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[完結]さよならの陽炎を、追いかけて  作者: 七瀬 澪
第四章 「さよならの陽炎」

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54.忘却の陽炎

9月1日。


目が覚めた。


見慣れた天井。いつもの部屋。朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいる。


何も変わらない。


でも、何かが違う。


胸の奥に、空洞がある。


僕はベッドから起き上がり、隣の部屋へ向かった。


奏の部屋。


ドアノブに手をかけ、開ける。


「……」


声が出なかった。


何もない。


ベッドも、机も、カーテンも。奏の気配も、匂いも、温もりも。


すべてが消えていた。


ただの空き部屋が、そこにあった。



階段を降りる。


リビングから、母さんの声が聞こえる。


「おはよう、廻」


「……おはよう」


「今日から二学期ね。早く準備しなさい」


母さんは、いつも通りだった。


何も気づいていない。


「母さん」


「ん?」


「……奏は?」


母さんの手が、止まった。


「奏?」


不思議そうに、首を傾げる。


「誰のこと言ってるの?」


心臓が、ギュッと締め付けられた。


「空乃奏。ここに、一緒に住んでた」


「廻……」


母さんが僕の額に手を当てる。


「熱はないけど……大丈夫?」


「この家には、ずっとあなたと二人よ」


母さんの目に、心配の色が浮かぶ。


「変な夢でも見たの?」


僕は何も言えず、自分の部屋に戻った。



スマホを手に取る。


震える指で、写真フォルダを開いた。


あるはずだ。奏と撮った写真が。


たくさん、たくさん。


でも――


画面に映っているのは、僕だけだった。


二人で並んで撮ったはずの写真。


背景は覚えている。あの公園、あの神社、あの川。


でも、奏がいない。


僕一人が、空を見上げて笑っている。


三人で撮った写真を開く。


僕と結衣。


二人だけ。


真ん中の空間が、不自然に空いている。


まるで、誰かがそこにいたかのように。


でも、誰もいない。


「そんな……」


机の引き出しを開けた。


卒業アルバムを取り出す。


ページをめくる。


クラスの集合写真。


僕の隣の席――空席だった。


名簿のページを開く。


「あ」から順に指で追っていく。


「さ」行。


『斉藤』『佐々木』『佐藤』――


『空乃』という名前が、どこにもなかった。


世界が、奏を知らない。


記録が、写真が、記憶が。


すべてが、彼女の存在を否定している。



電話をかけた。


結衣に。


コール音が三回鳴って、繋がる。


「もしもし? 廻くん?」


「結衣ちゃん」


「どうしたの? 珍しいね」


いつもの、明るい声。


「……奏のこと、覚えてる?」


沈黙。


「奏?」


結衣の声が、戸惑いを含む。


「ごめん、誰のこと?」


膝から力が抜けた。


「空乃奏。僕たちの、友達」


「廻くん……」


電話の向こうで、結衣が困惑している気配。


「その人、知らないよ」


「……そっか」


「ねえ、大丈夫? 何かあった?」


「ううん。何でもない。間違えた」


通話を切った。


結衣も、知らない。


三人で笑い合った日々を。


一緒に過ごした時間を。


何もかも、消えている。



学校へ行った。


教室に入る。


クラスメイトたちが、夏休みの話で盛り上がっている。


「廻、おはよう」


「……おはよう」


視線を、ある席に向ける。


奏が座っていた席。


vendors

でも、そこには見知らぬ女子生徒がいた。


「ねえ、あの子、今日からの転入生だって」


クラスメイトが教えてくれる。


「……そう」


違う。


そこは、奏の席だ。


「奏の席なのに……」


口から、言葉が漏れた。


「ん? 何?」


「……いや、何でもない」


誰も、彼女を知らない。


この教室に、彼女がいたことを。


僕の隣に、いつも座っていたことを。


誰一人、覚えていない。



放課後、一人で川へ向かった。


あの場所。


彼女が消えた場所。


水は変わらず流れている。


岩も、木々も、何一つ変わっていない。


vendors

でも、奏はいない。


「奏……」


川のほとりに腰を下ろす。


「誰も、君を知らない」


風が吹いた。


「母さんも、結衣ちゃんも、クラスの中のみんなも」


「誰一人、君がいたことを覚えていない」


水面が、夕日を反射してキラキラと光る。


「でも」


僕は空を見上げた。


「僕は覚えてる」


涙が、頬を伝う。


「君の名前も、声も、笑顔も」


「全部、ちゃんと覚えてる」


川の音だけが、静かに響いている。


「忘れない」


強く、そう誓った。


「世界が君を忘れても」


「僕だけは、絶対に忘れない」


風が、優しく吹いた。


まるで、奏が応えてくれたかのように。


「君は確かに、ここにいた」


「僕の隣に、いつもいた」


涙が止まらない。


「だから、忘れない」


「絶対に」



家に帰ると、机の上に何かがあった。


銀色のノート。


あのノート。


「……これは」


手に取る。


ページを開く。


奏の文字が、そこにあった。


奏の想いが、ここに残っている。


最後のページへ。


『――相沢廻。空乃奏。』


『もし、あなたたちがこれを読んでいるなら』


『私たちは、記憶を失って、もう一度出会えたということ』


『今度こそ、幸せになってください』


『今度こそ、対等な立場で、愛し合ってください』


『そして――』


文章は、そこで途切れている。


でも、その下。


新しい文字があった。


薄く、銀色に光る文字。


まるで、今この瞬間に書かれたかのような。


『――また、会えるから』


『待っていて』


『いつか、必ず』

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