくれたやつ、着てみたんだけど」


結衣は少し照れくさそうに、浴衣の裾を指先でなぞった。


その瞬間だった。


僕の目には、彼女の指先だけが、まるで煙のように「透過」して見えた。


爪の先のピンク色も、指の関節の細かな皺も一瞬で消え去り、背景にある駅前の石畳が、彼女の皮膚を通り越して透けて見えたのだ。


悲鳴を上げそうになり、僕は反射的にまばたきを繰り返した。


二度、三度。

次に目を開けたときには、彼女の指は元の、血の通った柔らかな質感に戻っていた。


「……似合ってる。すごく綺麗だ、結衣」


「本当? よかったぁ……。廻に似合わないって言われたら、今日一日お祭り楽しめないもん」


結衣が心底嬉しそうに微笑む。


その笑顔を守れた、という確かな手応え。


その達成感が、先ほどの「透過」という不気味なバグへの恐怖を、力ずくで押し潰した。


そうだ。多少の不具合エラーがあったとしても、結果として結衣が笑っていれば、それは「正解」なのだ。


僕は彼女の細い腕を取り、祭りの会場へと歩き出した。


だが、一歩、歩き出すごとに、身体が「自分のものではない」感覚に支配されていく。

繋いだ結衣の手から伝わってくる熱が、一定ではないのだ。


一瞬、火傷しそうなほど熱くなったかと思えば、次の瞬間には、北極の氷を押し当てられたように冷え切る。 まるで僕の脳内にある温度計が破壊され、針が狂ったように振り切れている。


不快だ。


思わず手を振り払い、全速力で逃げ出したくなるほどの違和感。


だが、そんなことをすれば、結衣は悲しむだろう。

「完璧なデート」に傷がつく。

僕は奥歯を噛み締め、その「バグ」を必死に理性で抑え込み、優しい微笑を顔に張り付け続けた。


祭りの会場が近づくにつれ、夜の帳を押し返すように屋台の裸電球が輝きを増していく。

ソースの焼ける芳ばしい匂い、わたあめの暴力的なまでの甘い香り。

それらもまた、僕の鼻を極端に刺激したかと思えば、一気に無臭になるという不気味な反復を繰り返していた。


五感が、僕の制御を離れて勝手に呼吸を始めている。


「あ、廻見て! りんご飴! 私、あれだけは絶対に食べたいって決めてたんだ」


結衣が子供のように瞳を輝かせ、赤い提灯が並ぶ屋台を指差す。

その横顔を眺めながら、僕は背筋に凍りつくような視線を感じた。


振り向く必要さえなかった。


雑踏の隙間、人々が浮かれた声を上げながら通り過ぎるその中で、一人だけ「時間の流れ」から完全に切り離された場所に、彼女が立っていた。


空乃奏。 浴衣を着ることもなく、昼間と同じ制服のまま、銀色のノートを胸に抱えて佇んでいる。


彼女の銀髪は、不安定に明滅する僕の視界の中で、唯一「微動だにしない絶対的な色」として存在していた。


その姿は、賑やかな祭りの景色に書き込まれた、消すことのできない「シミ」のようだった。


奏と目が合った。


彼女は何も言わない。


ただ、憐れむような、あるいは冷徹な解剖医のような視線を僕に投げかけてくる。


その瞬間、繋いでいる結衣の手の温度が、不意に完全に消滅した。

感覚が麻痺したのではない。

僕の腕という受話器が、結衣という存在を「そこには何も存在しない空間」であると勝手に認識し、信号を遮断したのだ。


「……廻? どうしたの、急に立ち止まって。お腹空きすぎて動けなくなった?」


結衣が茶化すように、僕の顔を覗き込んでくる。


彼女の顔が、再びノイズ混じりのモノクロームに染まり始める。

背景の屋台の明かりが、眩しすぎて白飛びし、彼女の表情を塗り潰していく。

いけない。

ここで崩れるわけにはいかない。

祭りは始まったばかりで、結衣はまだ、今日という日の半分も楽しんでいないのだ。


僕は、温存していたはずの右目に、再び力を込めた。


「バグ」が出ている今の現実を、一秒だけ戻して、クリアな視界に上書きするために。


脳を休ませれば治る。


また明日寝れば、すべては元通りになる。


その「甘え」が、僕の決意を容易に砕いた。


パキン。


乾いた音が、頭蓋の中で響き渡る。

視界からはノイズが消え、結衣の頬に瑞々しい赤みが戻り、繋いだ手の感触も確かなものとして蘇った。


だが。


その代償として、僕の耳からは、祭りの「音」が、一切合切消失した。


人々の笑い声、呼び込みの声、子供の泣き声、お囃子の太鼓、遠くで空気を震わせる打ち上げ花火の轟音。


それらすべてが、巨大な消しゴムで消されたように消え去り、世界は完全な真空に包まれた。


目の前で口を動かし、楽しそうに何かを語りかけてくる結衣。


彼女が何を言っているのか、僕には一文字も聞き取ることができない。


ただ、彼女の唇が動き、白い歯がこぼれ、目が細められる。


その「映像」だけが、暴力的なまでの鮮明さで僕の脳に映し出されている。


僕は、音のない世界で、ただ彼女の唇の動きに合わせて、さも聞こえているかのように頷き続けた。

休めば治る。明日になれば戻る。

そう自分に呪文のように言い聞かせながら、僕はまた、自分の中に新しい「毒」を流し込んでいった。


空乃奏は、まだ僕を見つめていた。


彼女の口元が、かすかに動いたような気がした。

耳は聞こえなくても、彼女が吐き出した言葉だけは、冷たい鉛の粒のように僕の心臓に直接届いた。


「中身の抜けた思い出を、一生懸命抱えて歩いてるのね」


それは、僕が今この瞬間に感じている空虚そのものを言い当てていた。


僕は結衣の腕を引き、奏から逃げるように人混みの奥へと足を踏み入れた。


お祭りは、まだ始まったばかりだった。

そして僕は、この「静寂の地獄」を、一晩中演じ続けなければならない。

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