54.忘却の陽炎
9月1日。
目が覚めた。
見慣れた天井。いつもの部屋。朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいる。
何も変わらない。
でも、何かが違う。
胸の奥に、空洞がある。
僕はベッドから起き上がり、隣の部屋へ向かった。
奏の部屋。
ドアノブに手をかけ、開ける。
「……」
声が出なかった。
何もない。
ベッドも、机も、カーテンも。奏の気配も、匂いも、温もりも。
すべてが消えていた。
ただの空き部屋が、そこにあった。
◆
階段を降りる。
リビングから、母さんの声が聞こえる。
「おはよう、廻」
「……おはよう」
「今日から二学期ね。早く準備しなさい」
母さんは、いつも通りだった。
何も気づいていない。
「母さん」
「ん?」
「……奏は?」
母さんの手が、止まった。
「奏?」
不思議そうに、首を傾げる。
「誰のこと言ってるの?」
心臓が、ギュッと締め付けられた。
「空乃奏。ここに、一緒に住んでた」
「廻……」
母さんが僕の額に手を当てる。
「熱はないけど……大丈夫?」
「この家には、ずっとあなたと二人よ」
母さんの目に、心配の色が浮かぶ。
「変な夢でも見たの?」
僕は何も言えず、自分の部屋に戻った。
◆
スマホを手に取る。
震える指で、写真フォルダを開いた。
あるはずだ。奏と撮った写真が。
たくさん、たくさん。
でも――
画面に映っているのは、僕だけだった。
二人で並んで撮ったはずの写真。
背景は覚えている。あの公園、あの神社、あの川。
でも、奏がいない。
僕一人が、空を見上げて笑っている。
三人で撮った写真を開く。
僕と結衣。
二人だけ。
真ん中の空間が、不自然に空いている。
まるで、誰かがそこにいたかのように。
でも、誰もいない。
「そんな……」
机の引き出しを開けた。
卒業アルバムを取り出す。
ページをめくる。
クラスの集合写真。
僕の隣の席――空席だった。
名簿のページを開く。
「あ」から順に指で追っていく。
「さ」行。
『斉藤』『佐々木』『佐藤』――
『空乃』という名前が、どこにもなかった。
世界が、奏を知らない。
記録が、写真が、記憶が。
すべてが、彼女の存在を否定している。
◆
電話をかけた。
結衣に。
コール音が三回鳴って、繋がる。
「もしもし? 廻くん?」
「結衣ちゃん」
「どうしたの? 珍しいね」
いつもの、明るい声。
「……奏のこと、覚えてる?」
沈黙。
「奏?」
結衣の声が、戸惑いを含む。
「ごめん、誰のこと?」
膝から力が抜けた。
「空乃奏。僕たちの、友達」
「廻くん……」
電話の向こうで、結衣が困惑している気配。
「その人、知らないよ」
「……そっか」
「ねえ、大丈夫? 何かあった?」
「ううん。何でもない。間違えた」
通話を切った。
結衣も、知らない。
三人で笑い合った日々を。
一緒に過ごした時間を。
何もかも、消えている。
◆
学校へ行った。
教室に入る。
クラスメイトたちが、夏休みの話で盛り上がっている。
「廻、おはよう」
「……おはよう」
視線を、ある席に向ける。
奏が座っていた席。
vendors
でも、そこには見知らぬ女子生徒がいた。
「ねえ、あの子、今日からの転入生だって」
クラスメイトが教えてくれる。
「……そう」
違う。
そこは、奏の席だ。
「奏の席なのに……」
口から、言葉が漏れた。
「ん? 何?」
「……いや、何でもない」
誰も、彼女を知らない。
この教室に、彼女がいたことを。
僕の隣に、いつも座っていたことを。
誰一人、覚えていない。
◆
放課後、一人で川へ向かった。
あの場所。
彼女が消えた場所。
水は変わらず流れている。
岩も、木々も、何一つ変わっていない。
vendors
でも、奏はいない。
「奏……」
川のほとりに腰を下ろす。
「誰も、君を知らない」
風が吹いた。
「母さんも、結衣ちゃんも、クラスの中のみんなも」
「誰一人、君がいたことを覚えていない」
水面が、夕日を反射してキラキラと光る。
「でも」
僕は空を見上げた。
「僕は覚えてる」
涙が、頬を伝う。
「君の名前も、声も、笑顔も」
「全部、ちゃんと覚えてる」
川の音だけが、静かに響いている。
「忘れない」
強く、そう誓った。
「世界が君を忘れても」
「僕だけは、絶対に忘れない」
風が、優しく吹いた。
まるで、奏が応えてくれたかのように。
「君は確かに、ここにいた」
「僕の隣に、いつもいた」
涙が止まらない。
「だから、忘れない」
「絶対に」
◆
家に帰ると、机の上に何かがあった。
銀色のノート。
あのノート。
「……これは」
手に取る。
ページを開く。
奏の文字が、そこにあった。
奏の想いが、ここに残っている。
最後のページへ。
『――相沢廻。空乃奏。』
『もし、あなたたちがこれを読んでいるなら』
『私たちは、記憶を失って、もう一度出会えたということ』
『今度こそ、幸せになってください』
『今度こそ、対等な立場で、愛し合ってください』
『そして――』
文章は、そこで途切れている。
でも、その下。
新しい文字があった。
薄く、銀色に光る文字。
まるで、今この瞬間に書かれたかのような。
『――また、会えるから』
『待っていて』
『いつか、必ず』




