53.さよならの陽炎
8月31日。
朝、目が覚めた瞬間、奏の姿がほとんど見えなくなっていた。
「奏!」
僕は慌てて意識を集中させる。
すると、かすかに輪郭が見えた。
「……おはよう」
遠くから聞こえるような、小さな声。
「行こう。今すぐ」
時間がない。
もう一刻の猶予もない。
◆
神社へ向かう道を、走った。
奏の手を引いて。
その手が、ほとんど触れているかわからない。
でも、確かに繋がっている。
裏山に入る。
蝉の声が、うるさいくらいに響いている。
真夏の太陽が、容赦なく照りつける。
岩場に着いた。
「ここだ」
僕たちは、川の中に入った。
あの場所――10年前、契約を結んだ場所に立つ。
「どうすればいい?」
「わからない。でも、やってみよう」
僕は、奏の両手を取った。
目を閉じる。
(頼む)
心の中で叫ぶ。
(契約を、解除してくれ)
(奏を、助けてくれ)
その時――
奏の手が、急に熱くなった。
「え?」
目を開けると、奏の体が光っていた。
銀色の光。
でも、前とは違う。
もっと強い光。
「奏?」
「廻くん……」
奏の声が、変わった。
少し低く、落ち着いた声。
「私、思い出した」
「何を?」
「全部」
奏が、僕を見た。
その目が、変わっていた。
いつもの優しい目じゃない。
もっと深く、悲しい目。
「全部、思い出した」
◆
光が消えた。
奏の体が、少しだけはっきりと見えるようになった。
でも、それは一時的なものだと、直感的にわかった。
「奏?」
「……ごめん、廻くん」
奏が、涙を流した。
「私、嘘ついてた」
「え?」
「契約を解除する方法なんて、ない」
その言葉に、僕の胸が凍りついた。
「何言ってるんだ」
「ノートにも書いてあったでしょ」
奏が、俯く。
「『どちらか一方が消えるしかない』って」
「でも、『第三の道』とも」
「それは、私の願望」
奏が、首を横に振った。
「本当は、ない」
「……」
「時間を巻き戻すっていうのは、世界のルールを捻じ曲げること」
奏が、説明を始めた。
「17年分の因果を、無理やり巻き戻した」
「うん」
「その代償は、必ず支払われる」
奏が、僕を見た。
「誰かが、消えなきゃいけない」
「……」
「前の世界では、廻くんが能力を使いすぎて、消えかけてた」
「うん」
「だから、私が時間を巻き戻した」
奏の声が、震える。
「代償は消えない」
「……」
「今度は、私が消える番」
奏が、微笑んだ。
「これで、終わり」
「嫌だ」
僕は、首を横に振った。
「そんなの、受け入れられない」
「でも、これが答えなの」
「じゃあ、僕が死ぬ」
「ダメ」
奏が、強く言った。
「廻くんは、生きなきゃダメ」
「奏がいない世界で、生きる意味なんて」
「あるよ」
奏が、僕の頬に手を添える。
「廻くんには、未来がある」
「……」
「結衣ちゃんがいる。お母さんがいる」
「でも」
「私の分まで、生きて」
奏の目から、涙が溢れる。
「お願い」
◆
僕たちは、川から上がった。
岩場に座る。
奏の体は、また薄くなり始めていた。
「……あとどれくらい?」
僕が聞くと、奏は空を見上げた。
「日没まで」
「日没?」
「うん。太陽が沈んだら、私は消える」
奏が、静かに言った。
「それが、期限」
見上げると、太陽がまだ高い位置にある。
でも、確実に傾き始めている。
「あと、数時間……」
僕が呟くと、奏は頷いた。
「うん。だから」
奏が、僕の手を握った。
「最後まで、一緒にいて」
「……当たり前だろ」
僕も、奏の手を握り返した。
「離すわけない」
「ありがとう」
奏が、微笑む。
「じゃあ、色々なところ、行きたい」
「どこ?」
「廻くんとの思い出の場所」
◆
僕たちは、山を降りた。
まず、神社の境内に行った。
「ここで、初めて会ったね」
奏が、境内を見渡す。
「2016年の夏」
「うん」
「私、廻くんを見た瞬間、わかったの」
「何が?」
「ああ、この子を好きになるんだなって」
奏が、恥ずかしそうに笑う。
