56.白色のノート
九月になって、朝晩だけ少し涼しくなった。
昼間はまだ暑い。大学の冷房が効きすぎていて、半袖だと腕が冷える。上着を持ち歩くようになった。
生活は回っている。
講義、バイト、課題。たまに友人と飯を食う。
何も問題はない。
何も。
◆
寝る前の習慣がある。
机の引き出しから銀色のノートを取り出して、最後のページを開く。
『――また、会えるから』
『待っていて』
『いつか、必ず』
読む。指でなぞる。閉じる。
「おやすみ」
それだけだ。
毎晩、それだけ。
十月の終わり頃だった。
いつものようにページを開いて、違和感があった。最初は気づけなかった。何がおかしいのか、しばらくわからなかった。
文字だ。
薄くなっている。
デスクライトの角度を変えてみた。ノートを傾けてみた。
やっぱり薄い。
銀色のインクが、白っぽく変色している。最初のページから最後のページまで、全部、均一に。
写真から奏は消えてしまった。
奏でのいた場所は不自然にポッカリと空いている。
学校の名簿からも消えた。
みんなの記憶からも消えた。
奏のことを覚えているのは世界で僕だけだ。
このノートだけが、彼女がこの世界にいた証拠だった。唯一の、物理的な証拠。
それも消えかけている。
◆
十一月。
文字の劣化は止まらなかった。
ゆっくりだった。一日単位では気づかないくらい。
でも週単位で見ると、確実に薄くなっていた。
中盤あたりのページが特に読みにくくなった。
『彼は、結衣と同じクラスになるために、 目を使った』
「右」が消えている。
右目。あの能力。一秒を巻き戻す力。
文字がなくても、僕は読める。全部暗記している。何が書いてあったか、一字一句。
でも、それは僕が覚えているだけの話だ。
ノートに「右」という文字はもう存在しない。
◆
十二月。初雪の日。
バイトから帰って、ノートを開いた。
三割くらいの文字が判別できなくなっていた。残りも灰色に近い。紙の色に沈んでいきそうだった。
最後のページ。
『―― た、会え から』
『待って て』
『い か、必ず』
穴が空いている。虫食いみたいに。
でも読める。
「また、会えるから」「待っていて」「いつか、必ず」
声に出して読んだ。
自分の声が、妙に大きく響いた。狭い部屋に。
ノートの文字を読んでいるのか、自分の記憶を読んでいるのか、境目が曖昧になってきている。
ふと思った。
これが全部消えたら、次は何が消えるんだろう。
僕の記憶か。
奏の顔を思い浮かべた。
浮かぶ。ちゃんと浮かぶ。
銀色の髪。首を傾げる癖。唇の右側が先に上がる笑い方。
でも、三年前と比べて、鮮明さはどうだ。
わからない。三年前の鮮明さを、今の僕には検証する方法がない。
「廻くん」
奏の声を、頭の中で再生した。
聞こえる。たぶん聞こえている。
でもそれは本当に奏の声なのか、僕が組み立てた「奏の声っぽいもの」なのか。
やめろ。考えるな。
こういうことを考え始めると、底なし沼だ。
ノートを閉じた。引き出しにしまった。布団に入った。
天井を見ている。
眠れない。
◆
正月。
帰省しなかった。バイトを言い訳にした。実家に帰ると、あの部屋の前を通る。奏が使っていた部屋。今は物置になっているらしい。母さんは知らない。あの部屋に女の子が住んでいたことを。
除夜の鐘が遠くから聞こえていた。百八つ。煩悩の数。
僕の煩悩はたったひとつだ。
もう一度、奏に会いたい。
それだけ。
結衣から「あけおめ!」とLINEが来た。スタンプが三つ並んでいた。
「あけましておめでとう」と返した。スタンプなし。句読点だけ。
三十分くらいして、結衣から返事が来た。
『今年こそ、いい年になるよ』
何を根拠に言っているのか、わからない。
実直に、結衣はいつもそうだ。根拠なんてなくても、言い切る。それが結衣の強さだ。
返事は打たなかった。
スマホを伏せて、天井を見た。
◆
二月。
ノートの文字は半分以上消えていた。
残っているものも限りなく白に近い。光の角度によっては、完全に見えなくなる。
でも、紙の表面に凹凸が残っていた。
筆圧の痕。ペン先が紙を押した跡。
指の腹でなぞると、かすかにわかる。ここに文字があった。誰かが、ここにペンを走らせた。
その「誰か」を、僕は知っている。
左手でペンを持つ。少し猫背になって書く。書き終わると、ふうっと息を吐いて、前髪を耳にかける。
そういう細かいことを、僕はまだ覚えている。
まだ。
でも「まだ」がいつまで続くのか。
もうノートの文字は消えてしまった。筆圧の跡もそのうち消えてしまうだろう。
物理的なものは、全部いつか消える。
記憶も、物理だ。脳の神経回路。シナプスの接続。使わなければ弱くなる。書き換わる。上書きされる。
怖かった。
二十歳の男が、六畳の部屋で白紙のノートを握って震えている。格好悪いにも程がある。
でも、怖いものは怖い。
あいつがこの世界にいた証拠が、全部なくなること。
最後に残る僕の記憶すら、あてにならなくなること。
能力があれば——
その考えが頭をよぎって、反射的に打ち消した。
あの力があったから、こうなった。
一秒を巻き戻すたびに、僕の存在が削れて、奏が肩代わりして、最後に奏が消えた。
因果だ。
だから今さら能力を欲しがるなんて、筋が通らない。
何もできない。何もしないことしかできない。
それが、僕に許された唯一のことだ。
◆
四月。新学期。
桜が咲いていた。大学の正門前の並木が、ピンク色のトンネルを作っていた。
新入生がスーツ姿でうろうろしている。サークルの勧誘ビラを配る上級生。
僕はイヤホンをして、その横を通り過ぎた。
その夜。
ノートを開いた。
最後のページ。
白かった。
真っ白だった。
何度見ても、何度角度を変えても。
指で触った。凹凸を探した。
……ない。
いや、あるかもしれない。あるような気もする。でも、それは僕がそう思いたいだけかもしれない。
わからない。
もう、わからない。
ノートを閉じた。
表紙を見た。銀色だったはずの表紙が、くすんで、ただの薄い灰色になっていた。
「……」
声が出なかった。
何か言おうとした。いつもの「おやすみ」を言おうとした。
喉が詰まって、出てこなかった。
代わりに、別のものが出た。
「帰ってきてくれよ」
ぐしゃぐしゃの声だった。
「頼むから」
鼻水が出た。涙が顎から落ちた。ノートの表紙に染みを作った。
「全部消えた。お前がいた証拠、何もなくなった。写真も。ノートも。全部」
「僕の記憶しかない。それも怪しくなってきてる」
「だから——」
「早く」
最後は声にならなかった。口が動いただけだった。
六畳の部屋で、一人で泣いた。
泣きながら、ノートを引き出しにしまった。
白紙のノート。ただの紙。
捨てられない。
もう何も書いてないし、何も読めないし、意味なんてない。
でも、奏が手に持っていたノートだ。
奏の指が触れた紙だ。
それだけで、捨てられるわけがなかった。
窓の外を見た。桜が夜風に揺れている。
散って、来年また咲く。
桜は、そうだ。
あいつも——そうなのか。
信じたいだけかもしれない。
根拠なんてとっくになくなった。
ノートの約束も、もう目には見えない。
「また、会えるから」
暗唱した。千回目か、一万回目か。
もう数えていない。
もう待ちくたびれた。
いつまで僕は消えてしまった陽炎を追いかけているのだろう。




