最終話. さよならの陽炎を、追いかけて
新学期が始まりまた四ヶ月が経っていた。
八月三十一日。
◆
目が覚めて、しばらく天井を見ていた。
カーテンの向こうが白い。蝉が鳴いている。今年はやけに多い。
起き上がった。顔を洗った。
鏡に映るのは、二十歳の男の顔だった。目の下に隈がある。頬がこけている。それだけだ。
八月三十一日。
毎年、この日は川に行っていた。四月にやめると決めた。その気持ちは変わっていない。
Tシャツに着替えて、財布とスマホをポケットに入れた。引き出しの灰色のノートは見なかった。見ても
白紙だ。
コンビニに行こう。朝飯を買う。それだけだ。
今日はただの日曜日だ。
◆
外に出た瞬間、殴られたみたいな暑さだった。
アスファルトから熱気が立ち昇っている。サンダルの底が柔らかくなるくらい地面が焼けている。
大通りを避けて、裏道を歩いた。電柱の影を踏みながら。
影から影へ。
子供の頃、白い地面を踏んだら負けっていう遊びをやった。
奏と、結衣と、三人で。奏は足が長いから余裕で次の影に届くのに、僕と結衣は必死に跳んで——
足が止まった。
今のは、いつの記憶だ。
ノートにも書いていなかった。写真もない。結衣に聞いても覚えていないだろう。
本物か作り物か、もう区別がつかない。
「……どっちでもいいか」
呟いて、歩き出した。
あの三人で影踏みをした記憶が僕の中にある。それだけで十分だ。
検証してどうする。
◆
四年間で、記憶はずいぶん曖昧になった。
奏が好きだった曲の名前が出てこなくなった。奏の部屋に置いてあった本のタイトルが思い出せなくな
った。料理をする時の癖。右手で菜箸を持って、左手で味見をする——いや、逆だったか。
大きなことは覚えている。顔も、声も、名前も。
でも細部が溶けている。
輪郭はあるのに、中の色が褪せている。
陽炎みたいだ。遠くから見ればそこにあるのに、近づこうとすると歪んで、消える。
追いかけるほど、遠ざかる。
僕の人生は、ずっとそうだった。
◆
コンビニが見えた。
いつもの店だ。バイト先とは別の、アパート最寄りの店。四年間、ほぼ毎日通った。
自動ドアが開く。冷房の空気が頬に当たる。
おにぎりの棚に向かった。
梅。鮭。昆布。明太子。
ツナマヨ。
一個だけ残っていた。
棚の奥にぽつんと。いつもは五、六個あるのに、日曜の朝は売れるのが早いらしい。
手を伸ばした。
指先がフィルムに触れる直前——
横から、別の手が伸びてきた。
◆
白い手だった。
細い指。短く切り揃えた爪。
僕の手より一回り小さい手が、同じツナマヨに、同じタイミングで伸びてきた。
指が触れた。
おにぎりのフィルムの上で、僕の人差し指と、その手の中指が重なった。
冷たかった。冷蔵棚に手を入れたから、指先が冷えているだけだ。
それだけのことだ。
なのに——手を引けなかった。
冷たい指先の下に、体温があった。冷蔵棚で冷やされた表面の奥に、血の通った温度がある。
生きている人間の指だ。
「あ——すみません」
声がした。横から。三十センチもない距離から。
女の声だった。
少し高くて、息が多めに混じっている。語尾がわずかに上がる。
手を引けない。指が動かない。呼吸が止まっている。
声。
この声。
「あの、それ、最後の一個ですよね。どうぞ、お先に」
四年間で何度もあった。似た声を聞いて振り返ったこと。全然違う顔がそこにあったこと。そのたびに
膝から力が抜けたこと。
慣れたはずだ。
でも声だけじゃない。
匂いがする。
コンビニの冷房と、パンの甘い匂いと、冷蔵棚の機械的な冷気の中に、全く別のものが混じっている。
雨が止んだ直後の匂い。土と水と冷たい空気が混ざった匂い。
