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[完結]さよならの陽炎を、追いかけて  作者: 七瀬 澪
第5章「廻る季節」

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56.白色のノート

九月になって、朝晩だけ少し涼しくなった。


昼間はまだ暑い。大学の冷房が効きすぎていて、半袖だと腕が冷える。上着を持ち歩くようになった。


生活は回っている。


講義、バイト、課題。たまに友人と飯を食う。


何も問題はない。


何も。



寝る前の習慣がある。


机の引き出しから銀色のノートを取り出して、最後のページを開く。


『――また、会えるから』


『待っていて』


『いつか、必ず』


読む。指でなぞる。閉じる。


「おやすみ」


それだけだ。


毎晩、それだけ。


十月の終わり頃だった。


いつものようにページを開いて、違和感があった。最初は気づけなかった。何がおかしいのか、しばらくわからなかった。


文字だ。


薄くなっている。


デスクライトの角度を変えてみた。ノートを傾けてみた。


やっぱり薄い。


銀色のインクが、白っぽく変色している。最初のページから最後のページまで、全部、均一に。


写真から奏は消えてしまった。


奏でのいた場所は不自然にポッカリと空いている。


学校の名簿からも消えた。


みんなの記憶からも消えた。


奏のことを覚えているのは世界で僕だけだ。


このノートだけが、彼女がこの世界にいた証拠だった。唯一の、物理的な証拠。


それも消えかけている。



十一月。


文字の劣化は止まらなかった。


ゆっくりだった。一日単位では気づかないくらい。


でも週単位で見ると、確実に薄くなっていた。


中盤あたりのページが特に読みにくくなった。


『彼は、結衣と同じクラスになるために、 目を使った』


「右」が消えている。


右目。あの能力。一秒を巻き戻す力。


文字がなくても、僕は読める。全部暗記している。何が書いてあったか、一字一句。


でも、それは僕が覚えているだけの話だ。


ノートに「右」という文字はもう存在しない。



十二月。初雪の日。


バイトから帰って、ノートを開いた。


三割くらいの文字が判別できなくなっていた。残りも灰色に近い。紙の色に沈んでいきそうだった。


最後のページ。


『―― た、会え から』


『待って て』


『い か、必ず』


穴が空いている。虫食いみたいに。


でも読める。


「また、会えるから」「待っていて」「いつか、必ず」


声に出して読んだ。


自分の声が、妙に大きく響いた。狭い部屋に。


ノートの文字を読んでいるのか、自分の記憶を読んでいるのか、境目が曖昧になってきている。


ふと思った。


これが全部消えたら、次は何が消えるんだろう。


僕の記憶か。


奏の顔を思い浮かべた。


浮かぶ。ちゃんと浮かぶ。


銀色の髪。首を傾げる癖。唇の右側が先に上がる笑い方。


でも、三年前と比べて、鮮明さはどうだ。


わからない。三年前の鮮明さを、今の僕には検証する方法がない。


「廻くん」


奏の声を、頭の中で再生した。


聞こえる。たぶん聞こえている。


でもそれは本当に奏の声なのか、僕が組み立てた「奏の声っぽいもの」なのか。


やめろ。考えるな。


こういうことを考え始めると、底なし沼だ。


ノートを閉じた。引き出しにしまった。布団に入った。


天井を見ている。


眠れない。



正月。


帰省しなかった。バイトを言い訳にした。実家に帰ると、あの部屋の前を通る。奏が使っていた部屋。今は物置になっているらしい。母さんは知らない。あの部屋に女の子が住んでいたことを。


