5. 終業式の熱
セミの声が、鼓膜を直接針で刺すような鋭さで響いていた。
終業式の朝。
校庭の砂は白く焼き尽くされ、陽炎がアスファルトの上で狂ったように踊っている。
視界に入るすべての色彩が、強すぎる日差しにさらされて、境界線が溶け出しているように見えた。
体育館での校長の話は、僕の耳には届かなかった。
周囲の生徒たちが流す汗の匂いや、誰かの貧乏ゆすりが立てる微かな振動、それらすべてが巨大な「ノイズ」となって脳に押し寄せてくる。
右目の奥が、脈打つたびに熱を帯びる。
昨日の屋上で奏に言われた言葉が、毒のように心臓の裏側にこびりついて離れない。
「……剥製、か」
独り言を呟くと、自分の声さえもひどく平坦で、他人の吹き替えのように聞こえた。
教室に戻る廊下。
喧騒の中で結衣が横に並んで歩き出す。
彼女の白いブラウスは眩しく、その肌は健康的な血色に溢れている。
僕とは対照的な、圧倒的な「生」の肯定。
「もー、校長先生の話、長すぎだよね! 廻、寝てたでしょ? ずっと一点見つめて固まってたもん」
結衣が快活に笑い、僕の肩を小突く。
その瞬間、僕は自分の視界が「ズレた」のを感じた。
結衣の輪郭が数センチほど左にスライドし、残像が遅れてついてくる。
右目が熱い。
熱いというより、眼球の裏側で火花が散っているような感覚だ。
「……寝てない。少し、考え事をしてただけだ」
声を出す。だが、その一言にどれだけの熱量がこもっているのか、自分ではもう判別がつかなかった。
教室に戻り、ホームルームが始まるまでの僅かな時間。
クラスメイトたちは夏休みの予定を騒がしく話し合い、教室内は一種の熱狂に包まれていた。
結衣は僕の机の前に椅子を持ってきて、スマートフォンの画面を僕の目の前に突き出してきた。
「ねえねえ、見て! お祭りの浴衣、まだ迷ってるんだよね。どっちの色がいいかな。紺色に金魚か、それともこの淡いピンクの桜……ねえ、どっちが似合うと思う?」
画面を見る。
だが、僕の目には、そこに映る色の違いが理解できなかった。
紺もピンクも、ただの暗い塊と明るい塊にしか見えない。
色彩を処理する脳の機能が、能力の代償によって麻痺し始めているのだ。
「……どっちでも、いいんじゃないか。お前なら、どっちも似合うだろ」
精一杯の言葉だった。
だが、結衣の顔に影が落ちる。
彼女は、僕に「選んで」欲しかったのだ。
僕というフィルターを通した、彼女への評価を。
「……何それ。適当すぎ。そんなの、私じゃなくてもいいって言ってるみたいじゃん」
唇を尖らせ、結衣が視線を逸らす。
いけない。
この数秒の空気の澱みが、僕たちの間に取り返しのつかない亀裂を作るような気がした。
パキン。
一秒、戻す。右目に、焼けた針を刺されたような激痛。
「……ねえ、どっちが似合うと思う?」
「そうだな。紺色の方が、お前の落ち着いた雰囲気には合うかもな。……金魚も、大人っぽくていいと思う」
「えー、私って落ち着いて見える? 意外! でも、廻がそう言うなら紺にしようかな」
正解だ。
結衣の顔がパッと華やぐ。
だが、その一回の書き換えの代償として、僕の耳から「セミの声」が完全に消えた。
完全な無音。
周囲のクラスメイトたちの笑い声も、机を引きずる音も、すべてが真空の中に吸い込まれた。
「……廻? どうしたの、急に黙っちゃって」
結衣の口が動いている。
何かを言っている。
聞こえない。
僕は焦った。
音が聞こえないことで、適切な返答までの「秒数」を読み違えるのが怖かった。
少しでも返答が遅れれば、それは「違和感」という名の不純物として結衣の記憶に残ってしまう。
パキン。
二回目。
やり直して、彼女の言葉を口の形から読み取ろうとする。
パキン。
三回目。
彼女が「返事が遅い」と怪訝に思う前に、時間をリセットする。
何度も、何度も。
僕は一言の雑談を「完璧」にするために、十回以上の書き換えを繰り返した。
右目の奥からは血が流れているのではないかと思うほどの熱気が溢れ、頭蓋骨が内側から悲鳴を上げている。
「……ねえ、相沢くん。もうやめなよ」
聴覚が、ザラついた砂嵐のような音を伴って戻ってきた。
声の主は、結衣ではない。
教室の隅で、一人だけ時間が止まったような静寂を纏って座っている、空乃奏だ。
「……空乃」
「あなたの右目、さっきからずっと明滅してるわよ。……壊れたネオンサインみたい。あの子を笑わせるたびに、あなたの世界からパーツが一つずつ、部品取りされているのがわからない?」
「……うるさい。俺は、ただ……」
「相沢くん? 空乃さんと何話してるの?」
結衣が不思議そうに僕と奏を交互に見る。
「何でもないわ、結衣さん。相沢くんが、少し暑さにやられているみたいだから。……ねえ、相沢くん。さっきからあなたの服についてるその『匂い』。それが何かわかる?」
言われて、僕は自分の手首に鼻を寄せた。
何も感じない。
夏の教室の匂いも、結衣がつけている柔軟剤の匂いも。
ただ、無機質な「無」の感覚。
「使いすぎたのよ。一日の許容量を、たった数分の雑談で使い切った。……今、あなたが無理に右目を動かせば、今度は何が消えると思う? 言葉? 名前? それとも、あの子の存在そのもの?」
奏の言葉が、冷たい氷水のように僕の背筋を駆け抜ける。
「空乃、お前は……何でそんなに、俺を邪魔するんだ」
「邪魔なんてしていないわ。私はただ、あなたが捨てた『ゴミ』が山積みになって、私の席が埋まりそうなのが迷惑なだけ。……拾い物係にも、限界はあるの」
奏は立ち上がり、僕のすぐ隣まで歩いてくると、僕にしか聞こえないような掠れた声で囁いた。
「相沢くん。今日はもう、能力が限界よ。……お祭りの夜まで、その目を休ませてあげなさい。じゃないと、本当に『剥製』の隣に座ることになるわよ」
奏はそれだけ言うと、先生が入ってきた教室の中で、一人だけ静かに前を向いた。
ホームルームが終わるまで、僕は自分がどうやって息をしていたのかも覚えていない。
結衣が「また明日ね!」と手を振って帰っていく姿が、どこか現実味のないホログラムのように見えた。 僕は一人、放課後の教室に取り残される。
右目の痛みは引かない。
ただ重く、暗く、僕の視界の半分を支配している。
今日はもう、能力を使えない。
もし今、誰かに話しかけられ、失言をし、取り返しのつかない失敗をしたとしても、僕はそれを「なかったこと」にはできないのだ。
その恐怖が、味のしなくなった口の中に苦く広がった。
窓の外では、ようやく戻ってきたセミの声が、僕を嘲笑うように一段と激しく鳴り響いていた。