「一目惚れ、だったのかな」
「僕も」
僕は、正直に言った。
「奏を見た瞬間、綺麗だと思った」
「……ありがとう」
次に、コンビニに寄った。
「ツナマヨ、買おう」
奏が、おにぎりコーナーに向かう。
「初めて一緒に選んだよね」
「うん」
「あの時、なんでツナマヨを選んだのか、わからなかった」
奏が、おにぎりを手に取る。
「でも、今ならわかる」
「何が?」
「前の世界でも、廻くんと一緒に食べてたから」
奏が、微笑む。
「魂が、覚えてたんだと思う」
僕たちは、おにぎりを買って、公園のベンチで食べた。
「美味しいね」
「うん」
でも、涙が止まらなかった。
これが、最後かもしれない。
奏と一緒に食べる、最後のおにぎり。
「泣かないで」
奏が、僕の涙を拭う。
「私、泣いてほしくない」
「でも……」
「笑顔で、見送ってほしい」
奏が、微笑む。
「それが、私の最後のお願い」
◆
午後、僕たちは色々な場所を回った。
小学校。
「ここで、結衣ちゃんと出会ったね」
中学校。
「ここで、初めて告白した」
いつもの公園。
「ここで、何度もデートしたね」
一つ一つの場所で、奏は思い出を語った。
「楽しかった」
「幸せだった」
「廻くんと一緒で、よかった」
その度に、僕の胸が締め付けられた。
もうすぐ、終わる。
この時間が、終わる。
◆
夕方。
僕たちは、再び川に戻った。
「ここで、最後まで一緒にいたい」
奏が、川のほとりに座った。
「ここが、始まりの場所だから」
僕も、奏の隣に座った。
太陽が、西の空に傾いている。
オレンジ色の光が、川面を染めている。
キラキラと、陽炎が揺らめいている。
「ねえ、廻くん」
奏が、川に足を浸した。
「覚えてる? 私の名前、つけてくれた時のこと」
僕は、頷いた。
「あの時ね、すごく嬉しかった」
奏が、微笑む。
「私、それまで名前がなかったから」
「誰も私を呼んでくれなかった」
奏が、空を見上げる。
「でも、廻くんが『奏』って呼んでくれて」
「初めて、私は私になれた気がした」
「『そらの かなで』って、すごく綺麗な名前でしょ?」
奏が、自分の手を見つめる。
「私、この名前が大好き」
「廻くんがくれた、大切な名前」
奏が、涙を拭う。
「あのね、小学校の時」
「初めてツナマヨのおにぎり、一緒に食べたでしょ?」
「あの時、廻くんが『僕もそれにしようかな』って言ってくれて」
「すごく嬉しかった」
「同じものを食べてるって、なんか特別な気がして」
奏が、恥ずかしそうに笑う。
「それからずっと、私たちの定番になったよね」
「毎日、一緒にツナマヨ」
「飽きなかった。全然、飽きなかった」
「だって、廻くんと一緒だったから」
僕の目から、涙が流れ始めた。
奏は、それに気づいたけど、何も言わなかった。
ただ、話し続けた。
「中学校の時も、楽しかったな」
「クリスマスパーティで、サンタのコスプレしたでしょ?」
「あれ、すっごく恥ずかしかったんだけど」
奏が、笑い出す。
「でも、廻くんが『似合ってるよ』って言ってくれて」
「それで、恥ずかしいの、吹き飛んじゃった」
「廻くんの言葉って、いつも私を勇気づけてくれた」
「高校の文化祭も、そう」
「ウェイトレスの服、着た時」
「クラスのみんなが私のこと見てて、怖かったの」
「でも、廻くんが隣にいてくれたから」
「大丈夫だった」
奏が、僕の手を握った。
「あのね、廻くん」
「私ね、毎日が幸せだった」
「朝、起きて、廻くんの顔を見る」
「一緒に学校に行く」
「お昼、一緒にお弁当食べる」
「放課後、一緒に帰る」
「そして、また明日」
奏の声が、震え始める。
「その繰り返しが、すごく幸せだった」
「特別なことなんて、何もなくても」
「廻くんと一緒にいるだけで、毎日が特別だった」
奏が、涙を流す。
僕も、泣いていた。
でも、何も言えなかった。
言葉が、出てこなかった。
その時、奏の指先が光った。
銀色の光。
「あ……」
奏が、自分の手を見る。
指先が、透けている。
消え始めている。