八月のコンビニで、するはずのない匂い。
四年間、夢の中で再現しようとして、一度もできなかった匂い。
横を向いた。
首が錆びた蝶番みたいに軋んだ。
◆
銀色の髪が見えた。
それが最初だった。
肩のあたりまでの長さ。先端が内側にゆるく巻いている。コンビニの蛍光灯の下で、白に近い銀色に光
っている。
次に肌の色。白い。八月末だというのに焼けていない。
それから顔。
横顔。おにぎりの棚のあたりを見ている。
記憶と照合する手順を踏む前に、体が先にわかっていた。
膝が笑い始めた。棚に手をついた。つかないと立っていられない。
心臓が暴れている。耳の奥で自分の脈拍が反響している。
彼女がこちらを見た。
正面から目が合った。
淡い色の瞳。光の加減で色が変わりそうな虹彩。
こっちが固まって動かないから、心配そうな顔をしている。
「大丈夫ですか?」
彼女の唇が動いた。
声が空気を通って、鼓膜を揺らして、僕の中に入ってきた。
四年間、頭の中で再生するしかなかった声だ。
「顔色悪いですけど」
放っておけない性格。他人の異変に気づくのが早くて、黙っていられない。
——昔からそうだった。
昔?
この子と会うのは今日が初めてだ。初めてのはずだ。この子にとっては。
「……大丈夫です」
声が出た。掠れていた。
「ちょっと、ぼーっとしてて」
「暑いですもんね」
彼女が笑った。
唇の右端がほんの少し先に上がって——左端が追いかけた。
涙が出た。
まばたきした拍子に、右目から一滴だけ落ちた。
「え——」
「すみません。目にゴミが」
おにぎりから手を離した。
「最後の一個、どうぞ」
「でも先に手を伸ばしたの、そっちが——」
「いいんです」
鮭を掴んだ。ツナマヨ以外を買うのは四年ぶりだった。
レジに向かった。彼女より先に。
前を向いていないと泣く。この子の顔を見ていると泣く。
会計を済ませた。釣り銭を受け取る手が震えていた。
自動ドアを出た。
◆
外は、さっきより暑くなっていた。
道路の上に陽炎が揺らめいている。アスファルトの熱で空気が歪んで、景色がぐにゃりと曲がってい
る。
コンビニの前に立ったまま、動けなかった。
帰れない。
帰ったら終わりだ。この偶然が、ただの偶然で終わる。
背後で自動ドアが開く音がした。
「あ——さっきの」
声が聞こえた。背中越しに。
「おにぎり、ありがとうございました。最後の一個いただいちゃって」
振り返った。
彼女がいた。コンビニの袋を手に下げて、こちらを見ている。
銀色の髪が風に揺れていた。
「いえ」
「……あの」
彼女がスマホをポケットにしまった。少し首を傾げた。右側に。ほんの少しだけ。
知っている。その仕草を。
「変なこと言っていいですか」
「……どうぞ」
「私——」
彼女が、僕を見た。
まっすぐに。淡い色の瞳で。
コンビニの前の、陽炎が揺れる道の脇で。
「ずっと、誰かを探してた気がするんです」
風が吹いた。
銀色の髪が揺れた。蛍光灯の光から太陽の光に変わって、さっきとは違う色に光った。
「子供の頃からずっと。何を探してるか、自分でもわからなくて。でも、何かが足りない感じがずっと
あって」
彼女の声が、少し震えた。
自分でもなぜ震えているかわからない、という顔をしていた。
「さっき、おにぎりの棚のところで」
彼女が、自分の右手を見た。さっき僕の指に触れた手。
「あなたの指に触った時、思ったんです」
涙が流れていた。僕の目から。止める気がなかった。
彼女が顔を上げた。
目が合った。
泣きそうな顔で——笑っていた。
「やっと見つけた」
陽炎が、道路の上でゆらりと揺れた。
最後にひとつだけ揺れて——




