55.待ち続けた日々
奏でが消えてから3年以上の月日が流れた。
2027年、8月。
大学二年生。
一人暮らしのアパート。六畳一間の狭い部屋。
世界は何も変わっていない。誰も彼女を知らない。
でも、僕の記憶だけは鮮明なままだ。
しかし、奏が消えてからの高校生活はあまり覚えていない。
◆
目覚めると、耳に飛び込んでくる音がある。
ミンミンミン。
ジリジリジリ。
窓を開ける。熱気が部屋に流れ込んだ。
「……また、来たんだな」
あの季節が。
銀色の髪の少女がいない、三度目の夏が。
◆
講義室。ノートを取る。
食堂で昼食。
図書館で課題。
友人と雑談。適当に笑う。
表面上は、ごく普通の大学生活。
誰も気づかない。僕の中に空洞があることを。
「廻、今夜サークルの飲み会あるけど」
声をかけられる。
「悪い、今日は都合が」
「最近断ってばっかじゃん。忙しいの?」
「まあね」
忙しいわけじゃない。
ただ、他人と騒ぐ気分になれないだけだ。
帰り道、コンビニに寄る。
おにぎりコーナーの前で、手が止まる。
ツナマヨ。
手に取る。
レジで会計を済ませ、公園のベンチで食べた。
味がしない。
いや、味はする。職人のこだわりとか、そういうのはわかる。
でも、何か足りない。
誰かと食べる、ツナマヨじゃない。
一人で食べる、ツナマヨ。
違う。
これじゃない。
◆
結衣とは月に一度、会っている。
彼女は美大に通い、相変わらず絵を描いていた。
駅前のカフェ。窓際の席。
「元気?」
結衣が笑いかけてくる。
「まあまあ」
「嘘。顔色悪いよ」
ずばり言われた。
「ちゃんと食べてる?」
「食べてる」
「寝てる?」
「寝てる」
「……誰か、探してるでしょ」
結衣の目が、真剣になる。
「ここにいるのに、どこか遠くを見てる。ずっと、そんな感じ」
何も言えなかった。
彼女の洞察は、いつも鋭い。
「その人、帰ってくるの?」
「……わからない」
テーブルの上で、指を組む。
「でも、約束したから」
「約束?」
「また会えるって」
結衣がカップを持ち上げる。一口飲んで、窓の外に目をやった。
「私ね、最近変な感覚があるの」
「変な感覚?」
「何か大切なものを忘れてる気がする」
結衣の声が、少し震える。
「誰かの顔、声、名前。思い出せないのに、胸が苦しくなる」
「……」
「変だよね。知らない人なのに、会いたくなるなんて」
結衣の目に、薄っすらと涙が浮かんでいた。
◆
8月31日がやってくる。
あの日から、丸3年。
早朝、電車に乗り込んだ。揺れる車内。景色が後ろへ流れていく。
神社の前で降りる。参道を抜け、裏山へ。
木々の間を進む。蝉が一斉に鳴き始めた。まるで僕を歓迎するかのように。
岩場。
見下ろせば、あの川。
変わらぬ流れ。変わらぬ色。
腰を下ろす。
「来たよ」
誰もいない空間に、声をかける。
「今年も」
雲が、ゆっくりと動いていく。
「待ってる。ちゃんと、ここで」
指先で、川面をなぞるように手を動かした。
触れない。届かない。
「いつか、って言ったよね」
青い空。白い雲。真夏の太陽。
「何年かかってもいい」
心の中で誓う。
「ずっと、ここにいる」
ふと、背後に気配を感じた。
振り向く。
樹木が揺れている。葉が擦れ合う音。
それだけ。
誰もいない。
「……そうか」
また川に目を戻す。
まだ、時じゃない。
もう少し。
もう少しだけ。
太陽が頂点を過ぎ、西へ傾き始める。
影が長くなる。
僕は夕暮れまで、ずっとそこにいた。
毎年、そうしているように。
◆
部屋に戻る。
机の上、いつもの場所に銀色のノート。
手に取り、ページを開く。
奏の筆跡。細く、丁寧な文字。
何度読み返しても、新鮮だ。
最後のページ。
『――また、会えるから』
『待っていて』
『いつか、必ず』
「……ああ」
ノートを閉じる。胸に抱く。
「何年でも」
窓を開ける。夜風が入ってくる。
星が見える。無数の光。
「おやすみ」
いつものように、呟く。
「また明日ね」
ベッドに横になる。
目を閉じる。
夢の中で、会えるかもしれない。
銀色の髪の少女に。
◆
翌朝、スマホが振動した。
結衣からのメッセージ。
『今日、時間ある? 見せたい絵があるんだけど』
『午後なら大丈夫』
『じゃあ2時、いつもの場所で』
約束の時間。カフェに入ると、結衣がすでに座っていた。
大きなスケッチブックを膝に抱えている。
「悪い、待たせた?」
「ううん、私も今来たところ」
席に座る。
結衣がスケッチブックを開いた。
「これ」
息を呑んだ。
川。
夏の川。
透明な水。岩。木漏れ日。
そして――
一人の少女。
銀色の長い髪。黒いワンピース。
水の中に立ち、こちらを見つめている。
「……奏」
声が漏れた。
「知ってるの?」
結衣が顔を上げる。
「この子」
「……ああ」
頷くしかなかった。
「空乃奏。そらの、かなで」
結衣がその名を繰り返す。
「そらの、かなで……」
「綺麗な響き」
スケッチブックを見つめ直す。
「夢に出てくるの。この子」
「……」
「誰だか、わからない。会ったこともないはずなのに」
結衣の指が、絵の上をなぞる。
「描かずにいられなかった」
「大切な人な気がして」
結衣の目から、一筋の涙が頬を伝った。
「今、どこにいるの?」
「……わからない。けど、絶対に近くにいる。そんな気がするんだ」
窓の外。夏の空。
「愛してた人なんだ」
「……そっか」
結衣が微笑む。涙を拭いながら。
「必ず会えるよ。約束したんでしょ?」
「……うん」
「じゃあ、私も一緒に待ってる。いつか、三人で会える日を」
「ありがとう、結衣ちゃん」