除夜の鐘が遠くから聞こえていた。百八つ。煩悩の数。


僕の煩悩はたったひとつだ。


もう一度、奏に会いたい。


それだけ。


結衣から「あけおめ!」とLINEが来た。スタンプが三つ並んでいた。


「あけましておめでとう」と返した。スタンプなし。句読点だけ。


三十分くらいして、結衣から返事が来た。


『今年こそ、いい年になるよ』


何を根拠に言っているのか、わからない。


実直に、結衣はいつもそうだ。根拠なんてなくても、言い切る。それが結衣の強さだ。


返事は打たなかった。


スマホを伏せて、天井を見た。



二月。


ノートの文字は半分以上消えていた。


残っているものも限りなく白に近い。光の角度によっては、完全に見えなくなる。


でも、紙の表面に凹凸が残っていた。


筆圧の痕。ペン先が紙を押した跡。


指の腹でなぞると、かすかにわかる。ここに文字があった。誰かが、ここにペンを走らせた。


その「誰か」を、僕は知っている。


左手でペンを持つ。少し猫背になって書く。書き終わると、ふうっと息を吐いて、前髪を耳にかける。


そういう細かいことを、僕はまだ覚えている。


まだ。


でも「まだ」がいつまで続くのか。


もうノートの文字は消えてしまった。筆圧の跡もそのうち消えてしまうだろう。


物理的なものは、全部いつか消える。


記憶も、物理だ。脳の神経回路。シナプスの接続。使わなければ弱くなる。書き換わる。上書きされる。


怖かった。


二十歳の男が、六畳の部屋で白紙のノートを握って震えている。格好悪いにも程がある。


でも、怖いものは怖い。


あいつがこの世界にいた証拠が、全部なくなること。


最後に残る僕の記憶すら、あてにならなくなること。


能力があれば——


その考えが頭をよぎって、反射的に打ち消した。


あの力があったから、こうなった。


一秒を巻き戻すたびに、僕の存在が削れて、奏が肩代わりして、最後に奏が消えた。


因果だ。


だから今さら能力を欲しがるなんて、筋が通らない。


何もできない。何もしないことしかできない。


それが、僕に許された唯一のことだ。



四月。新学期。


桜が咲いていた。大学の正門前の並木が、ピンク色のトンネルを作っていた。


新入生がスーツ姿でうろうろしている。サークルの勧誘ビラを配る上級生。


僕はイヤホンをして、その横を通り過ぎた。


その夜。


ノートを開いた。


最後のページ。


白かった。


真っ白だった。


何度見ても、何度角度を変えても。


指で触った。凹凸を探した。


……ない。


いや、あるかもしれない。あるような気もする。でも、それは僕がそう思いたいだけかもしれない。


わからない。


もう、わからない。


ノートを閉じた。


表紙を見た。銀色だったはずの表紙が、くすんで、ただの薄い灰色になっていた。


「……」


声が出なかった。


何か言おうとした。いつもの「おやすみ」を言おうとした。


喉が詰まって、出てこなかった。


代わりに、別のものが出た。


「帰ってきてくれよ」


ぐしゃぐしゃの声だった。


「頼むから」


鼻水が出た。涙が顎から落ちた。ノートの表紙に染みを作った。


「全部消えた。お前がいた証拠、何もなくなった。写真も。ノートも。全部」


「僕の記憶しかない。それも怪しくなってきてる」


「だから——」


「早く」


最後は声にならなかった。口が動いただけだった。


六畳の部屋で、一人で泣いた。


泣きながら、ノートを引き出しにしまった。


白紙のノート。ただの紙。


捨てられない。


もう何も書いてないし、何も読めないし、意味なんてない。


でも、奏が手に持っていたノートだ。


奏の指が触れた紙だ。


それだけで、捨てられるわけがなかった。


窓の外を見た。桜が夜風に揺れている。


散って、来年また咲く。


桜は、そうだ。


あいつも——そうなのか。


信じたいだけかもしれない。


根拠なんてとっくになくなった。


ノートの約束も、もう目には見えない。


「また、会えるから」


暗唱した。千回目か、一万回目か。


もう数えていない。


もう待ちくたびれた。


いつまで僕は消えてしまった陽炎を追いかけているのだろう。


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