「もう、時間なんだ」
奏が、震える声で言った。
「ねえ、廻くん」
「怖いこと、言ってもいい?」
僕は、ただ奏を見つめた。
「私ね、消えるのが怖い」
奏の目から、涙が溢れる。
「すごく、怖い」
「でも、それ以上に怖いのは」
「廻くんに忘れられること」
奏が、俯く。
「私が消えたら、世界から私の記憶も消えるかもしれない」
「写真も、記録も、全部」
「そうしたら、廻くんも忘れちゃうかもしれない」
「でも」
奏が、顔を上げる。
「お願い」
「もし、忘れても」
「どこかで、思い出して」
「銀髪の女の子がいたこと」
「その子が、廻くんのことを、すごく愛してたこと」
奏の手が、さらに透けていく。
肘まで、光になっている。
でも、奏は話し続けた。
「あのね、私、廻くんの好きなところ、たくさんあるの」
「優しいところ」
「私を、ずっと見ててくれたところ」
「誰も見えなくなった私を、最後まで見続けてくれた」
奏の体が、胸まで光になっている。
「あの一ヶ月、本当に辛かったと思う」
「ごめんね、苦しませて」
「でも、ありがとう」
「廻くんがいてくれたから、最後まで頑張れた」
僕は、奏の手を強く握った。
その手が、もう透けて、触れているかわからない。
でも、握り続けた。
「私、廻くんと出会えて、本当によかった」
奏の体が、首まで光になった。
もう、顔と髪だけ。
「10年間、ありがとう」
「毎日、楽しかった」
「笑ったり、泣いたり、怒ったり」
「全部、全部、宝物」
「結衣ちゃんとも、友達になれた」
「お母さんにも、優しくしてもらった」
「みんな、みんな、大好き」
「でも、一番好きなのは」
奏が、微笑む。
「廻くん、あなただよ」
奏の体が、ほとんど消えかけている。
顔だけ、かすかに見える。
「ねえ、最後に、一つだけ」
「泣かないで」
僕の涙が、止まらない。
「私、廻くんの笑顔が好きだから」
「最後も、笑顔で見送ってほしい」
でも、僕は笑えなかった。
涙が、溢れて止まらなかった。
「ごめんね、我儘言って」
奏が、優しく笑う。
「でも、廻くんは強いから」
「きっと、大丈夫」
「また、笑顔になれるから」
奏の姿が、もうほとんど見えない。
声だけが、聞こえる。
「ありがとう、廻くん」
「名前を、くれて」
「愛してくれて」
「見続けてくれて」
「楽しかったよ」
「本当に、楽しかった」
「毎日が、幸せだった」
「廻くんと一緒で、よかった」
太陽が、地平線に触れた。
「また、会えるかな」
「いつか、どこかで」
「また、廻くんに会えたら」
「今度こそ、ずっと一緒にいられるかな」
奏の声が、どんどん遠くなる。
「じゃあ、行くね」
「元気でね、廻くん」
「大好き」
「ずっと、ずっと、大好きだった」
「廻――」
その言葉が、途切れた。
銀色の光が、一瞬強く輝いた。
そして――
消えた。
奏の姿が、完全に消えた。
声も、聞こえない。
気配も、感じない。
何も、残っていない。
僕は、手を伸ばした。
「……奏」
ようやく、声が出た。
「奏……」
涙が、溢れる。
「奏!」
叫んだ。
「奏!!」
でも、返事はない。
「戻ってきてくれ……」
川は、静かに流れている。
「奏……!」
僕は、膝をついた。
「嘘だろ……」
「奏……」
声を上げて、泣いた。
「ごめん……」
「何も、言えなかった……」
「ありがとうも、言えなかった……」
「好きだって、ちゃんと言えなかった……」
「ごめん……奏……」
「ごめん……」
太陽が、完全に沈んだ。
空が、暗くなっていく。
星が、瞬き始める。
僕は、川のほとりで、一人、泣き続けた。
「奏……」
「奏……」
何度も、何度も、名前を呼んだ。
でも、返事はない。
もう、二度と返事は返ってこない。
夜風が、優しく吹いた。
まるで、奏が触れてくれたかのように。
「約束……守れなかった……」
「笑顔で、見送れなかった……」
「ごめん……」
川は、ただ静かに流れ続けている。
奏がいた場所に、もう何もない。




